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金融サスペンス小説『トリプルAの空売り』  作者: 如月妙美


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第二章 堕ちた偶像

小章① ブラック・チューズデー

 翌火曜日、午後三時。  東証の取引終了と同時に、東都格付研究所はプレスリリースを配信した。

 『帝都重工の長期発行体格付を「AAA」から「AA-」へ2段階引き下げ。見通しは「ネガティブ(弱含み)」』

 そのニュースは、瞬く間に金融街を駆け巡った。  たった一枚の紙切れ(リリース)が、巨大企業の運命を変えた瞬間だった。  PTS(私設取引システム)の夜間取引で、帝都重工の株価は暴落した。ストップ安気配。  ネット掲示板やSNSは阿鼻叫喚の様相を呈している。  『帝都重工に何があった?』  『隠し債務か? 粉飾か?』  『TCRがここまで下げるなんて、よっぽどの悪材料があるに違いない』

 市場は「理由」を探してパニックになっていた。TCRがレポートに書いた「将来の不確実性」という曖昧な言葉を、投資家たちは勝手に「倒産リスク」と解釈し、恐怖を増幅させていく。  予言の自己成就。  格下げが信用不安を呼び、それが資金繰りを悪化させ、本当に企業を危機に陥れる。

 結城は、自室のテレビでニュースを見ていた。  経済番組のコメンテーターが、もっともらしい顔で解説している。 「今回の格下げは、日本製造業の衰退を象徴する出来事です。東都格付研究所の英断と言えるでしょう」  英断だと?  結城はリモコンを投げつけたくなった。  これは詐欺だ。マッチポンプだ。

 その夜、結城は大学時代の同期であり、現在は外資系証券会社『ダビデ・ブラザース』でトレーダーをしている冴子さえこを呼び出した。  場所は、神楽坂の隠れ家的な割烹。

「……ひどい顔ね、まもる

 冴子は日本酒を注ぎながら言った。彼女は三十六歳、独身。切れ長の目が印象的な美女だが、その中身は男勝りの勝負師だ。

「帝都重工の件でしょう? 市場は大荒れよ。ウチの顧客も大損したわ」

「冴子、教えてくれ。今回の暴落で、誰が一番儲けた?」

 結城は単刀直入に聞いた。

「……やっぱり、そこに気づいた?」

 冴子は声を潜めた。

「『ヴァルチャー・ファンド』よ」

「ハゲタカか」

「正確には、シンガポールに拠点を置く『フェニックス・タイタン・キャピタル』。彼らは、3ケ月前から、特に先週から、急激に帝都重工を執拗に空売りしていたわ。さらに、CDSクレジット・デフォルト・スワップも買い漁っていた」

 CDS。企業の倒産リスクを対象とした保険のような金融派生商品だ。格下げによって信用リスクが高まれば、CDSの価格は跳ね上がる。  株の空売りと、CDS。ダブルで空前の利益を得ているはずだ。

「フェニックス・タイタンのバックにいるのは誰だ?」

「表向きは英国人のファンドマネージャーだけど、資金の出所は不明。……ただ、噂があるわ」

 冴子は周囲を警戒し、結城の耳元で囁いた。

「日本の『フィクサー』が絡んでいるって。政財界の裏情報を金に変える、伝説の相場師」


小章② 市場の魔術師

 翌日。  結城は、黒田部長の動向を探ることにした。  もし黒田がそのファンドと繋がっているなら、必ずどこかで接触を持っているはずだ。  定時後、会社を出た黒田を尾行する。  黒田はハイヤーに乗り込み、赤坂の料亭『松風』に入っていった。  一見さんお断りの高級料亭だ。

 結城は裏口に回り、従業員の出入りを監視した。  一時間後。  一台の黒塗りのセンチュリーが到着した。  降りてきたのは、車椅子に乗った老人だった。  年齢は八十近いだろうか。酸素吸入器をつけ、毛布にくるまっているが、その目は異様なほどぎらついている。  付き人の男たちに囲まれ、老人は料亭の中へと消えた。

(あれは……)

 結城は記憶を手繰り寄せた。  雑誌で見たことがある。  鬼頭きとう 玄三げんぞう。  かつて「兜町の魔王」と呼ばれ、仕手戦で巨万の富を築いた相場師。現在は引退し、表舞台からは姿を消していたはずだが……。

「黒田部長と、鬼頭玄三……?」

 点と線が繋がろうとしていた。  格付け会社という「神の視点」を持つ者と、市場を操る「悪魔」。  この二人が手を組めば、どんな優良企業でも意のままに屠ることができる。  帝都重工は、彼らのマネーゲームの生贄に選ばれたのだ。

 結城が物陰からスマホで写真を撮ろうとした瞬間、背後に気配を感じた。

「……何をしている?」

 低い声。  振り返ると、鬼頭の付き人と思われる、屈強な男が立っていた。  耳にはインカム。懐には何かの膨らみがある。

「いや、道に迷ってしまって……」

 結城はごまかそうとしたが、男は無言で結城の腕を掴み上げた。  万力のような力だ。

「社長がお呼びだ。来てもらおうか」

 抵抗する間もなく、結城は料亭の中へと引きずり込まれた。  格調高い日本庭園を抜け、離れの座敷へ。  そこには、黒田と鬼頭が向かい合って座っていた。  卓上には、手付かずの懐石料理と、封が開けられたアタッシュケース。  中には、札束が詰まっていた。

「おや、結城君じゃないか」

 黒田が驚いたように目を丸くした。その顔は酒で赤らんでいたが、一瞬で蒼白になった。

「部長……。これが、格下げの理由ですか」

 結城はアタッシュケースを睨みつけた。

「賄賂を受け取って、偽の格付けを出したんですね。帝都重工を売り崩すために」

 黒田は狼狽し、言葉を詰まらせた。  代わりに口を開いたのは、車椅子の老人、鬼頭だった。

「威勢がいい若者だねぇ」

 鬼頭の声は、擦れ枯れてはいたが、部屋の空気を支配する重みがあった。

「賄賂? 人聞きが悪い。これは『コンサルティング料』だよ。黒田さんには、日本経済の健全な新陳代謝のために協力してもらっただけだ」

「新陳代謝? 優良企業を破壊することがですか?」

「破壊こそが創造の母だ。安住した企業は腐る。一度地獄を見せて、這い上がれる者だけが本物なのだよ」

 鬼頭はクックッと喉を鳴らして笑った。  狂っている。  自分の利益のために市場を壊し、それを経済論理で正当化している。

「さて、見られてしまったものは仕方がない。……黒田さん、彼をどうする?」

 鬼頭が黒田に問いかけた。  黒田は脂汗を流しながら、結城を見た。その目には、殺意というよりは、保身のための冷酷な決意が宿っていた。

「……彼は優秀なアナリストでしたが、残念ながら精神を病んでしまったようです。妄想に取り憑かれて、上司をストーキングするほどにね」

 黒田は立ち上がった。

「結城君。君は明日から来なくていい。懲戒解雇だ。そして、もし今日のことを口外すれば……君のキャリアだけでなく、人生そのものが終わるぞ」

 付き人の男が、結城を羽交い締めにした。  結城は唇を噛んだ。  ここでは勝てない。権力と暴力、そして金の前では、正論など無力だ。  だが、このまま終わらせるわけにはいかない。

「……覚えておいてください。格付け(レーティング)は、投資家との約束だ。それを破った報いは、必ず受けることになりますよ」

 結城は黒田と鬼頭を睨みつけ、料亭を追い出された。  夜の赤坂。冷たい風が吹き抜ける。  職を失い、巨大な敵を作った。  だが、結城の心には、不思議と恐怖はなかった。あるのは、燃えるような怒りと、真実を暴くという決意だけだった。


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