第一章 市場の「審判」の誤審
小章① 不条理な命令
十一月、曇天の月曜日。 東京・茅場町。証券会社が建ち並ぶこの街の一角に、重厚な石造りのビルがある。 『東都格付研究所(TCR)』。 日本最大手クラスの信用格付け機関であり、企業の財務状況を分析し、「AAA」から「D」までの記号でランク付けする、金融市場の「審判」だ。 その格付け一つで、企業の資金調達コストは激変し、時には株価を暴落させ、倒産にさえ追い込む力を持つ。
シニア・アナリストの結城 守は、二十階の執務室で、最終的なクレジット・レポート(格付け報告書)を作成していた。 三十六歳。細身の体に仕立ての良いスーツを纏い、感情を表に出さない能面のような表情は、社内で「精密機械」とあだ名されている。 彼が担当しているのは、国内重電最大手『帝都重工』の定期見直し(レビュー)だ。
「……完璧だ」
結城は呟き、エンターキーを押した。 帝都重工の財務内容は盤石だ。自己資本比率は高く、海外の発電プラント事業も順調。キャッシュフローにも懸念はない。 結論は『AAA(安定的)』の維持。 国内企業でトリプルAを持つ数少ない優良銘柄であり、投資家からの信頼も厚い。
「結城君、ちょっといいかな」
背後から声をかけられた。 企業格付部長の黒田だ。白髪をオールバックにし、恰幅の良い体躯を持つ彼は、業界の顔役として知られているが、その強引な手法には批判も多い。
「黒田部長。帝都重工のレポートですか? 今、提出しようと……」
「ああ、それだがね」
黒田は結城のモニターを覗き込み、眉をひそめた。
「トリプルA維持? ……少し、甘いんじゃないか?」
「甘い? 定性・定量分析ともに、格下げ(ダウングレード)の要因は見当たりません。むしろ、海外事業の収益性は向上しています」
「数字の上ではな。だが、我々は将来のリスクを見なければならん」
黒田はデスクの端に腰掛け、声を潜めた。
「実は、上層部から懸念が出ているんだ。帝都重工が開発中の次世代タービンに、重大な欠陥があるという噂がある」
「噂? 初耳です。先週のCFO(最高財務責任者)との面談でも、そんな話は出ませんでした」
「隠しているのさ。企業というのは、都合の悪いことは隠すものだ。……結城君、今回の格付けは『AA-(ダブルエー・マイナス)』に引き下げたまえ」
結城は耳を疑った。 AAAから、一気に二段階の格下げ。しかも、明確な根拠なしに。 これは市場に激震を走らせる「事件」になる。
「部長、それは無理です。噂レベルの話で格下げなどできません。そんなことをすれば、当社の信頼に関わります」
「これは決定事項だ」
黒田の声が低く、ドスの利いたものに変わった。
「格付け委員会でも、私が責任を持って説明する。君は、それに合わせてレポートを書き直せばいい。……将来のリスクを先取りして警告を発するのも、我々の重要な使命だぞ」
それは詭弁だ。 アナリストとしての矜持が、激しく拒絶していた。 だが、黒田の目は笑っていなかった。逆らえば、この業界で生きていけなくなるぞという、無言の圧力がそこにあった。
「……承知しました。ただし、レポートには『将来の不確実性を考慮し』という文言を付け加えさせていただきます。具体的な欠陥については言及できません」
「それでいい。賢明な判断だ」
黒田は満足げに頷き、去っていった。 結城はデスクに突っ伏した。 なぜだ。 帝都重工ほどの巨大企業を、根拠薄弱な理由で格下げする。そこには、純粋な信用分析とは別の、政治的あるいは金銭的な力学が働いているとしか思えなかった。
小章② 見えざる手
その日の午後。 結城は、気晴らしにビルの屋上へ出た。 灰色の空の下、東京の金融街が広がっている。あの中で、無数の金が、誰かの思惑で動いている。
ふと、スマホで株式市場の動向をチェックした。 帝都重工の株価。 今はまだ平穏だ。2500円前後で推移している。 だが、明日の午後三時三十一分、市場のクローズ直後にTCRが格下げを発表すれば、この株価は暴落するだろう。機関投資家たちは、内規で「トリプルA以外の保有を制限」しているところも多い。機械的な売り注文が殺到し、パニック売り(セリング・クライマックス)が起きるはずだ。
「……ん?」
結城は、ある数値に目を止めた。 『信用売り残(空売り残高)』。 ここ数日で、帝都重工の空売りが急増している。 通常、安定した優良企業の株を大量に空売りするリスクを冒す投資家はいない。株価が上がれば、青天井で損失が出るからだ。 しかし、何者かが、過去3ケ月間に百億円規模で「売り」を仕掛けている。
(誰かが、知っているのか?)
明日の格下げを。 株価が下がることを事前に知っている人間が、インサイダー取引を仕掛けている? もしそうなら、黒田部長の不可解な命令も辻褄が合う。 誰かが黒田に情報を流させ、あるいは指示し、意図的に格下げを行わせて暴利を貪ろうとしているのだ。
結城は、震える手で画面をスクロールした。 空売りの主体は、特定の手口(手口情報)から推測するに、外資系のヘッジファンドのようだ。 『ハゲタカ』。 彼らは、腐肉の匂いを嗅ぎつけて集まってくる。今回は、生きている獲物を殺して腐肉にするつもりか。
その時、屋上のドアが開いた。 入ってきたのは、同じ部署の若手女性アナリスト、美咲だった。
「先輩、ここにいたんですか。……顔色が悪いですよ」
「ああ、少し考え事をしていてな」
結城はスマホをポケットにしまった。
「美咲。……もし、格付けが操作されているとしたら、どう思う?」
「えっ? そんなこと、あるわけないじゃないですか。私たちは公正中立がモットーですよ」
美咲は笑ったが、結城は笑えなかった。 かつて、サブプライムローン問題の際、格付け会社が腐った債権にトリプルAを付与し、世界金融危機を招いたことは記憶に新しい。 格付け会社もまた、営利企業なのだ。 発行体(企業)から手数料をもらって格付けをする「発行体課金モデル」の構造的欠陥。 だが、今回は逆だ。 金を払ってくれる顧客を、裏切ろうとしている。 そこには、手数料以上の「莫大な利益」が絡んでいるはずだ。
「……忘れてくれ。独り言だ」
結城は美咲に背を向けた。 証拠はない。あるのは、不自然な命令と、異常な空売りのデータだけ。 だが、アナリストとしての直感が告げている。 これは「殺人」だ。 企業の信用を殺し、投資家を殺す、完全犯罪だ。




