桃色のシチュー(前編)
「どいつもこいつも、美しさっていうのをまるでわかっちゃいない!」
ニコライ・ヴォルコフは、霧の森を毒付きながら歩いていた。
猫背気味の長身に、冬の湖を思わせる冷え切った青灰色の瞳が印象的な男だ。
白磁のような肌と、繊細なノミで削り出されたような鼻筋が美しい男ではあるが、左右で長さの違うざんばら切りの長い黒髪と、あちこち絵の具の飛び散った薄汚れたシャツが、その美貌を台無しにしていた。
「やれ『もっと皺をなくせ』だの、『もっと肉を削いで目を大きく描け』だの…そんな嘘を描いて、被写体の人間の美しさが滲み出るかってんだ!」
ニコライはズボンのポケットに手を突っ込みながら、足元の小石を蹴り飛ばす。
彼は売れない画家だった。
決して技術が足りないわけではない。むしろ、一度見た景色を忘れることなく描ける彼は、画家として天賦の才を授かったと言っても過言ではない。
しかし如何せん彼は、客の要望に一切取り合わなかった。裕福な老女に『皺を極力描かずに』と言われても、ふくよかな大商人の娘に『婚約者へ姿絵を送るから、いつもより細身に描くように』と言われても、彼はありのままを描き――当然のことながら、激怒した顧客によって追い返される日々だった。
今日もまた、怒り狂った顧客に絵の具や荷物を投げつけられ、こうして不貞腐れて森を歩いている。
「はぁ…。そんなに皆、知らない誰かが勝手に決めた、美しさの基準の中に居たいもんかね。」
ニコライは大きなため息をついて、空を見上げた。
見上げた空では、分厚い雲が折り重なって層を成しており、灰色の絵の具を何回も重ねたような暗い色をしていた。
(…今の俺の気持ちにぴったりな色だ。もっとこう、不安定なのに完成形であるような、矛盾を絵で表現できたらいいんだが…。)
ふとニコライがそんなことを考えていると、白いキャンバスのような霧の向こうから「それ」が現れた。
「…なんだ、この造形は。狂っている。狂っているが――最高に美しいじゃないか!」
鳥の脚を模した不気味な古木に、歪んだ大木のような家。構図的には「間違い」だらけだろうそのシルエットが、霧の中で奇跡的な均衡を保っている。
ニコライはトランクからキャンバスをひったくるように取り出し、そのまま鉛筆を走らせた。
――鉛筆が紙を削る、ガリガリ、シャッシャッ、という音が、何時間響いたことだろうか。
日を遮っていた分厚い雲の隙間から日が差し込み始めても、ニコライは手を止めなかった。
彼は集中していた。故に、彼が描いている家の扉から、女店主が怪訝そうな顔で出てきたことなど、今の彼にとってはどうでもよかった。
「……あの、そんなところで何を?」
霧の中から現れた絵具まみれの男が、家の前の地べたに座り込んでから数時間。
エレナはついに、自分からニコライに話しかけた。
「少し静かにしていてくれ、造形が整いすぎて退屈な女。家の前を占拠しているのは謝るが、俺は今、この家の『完璧な不完全さ』を表現するのに忙しいんだ。…それに、あと少しで終わる。」
「はあ。そうなのね。」
エレナは、呆れを通り越して感心した。それと同時に、ニコライに興味が湧いた。
ここに辿り着く人間からは皆、何かしらの焦燥感や余裕のなさを感じるものだ、だが、ここまで清々しく自分の都合を押し付けてくる人間も珍しい。
エレナは椅子を持ってくると、庭の日陰になっている位置にそれを置き、そのまま読書を始めた。
エレナが本のページをめくる音と、ニコライが鉛筆を走らせる音だけが響くこと数十分。
「できたぞ…!うん、なかなか良い出来だ。」
「それは良かったわね。ところで、泥と鉛筆と絵の具でひどい有様よ。中に入って綺麗にしていったら。」
地べたに這いつくばっていたニコライのズボンは泥にまみれ、シャツは元々絵の具だらけだったところに泥が飛び散ってひどい有様だ。
加えて、鉛筆で真っ黒になった手で顔を掻いたので、彼の頬も黒く汚れていた。
「いや、いい。早く帰ってこの絵に色を付けたいからな!気遣いだけ感謝しておく。」
「これを見てみなさいな。」
エレナは銀の手鏡をニコライの前にずいと差し出した。
ニコライは鏡に映る自分を見て、顎に手を当てた。
「…ふむ。このまま帰ったら、いよいよ大家に追い出されそうだ。ありがたく中に入らせてもらおう。」
「わかればよくてよ。」
エレナはニコライを扉の中に入れると、カウンター奥の棚から、何やら薬草の束を取り出した。
ニコライは泥だらけのまま、興味深そうに家の中をあちこち見渡している。
エレナは手に持った薬草の束をニコライに押し付けると、パチンと指を鳴らした。
「おわっ!?熱っ!!なんだこれは!!!」
訳もわからず薬草の束を持たされたニコライは、突如として熱い蒸気に身を包まれた。
白樺の香りのする蒸気の霧が一瞬立ち込め、そして――霧が晴れる。
そこには、汚れの一つも残らずさっぱりと綺麗になったニコライが、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔で立ち尽くしていた。
「これは…どういう理屈なんだ?」
「理屈というか…あなたたちのいう、魔法みたいなものよ。あなたがあまりにも汚れていたから、蒸し風呂の精霊の力を少し借りたの。」
エレナの言葉を聞き終えると、ニコライは子供のように頬を紅潮させ、目を輝かせた。早足でエレナに駆け寄ると、その手を力強く――貴婦人を扱うような優雅さではなく、珍しい鉱石でも見つけたかのような力強さで――握りしめる。
「さっきは『退屈な女』なんて言って悪かった! 撤回する! 今日はなんて素晴らしい日だ、こんな未知の体験に出会えるなんて! 俺はニコライ・ヴォルコフ。あんた、名前は?」
「……エレナよ」
「エレナか。いい響きだ。なあ、あんたのことをもっと教えてくれよ。」




