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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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8/20

いつものパンケーキ(後編)


 淡い光の(もや)が瓶の水面から浮かび上がり、アンナの目の前で徐々に一冊の本を形作っていく。


「これは……。」


 光の本のページが風もないのにめくれ、アンナの過去を映し出した。

 初めはひどい出来映えだった絵を、指を絵具で汚しながら何度も練習している自分。

 どうしても解けない計算問題に、夜更けまで泣きそうな顔で向き合っている自分。

 ぐちゃぐちゃだった毛糸の編み物の作品が、少しずつ整っていく喜びを知ったあの冬。


「…私、最初から何でもできたわけじゃ、なかったんだわ。」


 アンナは震える声で呟いた。

 いつの間にか自分は、「過去の栄光」という名の殻に閉じこもっていただけだった。

 いつか誰かが「本当のあなたを見つけた」と迎えに来てくれて、自分の人生を変えてくれる……そんな他力本願な夢を見て、動けなくなっていたのだ。


 村を出る前も、出た後も、自分は天才なんかじゃなかった。

 ただ、少なくともあの頃の自分は、知らないことを知るのが楽しくて、指を汚して、夜を徹して、泥臭くあがき続けることのできる「一生懸命な子供」だったはずだ。


 今の自分はどうだろう。

 都会で少し自分という存在を無視されたくらいで、傷つくのが怖くて、自分から何かを変える勇気を捨ててしまった。

 毎日を、安定しているけれど退屈な日々で「焼き増し」にしていたのは、自分自身だ。


「退屈な日々を繰り返すことを選んでいたのは…私自身だったのね。」


 アンナは目尻に溜まった涙をそっと指で拭ってから、不安そうな目でエレナを見つめた。


「でもエレナさん。私、今年で二十八よ。世間では立派な行き遅れだし、何かを変えるにはもう遅すぎるの。もっと早く、自分を見つめ直していたら良かったのに…。」


 その言葉が空間に落ちた瞬間、キッチンからパチパチ、と軽やかな音が弾けた。

 沈黙を破ったのは、芳醇なバターの香りと、フライパンの中から「ひっくり返せ」と叫んでいる生地の焼ける音だ。


「…その前に。パンケーキが焼けたわよ。まずは、それを食べてからにしましょうか。」


 エレナはそう言ってフライパンの前に戻ると、蓋を開けてパンケーキをひっくり返した。

 蓋を開けた瞬間、ふわりと甘い香りがたちのぼる。


 黄金色のパンケーキには、美しいマーブル模様の焼き目がついていた。

 エレナは縁で泡立つバターを余すことなくパンケーキと一緒に掬い上げると、透き通るまで煮込まれたりんごと、雪のように真っ白なサワークリームをそこへ添える。

 仕上げに振りかけられたのは、見慣れない茶色の粉だった。


「さぁ、できたわよ。召し上がれ。」


 きらきら光るバターとりんごの芳香にアンナはごくりと喉を鳴らし、堪らずナイフとフォークを手に取った。


(…えぇーい! 一旦考えるのはやめ! 今は甘いものに集中よ!)


 フォークを入れると、カリッとした表面の向こうで、蒸したてのじゃがいもの熱い湯気と甘さが躍り出た。


「…!!美味しい!!」


 モチモチとした生地の甘みを、りんごの爽やかな酸味が追い越していく。それをサワークリームのコクが優しく包み込み、最後に鼻に抜けるのは、甘くスパイシーな、魔法のような香り。

 次の一口を運ぶ手が、自分でも驚くほど止まらない。


「なんだか、普段食べるりんごよりも香りが良い気がするんだけど…何か特別なこととかしてます?」

桂皮(シナモン)よ。普通は生薬として使われるものだけど…りんごの香りととても合うの。」

「…ふふっ。魔女の秘密のレシピ?」

「そんなところよ。」


 パンケーキを食べながらエレナと軽口を叩いていると、なんだか心が軽くなってくるようだ。


(…なんだ。じゃがいもだって、主役になれるじゃん。)


「ねぇ。せっかく一緒に作ったんだし、エレナさんも隣で一緒に食べようよ。」


 誘われたエレナは、一瞬だけ、時が止まったようにきょとんとした。

 それから、まるで初めて宝物を手にした少女のように頬を染め、口元を綻ばせる。


「…ありがとう、ご一緒させていただくわ。」


 その後、エレナとアンナは他愛もない話を続けた。

 アンナの何でもないような話を、エレナは嬉しそうに相槌を打って聞いてくれた。


 一緒に食後のお茶を飲んでいるときだった。エレナはふと穏やかな目で、アンナを見つめた。


「ねぇ。私思うのだけれど…『いつもの日々』を変えるのって、すごく小さなことからでもいいんじゃないかしら。」

「小さなこと?」

「そう。私の考えでしかないけれど――『いつも通りの退屈な日々』の中にも、あなたが自分で選んできた『好きなこと』が、たくさんあるはずよ。」


 アンナは目を丸くしてエレナを見た。


(…確かに、そうかもしれない。)


 華やかな薔薇よりも、実はガーベラのような可憐な花が好き。

 シャキシャキのキャベツよりは、ホクホクとしたじゃがいもが好き。

 瑞々しいぶどうよりも、甘酸っぱくてシャリシャリした歯応えのりんごの方が好き。


「自分の『好き』で満たされた日々が、退屈に感じてきたら。ほんの少しだけ、『いつも通り』からはみ出してみるの。案外、それだけで世界の見え方は変わるものよ…今日のパンケーキみたいにね。」


 アンナは、エレナの言葉を噛み締めるように頷いた。

 自分の『いつも通り』の日々は――勿論、惰性で選んでしまったものもあるけれど。その大半は、自分が「好き」で選び取ってきた欠片で形作られている。

 そう思った瞬間、無味乾燥な土の色に見えていた自分の毎日が、鮮やかな色彩を帯びて動き出したような気がした。


(……考えようによっては、『毎日同じ日が当たり前に続く』っていうのも、ひとつの奇跡なのかも。)


「…そうね。きっとそうだわ。よし!このパンケーキも、今日から私の定番料理に決まりよ!」

「ふふっ、良いと思うわ。じゃあこれを。」


 エレナは、小ぶりな紙袋をアンナへと手渡した。

 中を開けると、桂皮(シナモン)の良い香りがふわりと漂った。


「エレナさん…。ありがとう。心が曇りそうになった時、この魔法を振りかけることにするわ。」


 エレナは優しく微笑み、店の重厚な扉を開いた。


「あなたの瓶詰めの時間は、もうおしまい。……今度は迷わずに、あなたの道を選べますように。」


 アンナはエレナの手を一度だけ強く握ると、少し潤んだ瞳で、晴れやかな笑みを浮かべた。


「ありがとう!」


 ここに来た時とは違う、凛とした声でお礼を告げる。

 アンナはそのまま、光に満ちた扉の向こう側へと、軽やかな足取りで踏み出していった。



 扉の外を出ると、そこは昼間に自分が足を踏み入れたはずの、木立の入り口だった。


 太陽はまだ頭上の高いところで、燦々と木々を照らしている。

 随分長いこと話し込んでいた気がするが、扉の外はあまり時間は経っていないようだった。

 

 何を探すわけでもなく市場の外れの方を歩いていると、刺繍糸が露店に出ていた。


 ふと、その中に置いてある深い藍色(インディゴ)の糸に目が止まり、足を止める。

 しゃがみ込んで見てみると、なかなか良い品質の糸のようだ。染まり方も均一で、美しい色をしている。

 決して可愛い値段ではないが、変えなくはない金額だ。


 刺繍糸と睨めっこをしていると、奥から店主が出てきた。


「お嬢ちゃん、刺繍をやりたいのかい?初心者には難しいと思うよ。何か刺繍柄のものが欲しいなら、既製品もいくつかうちに置いてあるけど。」


 アンナはふっと笑って、店主を仰ぎ見た。

 ポケットの中にある桂皮(シナモン)の香りが、お守りのように自分を包んでくれている気がした。


「…いいの!最初は下手くそでも。おばさん、ハンカチへ刺繍をしたいんだけど、やり方を教えてくれない?」


 アンナは脳裏に、あの不思議なお店の女店主の顔を思い浮かべる。

 深い紺と銀色(プラチナ)と、純白のエプロンが似合う、優しい彼女。


(…綺麗に刺繍できたら、彼女にプレゼントしよう。)


 そして伝えるんだ。



 ――出会ってくれてありがとう、私と友達になって、って。



アンナの物語、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました!

もし少しでもいいなと思っていただけたら、評価やコメントをいただけると嬉しいです。


次回はいよいよ、サブタイトルにもある画家の登場です。


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