いつものパンケーキ(後編)
淡い光の靄が瓶の水面から浮かび上がり、アンナの目の前で徐々に一冊の本を形作っていく。
「これは……。」
光の本のページが風もないのにめくれ、アンナの過去を映し出した。
初めはひどい出来映えだった絵を、指を絵具で汚しながら何度も練習している自分。
どうしても解けない計算問題に、夜更けまで泣きそうな顔で向き合っている自分。
ぐちゃぐちゃだった毛糸の編み物の作品が、少しずつ整っていく喜びを知ったあの冬。
「…私、最初から何でもできたわけじゃ、なかったんだわ。」
アンナは震える声で呟いた。
いつの間にか自分は、「過去の栄光」という名の殻に閉じこもっていただけだった。
いつか誰かが「本当のあなたを見つけた」と迎えに来てくれて、自分の人生を変えてくれる……そんな他力本願な夢を見て、動けなくなっていたのだ。
村を出る前も、出た後も、自分は天才なんかじゃなかった。
ただ、少なくともあの頃の自分は、知らないことを知るのが楽しくて、指を汚して、夜を徹して、泥臭くあがき続けることのできる「一生懸命な子供」だったはずだ。
今の自分はどうだろう。
都会で少し自分という存在を無視されたくらいで、傷つくのが怖くて、自分から何かを変える勇気を捨ててしまった。
毎日を、安定しているけれど退屈な日々で「焼き増し」にしていたのは、自分自身だ。
「退屈な日々を繰り返すことを選んでいたのは…私自身だったのね。」
アンナは目尻に溜まった涙をそっと指で拭ってから、不安そうな目でエレナを見つめた。
「でもエレナさん。私、今年で二十八よ。世間では立派な行き遅れだし、何かを変えるにはもう遅すぎるの。もっと早く、自分を見つめ直していたら良かったのに…。」
その言葉が空間に落ちた瞬間、キッチンからパチパチ、と軽やかな音が弾けた。
沈黙を破ったのは、芳醇なバターの香りと、フライパンの中から「ひっくり返せ」と叫んでいる生地の焼ける音だ。
「…その前に。パンケーキが焼けたわよ。まずは、それを食べてからにしましょうか。」
エレナはそう言ってフライパンの前に戻ると、蓋を開けてパンケーキをひっくり返した。
蓋を開けた瞬間、ふわりと甘い香りがたちのぼる。
黄金色のパンケーキには、美しいマーブル模様の焼き目がついていた。
エレナは縁で泡立つバターを余すことなくパンケーキと一緒に掬い上げると、透き通るまで煮込まれたりんごと、雪のように真っ白なサワークリームをそこへ添える。
仕上げに振りかけられたのは、見慣れない茶色の粉だった。
「さぁ、できたわよ。召し上がれ。」
きらきら光るバターとりんごの芳香にアンナはごくりと喉を鳴らし、堪らずナイフとフォークを手に取った。
(…えぇーい! 一旦考えるのはやめ! 今は甘いものに集中よ!)
フォークを入れると、カリッとした表面の向こうで、蒸したてのじゃがいもの熱い湯気と甘さが躍り出た。
「…!!美味しい!!」
モチモチとした生地の甘みを、りんごの爽やかな酸味が追い越していく。それをサワークリームのコクが優しく包み込み、最後に鼻に抜けるのは、甘くスパイシーな、魔法のような香り。
次の一口を運ぶ手が、自分でも驚くほど止まらない。
「なんだか、普段食べるりんごよりも香りが良い気がするんだけど…何か特別なこととかしてます?」
「桂皮よ。普通は生薬として使われるものだけど…りんごの香りととても合うの。」
「…ふふっ。魔女の秘密のレシピ?」
「そんなところよ。」
パンケーキを食べながらエレナと軽口を叩いていると、なんだか心が軽くなってくるようだ。
(…なんだ。じゃがいもだって、主役になれるじゃん。)
「ねぇ。せっかく一緒に作ったんだし、エレナさんも隣で一緒に食べようよ。」
誘われたエレナは、一瞬だけ、時が止まったようにきょとんとした。
それから、まるで初めて宝物を手にした少女のように頬を染め、口元を綻ばせる。
「…ありがとう、ご一緒させていただくわ。」
その後、エレナとアンナは他愛もない話を続けた。
アンナの何でもないような話を、エレナは嬉しそうに相槌を打って聞いてくれた。
一緒に食後のお茶を飲んでいるときだった。エレナはふと穏やかな目で、アンナを見つめた。
「ねぇ。私思うのだけれど…『いつもの日々』を変えるのって、すごく小さなことからでもいいんじゃないかしら。」
「小さなこと?」
「そう。私の考えでしかないけれど――『いつも通りの退屈な日々』の中にも、あなたが自分で選んできた『好きなこと』が、たくさんあるはずよ。」
アンナは目を丸くしてエレナを見た。
(…確かに、そうかもしれない。)
華やかな薔薇よりも、実はガーベラのような可憐な花が好き。
シャキシャキのキャベツよりは、ホクホクとしたじゃがいもが好き。
瑞々しいぶどうよりも、甘酸っぱくてシャリシャリした歯応えのりんごの方が好き。
「自分の『好き』で満たされた日々が、退屈に感じてきたら。ほんの少しだけ、『いつも通り』からはみ出してみるの。案外、それだけで世界の見え方は変わるものよ…今日のパンケーキみたいにね。」
アンナは、エレナの言葉を噛み締めるように頷いた。
自分の『いつも通り』の日々は――勿論、惰性で選んでしまったものもあるけれど。その大半は、自分が「好き」で選び取ってきた欠片で形作られている。
そう思った瞬間、無味乾燥な土の色に見えていた自分の毎日が、鮮やかな色彩を帯びて動き出したような気がした。
(……考えようによっては、『毎日同じ日が当たり前に続く』っていうのも、ひとつの奇跡なのかも。)
「…そうね。きっとそうだわ。よし!このパンケーキも、今日から私の定番料理に決まりよ!」
「ふふっ、良いと思うわ。じゃあこれを。」
エレナは、小ぶりな紙袋をアンナへと手渡した。
中を開けると、桂皮の良い香りがふわりと漂った。
「エレナさん…。ありがとう。心が曇りそうになった時、この魔法を振りかけることにするわ。」
エレナは優しく微笑み、店の重厚な扉を開いた。
「あなたの瓶詰めの時間は、もうおしまい。……今度は迷わずに、あなたの道を選べますように。」
アンナはエレナの手を一度だけ強く握ると、少し潤んだ瞳で、晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとう!」
ここに来た時とは違う、凛とした声でお礼を告げる。
アンナはそのまま、光に満ちた扉の向こう側へと、軽やかな足取りで踏み出していった。
扉の外を出ると、そこは昼間に自分が足を踏み入れたはずの、木立の入り口だった。
太陽はまだ頭上の高いところで、燦々と木々を照らしている。
随分長いこと話し込んでいた気がするが、扉の外はあまり時間は経っていないようだった。
何を探すわけでもなく市場の外れの方を歩いていると、刺繍糸が露店に出ていた。
ふと、その中に置いてある深い藍色の糸に目が止まり、足を止める。
しゃがみ込んで見てみると、なかなか良い品質の糸のようだ。染まり方も均一で、美しい色をしている。
決して可愛い値段ではないが、変えなくはない金額だ。
刺繍糸と睨めっこをしていると、奥から店主が出てきた。
「お嬢ちゃん、刺繍をやりたいのかい?初心者には難しいと思うよ。何か刺繍柄のものが欲しいなら、既製品もいくつかうちに置いてあるけど。」
アンナはふっと笑って、店主を仰ぎ見た。
ポケットの中にある桂皮の香りが、お守りのように自分を包んでくれている気がした。
「…いいの!最初は下手くそでも。おばさん、ハンカチへ刺繍をしたいんだけど、やり方を教えてくれない?」
アンナは脳裏に、あの不思議なお店の女店主の顔を思い浮かべる。
深い紺と銀色と、純白のエプロンが似合う、優しい彼女。
(…綺麗に刺繍できたら、彼女にプレゼントしよう。)
そして伝えるんだ。
――出会ってくれてありがとう、私と友達になって、って。
アンナの物語、最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました!
もし少しでもいいなと思っていただけたら、評価やコメントをいただけると嬉しいです。
次回はいよいよ、サブタイトルにもある画家の登場です。




