いつものパンケーキ(中編)
アンナはカップの紅茶を見つめながら続けた。
「故郷の村にいた頃は、みんな私を『天才だ』って褒めてくれたんです」
アンナは当時のことを思い出しながら、寂しそうに微笑んだ。
「私もその気になっちゃって、大きな街に出てきたのはいいけれど…。自分が世間知らずだって、よくわかったんです。」
自信を持って受けた大手商会の事務職は、悉く不合格。
その後大手のギルドの帳簿付けや受付にも応募したけれど、全敗だった。
結局、今は小さな運送屋で、物置のような小屋に籠もって伝票を書く毎日だ。
あの頃の私が今の自分を見たら、どう思うだろうか。
「容姿は普通。その割に頭と口だけはそこそこ回る、小賢しい女。そんなの、誰も相手にしないんですよ。」
アンナはスプーンを手に取り、真っ赤なジャムを紅茶の底へ沈めた。
澄んだ紅茶にジャムが混ざり、かき混ぜるごとに濁っていく。
自分のプライドと現実が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになった今の自分の心のようだ。
「一緒に街に出てきた子たちも、結婚したり仕事で成功したりして、いつの間にか疎遠になって。今の私を、知られたくないのもあるけれど……。」
身体だけは確実に歳をとる。なのに毎日は、焼き増しのような繰り返し。
「私の人生の時間だけが、瓶詰めされて止まっちゃったみたい。…はぁ。こんなはずじゃなかったのになぁ。」
いつになく饒舌になっている自分に驚きながらも、アンナは吐き出した言葉の熱を、紅茶と一緒に飲み込んだ。
自分はずっと、この結論のない、悩みとも停滞感とも言える感情を誰かに吐き出したかったのかもしれない。
「…きっと、このままの日々がいつまで続くのか、出口が見えないのが怖いのね。」
「そうなのかもしれません。死にたい程辛いわけでも、だからって幸福なわけでもない。雨漏りする家を必死に応急処置で直しながら、毎日を過ごしているような、そんな気持ちというか…。」
アンナは再び大きくため息をつくと、がっくりと肩を落とした。
「なんかもう、毎日焼き増しの日々を送るのも、それに悩むのも疲れちゃったんです。どうしたらいいのかな…。」
エレナは少し考え込むように顎に手を当てると、ついとアンナの買い物袋に目をやった。
「ねぇ。市場では、何を買ってきたの?」
「安くお腹を膨らませるだけの、それこそ代わり映えのしない食材ばかりですよ。じゃがいもとか、玉ねぎとか…。」
エレナは何かを思いついたような顔でにっこりと笑うと、アンナに何やら白い布を渡した。
「それでは、私と一緒にほんの少しだけ未来を変えてみましょうか。」
…どうしてこうなったんだろう。
静かな店内の中には、じゃがいもの擦り下ろされる、シャリシャリとした音が響いている。
アンナは今、エレナとカウンターに並び、一心不乱に手を動かしていた。
隣では、この世のものとは思えないほど美しいエレナが、やや危なっかしい手つきでじゃがいもの皮にナイフをすべらせている。
(……なんというか、これほど『芋』が似合わない女性もいるのね。)
思わず、謎の感心をしてしまう。
エレナから手渡された純白のエプロンと、赤毛にそばかすだらけの自分。そのミスマッチさと同じくらい、エレナの手元にある無骨なじゃがいもは浮いて見えた。
「…あの、終わりました。皮剥き代わりますよ。ナイフ、見ていて危ないですって。」
「…そうね。あなたにやってもらった方が良さそうね。お願いするわ。」
アンナがそう申し出ると、エレナは少し残念そうに、あちこち削れすぎて歪になったじゃがいもを差し出してきた。
端正な顔と幽玄な雰囲気からは想像もつかなかったが、どうやら彼女は存外不器用らしい。
(天は二物を与えず、か。神様も案外、公平なところがあるのねぇ。)
自分よりも不器用な「完璧な美女」の姿に、アンナの心はほんの少しだけ軽くなる。
「じゃがいもを擦り下ろす料理なんて初めてですが、次は何をするんですか?」
「これを使うのよ。」
エレナが戸棚から取り出したのは、小ぶりだが赤々と色付いたりんごだった。
じゃがいもに…りんご?
アンナがきょとんとしている間に、エレナは鮮やかな手つきで――皮剥きとは打って変わって、なかなか迷いのない良い手捌きだ――りんごを大きめの角切りにしていく。
熱した小鍋に、ぽとりとバターが落とされた。じゅわっ、と芳醇な香りが立ち上がり、黄金色に溶けた海の中へ真っ赤なりんごが躍り出る。
「昔、ここにきた人に教えてもらったの。じゃがいもと林檎のパンケーキ。意外な組み合わせだけど、じゃがいもの優しい甘みが引き立って美味しいのよ。」
バターの膜を纏ったりんごが、火が通るにつれてキラキラと透き通った輝きを帯びていく。
もう一つのコンロでは、アンナが用意した生地が、たっぷりのバターを敷いたフライパンへ流し込まれた。擦り下ろしたじゃがいもに、少量の玉ねぎと新鮮な卵を混ぜたものだ。
じゅう、という威勢のいい音が鳴る。
フライパンの中では、生地の縁がじりじりと黄金色に染まり始めている。
バターが細かな泡を立て、じゃがいもの香ばしい匂いと、煮詰まったりんごの甘い芳香が混ざり合い、アンナの鼻腔をくすぐる。
ぐう、と。
アンナのお腹が、なんとも正直な音を立てた。
「……さて。このまま弱火で待っている間に、こちらへ来るといいわ。」
お腹の虫が鳴るのを必死に堪えながら、アンナはエレナの後を追った。
案内されたのは、カウンターの隅に置かれた大きなガラス瓶の前だった。
透明な液体が満たされたその瓶底には、鈍く光る銀の指輪や真鍮らしき黄金色のメダルといった、雑多な小物が沈んでいる。
「……これは?」
「あなたの言う、魔法みたいなものよ。これはここに来た人が置いていった『自分の鍵』。あなたも何か、置いて行くといいわ。あなたの重荷や、もう要らなくなった自分の一部を。」
「自分の一部…。」
アンナは、レシピを書き留めようとエプロンのポケットに突っ込んでいた万年筆を取り出した。
地元の学校を、最優秀の成績で卒業したときに授与された記念品。
かつて自分が「特別」だと信じて疑わなかった頃の、手元に残る唯一の証明書。
都会に出れば、この万年筆で立派な契約書にサインをする日が来るのだと信じていた。
けれど実際は…埃っぽい運送屋の片隅で、名前も知らない誰かへの伝票を綴る日々。
何度も握りしめられ、軸の塗装が剥げたそれは、今のアンナと同じようにひどく疲れ切って見えた。
「…良い機会、なのかもしれないわね。ずっと、なんとなく手放せなかったから。」
瓶の中の液体が、ゆらりと揺れた。
エレナは何も言わず、静かにアンナの手元を見つめている。
アンナは寂しそうな目で、刻まれた『最優秀』の文字を一度だけそっと撫でると、それを瓶の中へと放した。
とぷん、と。
重たい音を立てて万年筆が水面へ沈んだ途端、瓶の底からゆらゆらと光が溢れ出した。




