いつものパンケーキ(前編)
「……さて、あとは何を買うんだっけ」
独り言とともに、アンナは買い物籠を持ち直す。
中身は日持ちのする野菜と、少しばかりの安い塩。 籠の取っ手が、麻の袖越しに、重たく食い込んでいる。
ふと、視界の端に、露店の前に置かれた山積みのじゃがいもが映った。
( ――ああ、私みたいだ。)
安くて、どこの市場にでもある。 泥を落とせばどれも同じ顔をしていて、決して主役にはなれない。
肉や魚を引き立てるだけの、無難な付け合わせ。
かつて、地元の小さな村で「天才」と持て囃された頃。
アンナは、自分は他人と違う特別な何かになれるのだと信じていた。
けれど「少々秀でている」程度の才なんて、大きな街に出れば路傍の石も同然だ。
何十、何百という「本物の天才」たちに揉み消され、アンナの心はいつの間にか、代わり映えのしない毎日に擦り減らされていた。
「…それにしても、今日はいい天気ね。」
アンナは被っていた帽子のつばを上げ、周りの景色を見渡す。
市場には、近郊の村から運ばれてきたばかりの瑞々しい果物や、鮮やかに咲き誇る花が溢れていた。太陽の光を浴びて輝くそれらは、アンナの目には少々眩しく映る。
(…たまには、花でも買ってみようかな。)
ふと思いつき、目に留まった赤いガーベラに手を伸ばそうとした、その時。
隣から伸びてきた別の手が、その一輪を取った。
「あっ…すみません。」
反射的に謝ってしまった後、相手の顔を見る。
隣に立っていたのは、真っ白なシャツに身を包んだ爽やかな紳士だった。
彼とアンナの目があい、彼がにこりと微笑む。
不意打ちの端正な笑顔にアンナの心臓が跳ねる。つられて笑顔を返そうとしたその時ー。
「この花をあなたに。とてもお似合いになりますから。」
紳士の視線は、すでにアンナを通り過ぎていた。
彼が花を差し出したのは、アンナの背後でアクセサリーを眺めていた、金髪の美しい女性だった。
アンナは自身の赤毛を隠すように帽子を目深に被り直し、その場を足早に去った。
(……帰りたくないな。)
普段ならそのまま真っ直ぐ家路につくところだが、今日ばかりは足が家路を拒んでいた。
いつも通りの夕食を作り、
いつも通り一人で食べ。
そして、なんの変哲もない明日がまた始まる。
自分が、淀みなく回る世界の「歯車」の一部でしかない。
そう思い知らされるのが、今はただ、耐え難かった。
(……少しだけ遠回りをして帰ろう。)
アンナは見慣れない木立の道へと、逃げるように足を踏み入れた。
先程の恥ずかしさを振り払うように、ズンズンと進んでいく。
しかし、しばらくして歩調を緩め、辺りを見回した。
「……おかしい。こんなに深い森じゃなかったはず。」
それになんだか、さっきから同じ場所をぐるぐると彷徨っている気がする。
次第に這い寄ってきた深い霧に、言いようのない恐ろしさがこみ上げた。
たまらず駆け出したアンナの視界に、霧の向こうから「それ」が現れる。
鳥の脚のような奇妙な古木に乗った、歪な大木のような家。
その扉の前で、一人の女性が背を向けて立っていた。 長いプラチナブロンドを一本にまとめた彼女は、扉にかかっている真鍮のプレートを、柔らかな布で丁寧に磨き上げている。
「あの、すみません。」
アンナが恐る恐る声をかけると、女性――エレナは、磨く手を止めてゆっくりと振り返った。
「…あら?道に迷ってしまったの?」
振り返った女性は、この世のものとは思えないほど美しい女性だった。
思わずぽかんと口を開けて彼女を見つめてしまったが、自分のどこか冷静な部分が、『こんな美人でも扉の掃除とかするんだな』と内心でくだらないことを考えている。
「…随分重たそうな荷物ね。肩が痛そうだわ。中へ入ったらいかが。」
アンナは慌てて荷物を抱え直し、首を横に振った。
「いえいえ!少し道に迷ってしまっただけなので、道だけお伺いできたらと…。」
「きっと、扉を出る頃には正しい道へ戻れるわ。」
エレナは扉を開けると、アンナににっこりと微笑んだ。
押し問答をしても仕方ない。
霧の中を迷いながら走って、疲れ切っているのも事実だ。
「…お邪魔します。」
アンナは小さく呟いて、扉の中へと足を踏み入れた。
中に入ると、不気味な外観に似合わず落ち着いた雰囲気の家だ。
木目のカウンターは温かみがあり、壁にかけられた押し花の額装も可愛らしい。
「荷物は隣の椅子に置いて。今、お茶を淹れるわ。」
「ありがとうございます。助かります。」
促されるままアンナは椅子に座り、買い物籠を隣の椅子に置いた。
腕には取っ手の形が薄らと残っている。アンナは重い荷物を降ろした開放感にふぅと息を吐いた。
「私はアンナといいます。迷っていたので助かりました、店主さん。」
一息ついたアンナの前に、ティーカップが置かれた。
真っ白な陶器と茶色の紅茶、添えられた真っ赤なジャムのコントラストが美しい。
突然の客に貴重なジャムを出してくれるなんて、随分と気の良い店主のようだ。
「エレナよ。あなたのようなお客様は結構いるから、気にしなくていいわ。」
アンナはお礼を言って、紅茶を一口含んだ。
……美味しい。けれど、ふとした疑問が口をつく。
「こんな森の深くまで迷って来る人が、そんなにいるんですか?…私もその中の一人ではありますけど。」
「ええ。このお店は『人生に迷った人』が辿り着くようになっているの。だから、それなりの数の方がいらっしゃるわ。」
アンナはぽかんと口を開けて、エレナを見返した。
「えーっと、何かの比喩とかですか?それとも、魔法とか魔術とか、そういうお話?」
あまりに突飛な話だったので、少々胡乱な目でエレナを見てしまった。
「どう受け取るのかはあなたに任せるわ。でも、あなたに何か迷いや悩みがあったから、ここに辿り着いたのは事実よ。心当たりはあるのでしょう?」
脳裏に、今朝の花屋での出来事が浮かぶ。
自分を通り過ぎていった、あの紳士の笑顔。
広くもない部屋で、毎日一人で過ごす自分の姿。
アンナは視線を落とし、深いため息とともに小さく答えた。
「…心当たりかぁ。強いていうなら『何もない』ことが悩みなのかも。」
更新遅くなりました(汗)




