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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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6/20

いつものパンケーキ(前編)



「……さて、あとは何を買うんだっけ」


 独り言とともに、アンナは買い物籠を持ち直す。

 中身は日持ちのする野菜と、少しばかりの安い塩。 籠の取っ手が、麻の袖越しに、重たく食い込んでいる。


 ふと、視界の端に、露店の前に置かれた山積みのじゃがいもが映った。


( ――ああ、私みたいだ。)


 安くて、どこの市場にでもある。 泥を落とせばどれも同じ顔をしていて、決して主役にはなれない。

 肉や魚を引き立てるだけの、無難な付け合わせ。


 かつて、地元の小さな村で「天才」と持て囃された頃。

 アンナは、自分は他人と違う特別な何かになれるのだと信じていた。


 けれど「少々秀でている」程度の才なんて、大きな街に出れば路傍の石も同然だ。

 何十、何百という「本物の天才」たちに揉み消され、アンナの心はいつの間にか、代わり映えのしない毎日に擦り減らされていた。


「…それにしても、今日はいい天気ね。」


 アンナは被っていた帽子のつばを上げ、周りの景色を見渡す。

 市場には、近郊の村から運ばれてきたばかりの瑞々しい果物や、鮮やかに咲き誇る花が溢れていた。太陽の光を浴びて輝くそれらは、アンナの目には少々眩しく映る。


(…たまには、花でも買ってみようかな。)


 ふと思いつき、目に留まった赤いガーベラに手を伸ばそうとした、その時。

 隣から伸びてきた別の手が、その一輪を取った。


「あっ…すみません。」


 反射的に謝ってしまった後、相手の顔を見る。

 隣に立っていたのは、真っ白なシャツに身を包んだ爽やかな紳士だった。

 彼とアンナの目があい、彼がにこりと微笑む。

 不意打ちの端正な笑顔にアンナの心臓が跳ねる。つられて笑顔を返そうとしたその時ー。


「この花をあなたに。とてもお似合いになりますから。」


 紳士の視線は、すでにアンナを通り過ぎていた。

 彼が花を差し出したのは、アンナの背後でアクセサリーを眺めていた、金髪の美しい女性だった。


 アンナは自身の赤毛を隠すように帽子を目深に被り直し、その場を足早に去った。


(……帰りたくないな。)


 普段ならそのまま真っ直ぐ家路につくところだが、今日ばかりは足が家路を拒んでいた。

 いつも通りの夕食を作り、

 いつも通り一人で食べ。

 そして、なんの変哲もない明日がまた始まる。


 自分が、淀みなく回る世界の「歯車」の一部でしかない。

 そう思い知らされるのが、今はただ、耐え難かった。


(……少しだけ遠回りをして帰ろう。)


 アンナは見慣れない木立の道へと、逃げるように足を踏み入れた。

 先程の恥ずかしさを振り払うように、ズンズンと進んでいく。


 しかし、しばらくして歩調を緩め、辺りを見回した。


「……おかしい。こんなに深い森じゃなかったはず。」


 それになんだか、さっきから同じ場所をぐるぐると彷徨っている気がする。


 次第に這い寄ってきた深い霧に、言いようのない恐ろしさがこみ上げた。

 たまらず駆け出したアンナの視界に、霧の向こうから「それ」が現れる。


 鳥の脚のような奇妙な古木に乗った、歪な大木のような家。


 その扉の前で、一人の女性が背を向けて立っていた。 長いプラチナブロンドを一本にまとめた彼女は、扉にかかっている真鍮のプレートを、柔らかな布で丁寧に磨き上げている。


「あの、すみません。」


 アンナが恐る恐る声をかけると、女性――エレナは、磨く手を止めてゆっくりと振り返った。


「…あら?道に迷ってしまったの?」


 振り返った女性は、この世のものとは思えないほど美しい女性だった。

 思わずぽかんと口を開けて彼女を見つめてしまったが、自分のどこか冷静な部分が、『こんな美人でも扉の掃除とかするんだな』と内心でくだらないことを考えている。


「…随分重たそうな荷物ね。肩が痛そうだわ。中へ入ったらいかが。」


 アンナは慌てて荷物を抱え直し、首を横に振った。


「いえいえ!少し道に迷ってしまっただけなので、道だけお伺いできたらと…。」

「きっと、扉を出る頃には正しい道へ戻れるわ。」


 エレナは扉を開けると、アンナににっこりと微笑んだ。

 押し問答をしても仕方ない。

 霧の中を迷いながら走って、疲れ切っているのも事実だ。


「…お邪魔します。」


 アンナは小さく呟いて、扉の中へと足を踏み入れた。

 中に入ると、不気味な外観に似合わず落ち着いた雰囲気の家だ。

 木目のカウンターは温かみがあり、壁にかけられた押し花の額装も可愛らしい。


「荷物は隣の椅子に置いて。今、お茶を淹れるわ。」

「ありがとうございます。助かります。」


 促されるままアンナは椅子に座り、買い物籠を隣の椅子に置いた。

 腕には取っ手の形が薄らと残っている。アンナは重い荷物を降ろした開放感にふぅと息を吐いた。


「私はアンナといいます。迷っていたので助かりました、店主さん。」


 一息ついたアンナの前に、ティーカップが置かれた。

 真っ白な陶器と茶色の紅茶、添えられた真っ赤なジャムのコントラストが美しい。

 突然の客に貴重なジャムを出してくれるなんて、随分と気の良い店主のようだ。


「エレナよ。あなたのようなお客様は結構いるから、気にしなくていいわ。」


 アンナはお礼を言って、紅茶を一口含んだ。

 ……美味しい。けれど、ふとした疑問が口をつく。


「こんな森の深くまで迷って来る人が、そんなにいるんですか?…私もその中の一人ではありますけど。」

「ええ。このお店は『人生に迷った人』が辿り着くようになっているの。だから、それなりの数の方がいらっしゃるわ。」


 アンナはぽかんと口を開けて、エレナを見返した。


「えーっと、何かの比喩とかですか?それとも、魔法とか魔術とか、そういうお話?」


 あまりに突飛な話だったので、少々胡乱な目でエレナを見てしまった。


「どう受け取るのかはあなたに任せるわ。でも、あなたに何か迷いや悩みがあったから、ここに辿り着いたのは事実よ。心当たりはあるのでしょう?」


 脳裏に、今朝の花屋での出来事が浮かぶ。


 自分を通り過ぎていった、あの紳士の笑顔。

 広くもない部屋で、毎日一人で過ごす自分の姿。


 アンナは視線を落とし、深いため息とともに小さく答えた。


「…心当たりかぁ。強いていうなら『何もない』ことが悩みなのかも。」


更新遅くなりました(汗)

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