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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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不揃いなスープ(後編)



 扉を抜けた先でユーリを待っていたのは、どこまでも澄み渡る冬の青空だった。

 昨晩の激しい吹雪は嘘のように止み、雲の隙間から降り注ぐ柔らかな朝陽が雪原を照らし、一面の新雪を宝石のようにキラキラと輝かせていた。


「――ユーリ! ユーリ、お前なのか!」

「ユーリ! ああ、神様…!本当に無事でよかった!」


 雪を漕いで進む必死な足音と共に、聞き慣れた声が耳に届いた。

 見れば、昨晩着ていた正装を雪まみれにしながら、なりふり構わず雪原を走ってくる両親の姿があった。


「…あの、父さん母さん、本当にごめ、」


 謝罪の言葉を紡ぎ切る前に、ユーリの体は強い力で引き寄せられた。

 背中に回された父さんの手は、骨が軋むほどきつく抱きしめてくるので、少々痛いほどだ。母さんは嗚咽を堪えることもできず、ユーリの肩に顔を埋めて泣き崩れた。


「お前が吹雪の中、置手紙もなしにいなくなったと知った時は、心臓が凍るかと思った。本当にすまなかった、ユーリ。お前の指がそんなに深刻だったことに、ちゃんと気づいてやれなくて…。」


 父さんは、絞り出すようにそう告げた。


「私たちは、怖かったのよ」

 母さんが涙を溢しながら、震える声で告白を始めた。


「音楽院は、立派な家柄の子ばかりでしょう? 私たちのような貧しい家の親では、お前の将来に何の役にも立てない。お前があんなに必死に働いていたのは、私たちが不甲斐ないせいだと思っていたの。」


 母さんは涙をハンカチで拭いながら、言葉を続ける。


「せめて、これ以上お前の足を引っ張らないように、恥ずかしくない親になろうと…無理をしてでも社交やマナーを覚えなきゃって、そればかり考えていたのよ。」


「母さん…。」


 確かに音楽院では、家柄を理由に陰口を叩かれたことなんて何度もあった。けれど、そのことで両親を恥じたことなど一度もなかったのに。


「ユーリ。もしバイオリンが、お前にとって逃げ出したいほど辛いものになったのなら、もういいんだ。」


 父さんのごつごつとした大きな手が、ユーリの頭の上にそっと乗せられた。


「お前にはバイオリンの才能がある。それはきっと事実だろう。でもそれは、お前がバイオリンを弾き続けなければならない理由じゃない。お前が生きて、笑っていること以上に大切なことなんて、何一つとしてないんだよ。」


 父さんの言葉は涙に湿っていたが、ユーリにはしっかりと伝わった。父さんがくれた言葉を噛み締めるごとに、自分の視界も徐々に涙で滲んでいく。


(…なんだ。僕も両親もすれ違っていただけで、あの頃から自分は、何一つとして失っていないじゃないか。)


 両親からの期待や音楽院という肩書き。

 それらの重みは、すべて自分で自分を縛り付けていた鎖に過ぎなかった。


「父さん母さん。僕はね、家族みんなが僕のバイオリンを聴いて笑顔になってくれるのが嬉しくて、あの頃夢中でバイオリンを弾いていたんだよ。」


 他の誰かの評価なんて、本当はどうでも良かったんだ。

 ユーリは両親の手を握って、ふわりと微笑んだ。


「帰ろう。みんなで、あの温かい家に。」



 三人で肩を寄せ合い、街へと戻る雪解け道をゆっくりと歩いた。 僕の隣では、父さんと母さんが足元を気遣いながら寄り添ってくれている。


 街の入り口が見えてくる頃には、街路樹の枝に積もった雪が朝陽で溶かされ、その葉に滴る雫は虹色の光を湛えていた。

 広場は忙しなく往来を行き来する行商人の掛け声や、走り回る子供たちの笑い声で活気に満ち溢れている。


 先を行く父さんと母さんが、時折こちらを振り返っては、気遣うように僕へと微笑みかける。その顔は、僕が愛したあの頃のままの柔らかな笑顔だった。


(ああ。世界は僕が思っているよりもずっと、優しくて、美しい。)


 胸の奥から、かつて北の果ての故郷で初めて楽器を手にした時のような、鮮烈な喜びが溢れてくる。

 ユーリは足を止め、抱えていたバイオリンケースにそっと手をかけた。


「父さん母さん、少し待って。…なんだか、今までで一番、いい音を出せる気がするんだ。」


 石畳の上に立ち止まり、静かにケースを開ける。

 深呼吸を一つしてから、取り出した弓を弦に触れさせた瞬間、凍りついていたユーリの時間はほどけて、溶け出した。


 最初に響いたのは、静かで伸びやかな音色。それは故郷の深い森を思わせる、聴く者の心を優しく包むような音色だった。

 旋律は次第に軽快なステップを踏むように盛り上がり、ユーリの指先が奏でる楽しげな音楽は、冬の澄んだ青空の向こうまで高く、高く響き渡った。


 ユーリの演奏に、一人、また一人と、広場の人間が足を止めていく。

 忙しなく荷物を運んでいた職人も、開店準備をしていた屋台の店主も、朝の冷気に首をすくめていた通行人も。


 皆、ユーリの奏でる音色に触れた途端、陽だまりを見つけたかのように、穏やかな顔で足を止めて演奏に聴き入っていった。


 光り輝く音符が、広場を優しく満たしていく。


 気づけば、ユーリの周りには大きな人だかりができていた。 誰からともなく拍手が起こり、子供たちが音色に合わせて無邪気に踊り出す。




 ―― その中心で、ユーリは輝くような笑顔で、いつまでも音楽を奏で続けた。


お読みいただきありがとうございます。

少しでも心に響くものがありましたら、評価や感想で応援いただけると嬉しいです。次話への活力になります。

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