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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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不揃いなスープ(中編)


 ユーリは赤くなった目を隠すように、手元のメダルに視線を落とした。


「何を言っているのか、よくわからないですよね。自分でも、どうしたいのかよくわからないんです。もう弾けやしないくせに、何故かバイオリンは手放せなくて……。」


 か細い声で、そう続けるユーリの目の前に、大きなガラス瓶が置かれた。

 瓶の中には透明な液体と、何やらさまざまなガラクタのようなものが沈んでいる。


「ここを訪れた、人生の迷い子たちが預けていった“鍵”よ。だからここは、鍵の在り処(カフェ・クリューチ)と呼ばれているわ。」


「…人生の…鍵…?」


 エレナは微笑みを浮かべながら、瓶の中身に視線を落とした。


「何を“鍵”として選ぶのかは人によって様々だけれど、『今の自分には重荷だから』という理由で預けられたものもあるわ。今のあなたにとって、重荷になっているものはなに?」


「……僕にとっての、重荷は……………」


 ユーリは自分の掌の中で、鈍く光るメダルを見つめた。


「……いや、僕にはこれしかないんだ。両親に認められた証も、今の僕の価値も、すべてこのメダルにしかないのに。これを手放したら、僕はただの……本当に何者でもない、空っぽの人間になってしまう。」


 ユーリはかぶりを振ってメダルを握りしめた。

「……これを預ける勇気は、出ません。」



「ー何者でもない自分に戻るのが、そんなに怖い?」

 エレナは湯気の向こうから、凪いだ瞳でユーリを見つめた。


「あなたがバイオリンを始めた頃は、あなたの基準で言うところの『何者でもない自分』だったと思うのだけれど、あなたはその頃、幸せではなかったの?」


 ユーリはハッと息を呑んで、エレナを見つめた。揺れるユーリの瞳に向かって、エレナは言葉を続ける。


「あなたの動かなくなった指はね。きっと、これ以上傷つかないよう、あなたを必死に守ろうとしているの。音楽院の看板があなたを苦しめる枷になるのなら、一度それを手放して、ただのあなたに戻っても……誰も、責めたりはしないわ。」


 ユーリは掌を開き、再びメダルに視線を落とした。


(……父さん、母さん。本当にごめん。領主様も、ごめんなさい。僕はもう、きっと本心では、これを重たい鎖としか思えていないんだ。)


 ユーリは、メダルを握った手を瓶の上に翳し、ゆっくりと指の力を抜いた。


 ―カラン、と。 メダルが水底へ沈み、水面に波紋が広がったその瞬間だった。


 瓶の奥底から、淡く輝く光の音符が溢れ出した。それはまるで、閉じ込められていた音楽が、自由を得て歌い出したかのようだった。


「……っ、これは……」


 光の音符はユーリの周りを優しく舞い、彼の肌に触れる。 そのたびに、彼の中に眠っていた家族との温かな記憶が、鮮やかな色彩を伴って蘇ってくる。


 赤々とした暖炉の炎が奏でる、薪が爆ぜるパチパチとした音。

 母がベリーを煮る甘い匂いと、鍋から鳴ってくるコトコトという一定のリズム。

 今の自分よりも技術はずっと拙いけれど、伸びやかに奏でられるバイオリンの音色。

 それに合わせて父が大きな手で刻む、若干ズレた手拍子と、母の優しい笑い声。



 ――帰りたい。あの狭くて、けれどとても温かい家に。



 光が弾けるたび、凍りついていたユーリの心が、ゆっくりと内側から解けていく。最後の音符が彼の頬に触れると、ユーリの右目から一筋の涙が伝い落ちた。


「……空っぽじゃなかった。あの頃の僕は、空っぽなんかじゃなかった。バイオリンを弾ける喜びも、両親からの無償の愛も、全部持っていたのに……。それを失くしたと思っていたから、代わりに手に入れたものを失うのが怖かったんだ。」


 涙で濡れた顔を袖で拭い、ユーリは真っ直ぐにエレナの目を見据えた。


「ありがとうございました。まずは両親に、自分の考えや、悩んでいたことを伝えてみます。この先どうするのかは、その後に決めようと思います。…正直、まだ少し怖いですけどね。」


 エレナは満足そうな笑みを浮かべ、無骨な木の器をユーリの前に置いた。器からは、温かい湯気が立ち上っていた。

 ユーリは嬉しそうに目を輝かせて木の器の中を見て、………そして、ピタリと動きを止めた。


 器の中には、肉厚な丸ごときのこと、乱切りにされたジャガイモ、無造作に放り込まれた塩漬けきゅうりが浮かんでおり、その上に白いサワークリームが雪崩のように崩れ落ちている。


 爽やかに香る緑のハーブと白いサワークリームの対比は美しいが、全体的になんというか、こう……具材も不揃いで、混沌としたスープだ。


「あの……これは一体………」


 恐る恐るユーリが尋ねると、エレナは何ということもないように答える。


「スープよ。外は寒かったし、たくさん話したからお腹がすいたでしょう?」


(………いや、いやいやいや。こんなに親切にしてもらっておいて、結構ですとは言えないだろう。覚悟を決めろ、ユーリ・ベルコフ。)


「………あ、ありがとうございます。いただきます。」


 意を決してスープを一口啜ったユーリは、目を見開いた。

 強烈な酸味と塩気が舌を叩き起こす。洗練された調和など、見た目通りどこにもない。けれど。


「……!。美味しい………。」


 不完全で、荒削りで、けれどこんなにも温かい。

 少年だった頃の自分の音色と、家族の記憶をそのまま煮込んだような、心の芯まで沁み渡る味だった。



「ありがとうございます、店主さん。何とお礼をしたら良いのか……。というか、お名前もきちんと伝えないままに自分の話ばかりしてしまってすみません!僕は……。」


 ユーリが慌てて深々と頭を下げると、エレナは困ったように、けれど優しく目を細めた。


「ユーリ・ベルコフね。気にしなくていいわ。名乗る余裕もないほどに、心も身体も冷え切っていたのでしょう?私のことはエレナでいいわ。…といっても、ここは人生に迷った人しか辿り着かない場所。あなたがまた私の名前を呼ぶ必要がないことを、祈っているわ。」


 ユーリは弾かれたように顔を上げ、驚きに目を見開いた。


「…何というか、エレナさんは不思議な人だ。名乗っていないのに僕の名前を知っていて、魔法のような力も使える。まるで僕の故郷の御伽噺に出てくる、導き手の魔女(ババ・ヤガー)みたいだ。」


 エレナは肯定も否定もせず、ただ曖昧に微笑んで、重厚な扉を押し開けた。


「吹雪はもう止んでいるわ。…あなたが望む未来を歩けますように。」



 眩い白銀の光が、店内に溢れ出す。 ユーリはもう一度だけ感謝を込めて深く頭を下げると、その光の中へと吸い込まれるように足を踏み出していった。




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