不揃いなスープ(前編)
指が動かない。
それは、音楽家にとって死の宣告に等しかった。
「……っ、はぁ、はぁ……」
夜の闇に紛れ、ホテルを飛び出したユーリを待っていたのは、すべてを白く塗りつぶす猛吹雪だった。
ユーリ・ベルコフ二十三歳。
気鋭のバイオリニストとして、明日はこの街で一番大きなホールに立つはずだった。主催者が用意した高級ホテルの部屋を抜け出し、正装にコートを羽織っただけの姿で、彼は今、雪原を彷徨っている。
「……どうして、逃げたりしたんだ。僕は……」
普段から楽器ばかり嗜んで、運動らしい運動をしていなかった脚は、雪を踏みしめるごとに重く、鉛のようになっていく。
衝動のままに走ってきたが、すでに背後にホテルの灯りは見えない。歩調を緩めて周囲を見渡せば、視界を塞ぐのは黒々とした木立ばかりだ。
自分は森にでも迷い込んでしまったらしい。
…このまま遭難して、明日の朝には凍りついた死体になっているのではないか?
そう思うと、腕に抱えたバイオリンケースが、まるで自分自身の亡骸を収める棺桶のように感じられた。
「うわっ!」
ついに、膝が折れた。
凍った地面に叩きつけられ、バイオリンケースが雪の上を滑っていく。
「いたたた……。本当に僕は、何がしたいんだよ…。」
雪で覆われた地面に手をつき、服の雪を払ってゆっくりと顔を上げた。
――その時だった。
雪煙の向こうに現れたのは、大樹の幹などではなかった。 鋭い爪を地面に食い込ませ、鈍く光る「鳥の脚」のような古木。その上には、白樺の大木をくり抜いたような家が鎮座している。
不気味ではあったが、窓から漏れ出る光は、吹雪の中において抗いがたいほど暖かく見えた。
「……あの、ごめんください。吹雪が収まるまでの間、休ませていただけないでしょうか…?」
ユーリが重い扉を押し開くと、外の刺すような寒さと打って変わって、柔らかな静寂と熱気が彼を包み込んだ。
「…吹雪の中を歩くような格好ではないわね。悩みが溶けてなくなるまで、どうぞごゆっくり。ここは、そういう場所だから。」
湯気に霞むカウンターの向こう。
プラチナブロンドの髪を揺らし、濃紺色のドレスを纏った女──エレナは、ぐつぐつと音を立てる鍋をかき回していた手を止めた。金属器のポットから紅茶を注ぐと、それをユーリの前にそっと置いた。
「ありがとうございます。…あぁ、あったまるなぁ。それに、ジャムもたっぷりと添えてある。僕の故郷の田舎では、紅茶はこうしてジャムと一緒に飲むのが普通だったんですよ。最近流行りのストレートティーっていうのには、なかなか慣れなくて。」
ユーリは悴む指をカップで温めながら、たっぷりのジャムを口に含んで紅茶を飲んだ。ふぅ、と一息ついた後、エレナを見上げて首を傾げた。
「ところで、さっきおっしゃっていた『悩みが溶けてなくなるまで』ってどういう意味なんですか?」
「そのままの意味よ。ここのお店 ーーカフェ・クリューチはね、自分の人生でほんの一時、迷子になってしまった人しか辿り着けないの。」
ユーリはピタリと動きを止め、震える手でカップをソーサーに戻した。ソーサーとカップの触れ合うカチャリという音が、静かな部屋の中に響く。
「…なるほど。人生にも、雪道にも迷っていた僕は、まさにぴったりのお客ですね。」
困ったように眉を下げて笑い、残っていた紅茶を一息に飲み干したユーリは、震える声で続けた。
「…楽しい話ではないですが、僕の話を聞いてくださいますか。」
ユーリ・ベルコフは、北の果ての国の少年だった。
森でベリーや茸を摘み、木を切って生計を立てる。北の果てではごく普通の、しかし周辺国から見れば貧しい暮らしをしていた。
…たまたま北の果てまで来ていた物好きな旅楽団が、街に出かけていたユーリの一家と出会うまでは。
目を輝かせて聴いてくれた少年に対する、ほんのお礼か、或いはただの気紛れだったのだろう。楽団に居たバイオリン弾きの男が、自分が持っていた楽器をユーリにも弾かせてくれた。
するとどうだろう。ユーリが人生で初めて弾いたバイオリンは、艶やかな音を奏で始めたのだ。
楽団の男は、『この子には才能がある。出来るだけ早く楽器を買って、ちゃんとした先生をつけろ。』と両親に詰め寄った。
「…あの頃は楽しかったなぁ。毎日毎日、バイオリンを弾くのが楽しくて仕方なかった。」
楽器を嗜むのは、基本的には中流階級以上の庶民か、もしくは貴族だと相場が決まっている。楽器を購入することも、ユーリがバイオリンを練習している間、家業を手伝えないことも、貧しい実家にとっては大変なことだった筈だ。
しかし両親は、ユーリがバイオリンを練習する度に、『お前はすごい、天才だ!』と嬉しそうに褒めてくれた。家族が喜ぶのが嬉しくて、ユーリは毎日バイオリンの練習にのめり込んでいった。
練習して、練習して………そうして、たまたまユーリという天才少年を知った領主様にその腕を見込まれて、周辺国でも有数の音楽院に入れてもらえることとなった。
「僕のいた音楽院というのは、ものすごい権威があるようで。そこの音楽院を上位の成績で出ているというだけで、色々な公演に呼んでもらえたんですよ。おがげで、今も音楽で食べて行くことができている。…きっとそれは、ありがたいことなんです。」
ユーリは胸元から、真鍮のメダルを取り出した。燻んだ金色に輝くメダルには、竪琴と鷲の翼の見事な彫刻が施されている。
「でもね。僕の価値はこのメダルであって、僕自身じゃない。誰にとっても。……そのことに気付いた時、ひどく虚しくなってしまったんです。」
音楽院を卒業した後、ユーリはがむしゃらに働いた。
『やっと両親に恩返しができる。沢山苦労させた分、二人には楽をさせてあげないと。』そう思って、自分の楽器や公演用の身なりを整える以外の金額は、全て両親に渡していた。
……そうして渡した金額がいくらだったのかなんて、数えてもみなかった。
久々に会った両親は、あまりにも変わってしまっていた。
宝石とドレスのことしか話さなくなった母と、『有名音楽院卒の息子』を自慢材料に、領主や貴族との付き合いに必死な父。
三人で暮らしていたあの家には、今や誰も暮らしてはおらず、両親は二人とも都会で暮らしているらしい。「ご両親からの紹介で」と、演奏会の予定を取り付けにきた貴族の使者から聞いた話だ。
「うんざりでしたよ。その貴族に呼ばれて演奏したときも、今までの舞台でも、誰も僕の演奏を聴きたいわけじゃない。『あの音楽院卒の奏者を招いて演奏させた』という、その経験をみんな買いにきているんです。社交の種としてね。」
そんな折だった。
バイオリンを弾いていても、いつものように指が動かないことに気付いた。
初めは少々動きにくい程度だった指は、日が経つにつれ、バイオリンを奏でる時にだけ、強張って動かなくなっていく。当然医者にもかかったが、原因はわからなかった。
「そのことを両親に相談したら、なんて言われたと思いますか?」
目を赤くしたユーリは、震える声で続けた。
『いいかいユーリ、明日の主催者は気難しい方だが、気に入られればお前の将来は安泰だそうだよ。』
『指が動かない? …きっと疲れてるのよ。ほら、この街で一番いいマッサージに行っていらっしゃい。』
『お前には成功して欲しいんだ。』
「…そう、両親は言ったんですよ。僕の指も碌に見ずにね。」
そうして迎えたコンサートの前夜。
ユーリの指は、とうとう全くバイオリンを奏でられなくなってしまい、ホテルを飛び出すに至ったらしい。
「音楽家にとって、指が動かないというのは死も同然です。…音楽家として死んだ僕なんて誰も受け入れてくれない。…そう不安に思うのと同時に、『これでもう何も期待されずに済む』と、ほっとしている自分もいるんですよ。」




