【閑話】黄金色のメダル
ミラとユーリがメインのお話です。
理想を実現するためには、情熱だけでは足りない。
——そんな当たり前の事実が、今のユーリの肩にはのし掛かっていた。
「…やっぱり、難しいか。」
ユーリは、今朝方届いた手紙を暖炉の炎の中へと放り投げると、勢いよくソファへと身を投げ出した。
座面に身体を沈めながら、彼は天を仰いで手で顔を覆った。
「これで全滅か…。なかなか、資金繰りってうまくいかないものだなぁ。」
ユーリが理想として目指している、平民向けの音楽院。
その道のりは、あまりにも険しいものだった。
貴族や、平民でも限りなく貴族側に近い富裕層の人間は、音楽を高位の人間の嗜みと考えている節がある。
自分達のステータスの一部となっているものを、なぜ下々の者に広げる必要があるのか、理解ができないのだ。
では音楽の関係者ならば、自分の想いもわかってくれるはず。
そう思って仕事関係者に当たっては見たが、彼らは一貫して「そんなものをやるくらいなら、君はもっとコンサートホールに立つべきだ。」と口を揃えて言う。
音楽を教えることに時間を使うということは、演奏家として舞台に立つ時間を削ることを意味する。
そんなものは、誰もユーリに期待していなかった。
反対する者さえ居た。
仕事仲間の指揮者からは、
「広く音楽の門戸を開いたとて、君のような才能はまず見つからない。」
「やったところで、投資対効果が合わないよ。」
と諌められた。
才能を発掘するのではなく、音楽の楽しさを知ってもらうために開くんだ。
そう伝えても、彼らは困ったように笑って、出来の悪い生徒を教えるようにユーリに言い含めるのだった。
「富裕層が価値を見出せないもので、融資を受けるのは難しいよ」、と。
音楽院の設立予定地として目をつけていた古い屋敷の、予想を上回る修繕費。
融資を求めて訪ねた者たちの冷ややかな視線。
バイオリンを持っていない時の自分はこんなにも無力で世間知らずなのかと、ユーリは歯噛みした。
「ユーリ、そんなに眉間に皺を寄せないで。せっかくの綺麗な顔が台無しよ。」
淹れたての紅茶を差し出しながら、ミラが心配そうに彼を覗き込む。
彼女は歌姫としての仕事をこなしつつも、時間を見つけてはこうしてユーリの仕事を手伝っていた。
「音楽院設立のための慈善演奏会を開くのは?」
「…ミラさん。慈善演奏会っていうのは、主催者側の権威や名声が大きい時に、初めて成功するんですよ。」
いくらユーリが天才的なバイオリンの腕を持っていても、それだけでは資金は集まらない。
ユーリが人気なのは、あくまでも演者としてだ。主催者は当然、権威や地位のある立場の者になる。
民衆人気が高いとはいえ、素性の知れない若者が主催の演奏会に、大金を投じるものはいないからだ。
「それこそ音楽院の修了証でも出して主催者側の貴族や富裕層に交渉すれば違うんでしょうけど…僕は、それを自分から手放しましたからね。」
ユーリは困ったように笑う。
その言葉に、二人の脳裏にあの一夜の記憶が蘇る。深い霧の向こう、温かなランプの火が灯っていた不思議なカフェ。
ミラは床を見つめて黙っていたが、意を決したようにユーリと目を合わせた。
「ねぇユーリ…エレナさんのところへ今なら辿り着けるでしょう?」
「…どういう意味ですか?」
ミラは気まずそうにスカートの裾を握り締める。
「…修了証を、返してもらったら?」
「それは嫌だ!」
ユーリは大声でミラの言葉を遮り、ソファから立ち上がった。
ユーリの声に肩を震わせ、怯えた目で自分を見つめるミラに、ユーリは「ごめん」と謝って再度ソファへと座り込む。
「大きな声を出してすみません。でも、それは嫌なんです。」
「…どうして?」
ユーリは自分の視界に入る前髪をグシャリと掴み、項垂れた。
「エレナさんに縋り付いたら、彼女はきっと預けた鍵を返してくれるでしょう。」
「…そうね。優しい人だったから。」
「でもそうしたら、次に人生で困った時…僕はまた、誰かに頼りっきりで解決すると思ってしまう。」
ユーリはかつて指が動かなくなった時を思い出すように、自分の手を見つめた。
音楽院に通わせてくれた領主様や、自分の成功の裏で悩んでいた両親。
自分に音楽の仕事を与えてくれた人。
…そして、自分の活躍の裏で、きっと悔し涙を流していたであろう人。
そんな彼らの気持ちも考えず、「自分自身が一番不幸」という顔をしていた時の自分に、ユーリは戻りたくなかった。
「…あの場所へ置いてきたのは、過去の自分でもありますから。」
ユーリは眉を下げながら、「ミラさんなら、僕の気持ちもわかるでしょう?」と微笑んだ。
「…もちろん、わかるわよ。けど…」
(……強がりだわ。私くらいは、あなたのその脆さを知っていなきゃ。)
ミラもあの場所で、過去の自分と決別した。だからこそ、ユーリの気持ちは痛いほどわかる。
ただそれと同時に、今のユーリをもう見ていられないとも思っていた。
資金確保のために、今まで以上に過密なスケジュールで、ユーリは仕事をこなしている。
その傍で音楽院設立の対応に奔走しているのに、そちらはなかなか結果が出ない。
手紙が届くたびに彼の顔に失意の色が浮かぶのを、ミラはもう見たくなかった。
(…でも、私が彼にかけてあげられる言葉は、あまり多くない。せめてご飯は美味しいものを作ろう。)
「お昼は、パンケーキでも焼くわよ。」
「本当?嬉しいなぁ、ありがとう。」
「ジャムもたっぷり添えましょう。」
「それは楽しみだ!」
少しだけ、目に光が戻ったユーリを見て、ミラはほっと胸を撫で下ろす。
「じゃあ、お買い物に行ってくるわね。」
「一緒に行かなくて平気?」
「大丈夫よ。そんなに多くないから。」
ミラはユーリの額にそっと口付けて、「ユーリはゆっくりしてて。」と言い残し、買い物袋を手に市場へと出かけていった。
買い物の帰り道。
ミラは市場の隅にある、蜂蜜店の前で足を止めた。
南の国で採れた珍しい品種ということで、なかなか強気な値段ではある。
(…ユーリ、甘いもの好きだから。元気になってくれるかしら。)
最近彼がよく浮かべている、悲しそうな顔や疲れた顔ではなく、ユーリの心からの笑顔が見たい。
そう思ったミラは、自分の財布をポケットから取り出そうとして、その違和感に気付いた。
「——え?」
指先に触れたのは、ひんやりとした金属の質感。
取り出してみるとそれは、竪琴と鷲の翼——…そして、ユーリの名前が刻まれた、黄金色に輝くメダルだった。
「…そういやぁ、瓶の底に入ってた金色のメダルがなくなってねぇか?」
カウンターの端で無造作にスケッチブックを広げていたニコライが、ふと顔を上げてエレナにそう言った。
午後の日差しが辺りの霧に反射し、柔らかな光の靄に包まれる、昼下がりの霧の森。
鍵の在り処の店内では、エレナがカウンターに置かれた大きなガラス瓶を、愛おしそうに磨き上げていた。
「あの夜、ユーリがこの店にいたことは、私の計算違いだったのよ。」
エレナは瓶を磨く手を止め、窓の外に広がる霧の向こうへ視線を投げる。
「ニコライ。あなた以外の人間は、どうしようもなく人生に行き詰まった時にしかこの店の扉を見つけられないの。」
「前にそんなこと言ってたっけな。」
「あの日、あなたがユーリを連れてこなければ、ユーリとミラが出会うこともなかった。」
エレナは鍵の入った瓶を拭き終えると、湯気の立つ紅茶をティーカップへと注ぎ、自分とニコライの前へ置いた。
「…で、それとメダルと何の関係があるんだ?」
エレナに差し出された茶を一口で飲み干し、ニコライが不器用な手つきでカップを戻した。
エレナはそんな彼に、くすりと小さく笑いかける。
「独唱のはずが、二重奏を聞かせてもらったんだもの。貰いすぎでしょう?」
ニコライは眉を寄せ、理解が追いつかないというように首を傾げた。
エレナはそんな彼を他所に、カウンターに置かれた瓶をそっと指先で撫ぜた。
「それに。私が預かったのは、彼の歩みを止めていた重荷であって—…」
エレナは窓の外、白い霧が陽光に溶けていく景色を愛おしそうに見上げた。
「——未来を拓く『鍵』を、彼から預かった覚えはないわ。」
麗らかな昼下がりの鍵の在り処。
遠くない未来に鳴り響くであろう、新たな旋律の予感に目を細めながら、魔女は静かに次の客を待つのだった。
ミラとユーリ、そしてエレナとニコライ。それぞれの視点から見た「あの日」の続きを書いてみました。
人生の重荷だったものが、いつか未来を開くための鍵に変わる……そんな瞬間を感じていただけたら嬉しいです。




