渋い紅茶と甘いジャム(後編)
「…とりあえず、座ったらいかが。」
ハッと我に返ったターニャは、一番手前にあった椅子に腰掛けた。
「…ありがとうございます。あの、迷っている人だけが辿り着くってどういうことですか?」
「そのままの意味よ。この店は人生の迷路にいる人だけに姿を見せる。このお店自体がお客を選ぶの。…心当たりはあるんじゃない?」
店主の女はカウンターの後ろから紅茶の缶をいくつか取り出しながら、そうターニャに問いかけた。
「…私の悩みなんて、きっと働いて身を立てている女なら、よくある話なんです。私が不器用で、受け流したり飲み込んだり出来ていないだけで…。」
「それでもあなたにとって、この店に辿り着くほど深刻なものなんだわ。自分の悩みを”些細なこと”って誤魔化し続けても、自分にとって良いことなんて大抵一つもないのよ。」
人ならざるものに見える程美しい店主だが、話してみると存外親しみやすい。
「ありがとう。…店主さん。」
「エレナでいいわ。話して楽になるようなことなら、吐き出してしまうのもいいんじゃない?」
それからターニャは、胸の中に渦巻いていた感情を一つ一つ吐き出していった。
ーー自分より年上の男性職人の作品に対して指摘をするのは辛いが、だからといって品質を満たさないものを良しとするのは自分のプライドが許さないこと。
年上職人達に指摘するせいで、作品と関係ないことで仲間から陰口を叩かれるのが辛いこと。
自分より腕は劣る青年が、若くて明るいというだけで自分より職人達から評価されているのが内心悔しいこと。
……そして、幼馴染のルーカとの件で、自分が「女としても負けた」と思ってしまったことが、本当はとても惨めで辛かったこと。
後半はもう、涙と嗚咽で碌な説明になっていなかったと思うが、それでもエレナはターニャの話を最後まで静かに頷いて聞いてくれた。
「…エレナさん。私はこれから、どうしたらいいんだろう。あんなに好きだった銀細工も、最近は仕事に行くのが憂鬱で、楽しいと思えないの。」
涙で掠れた声でそう弱音をこぼすと、目の前のエレナがカウンターの奥へと歩いていった。
カウンターの一番奥の方では、真鍮製の大きな金属器が、シュンシュンと蒸気を吹き上げていた。縦長の胴体に小さな蛇口がついたその道具は、鈍い金色の光を放ち、店内の冷えた空気を温めている。 煮えたぎる湯の音が、沈黙の流れる店内で唯一、一定の音楽を刻んでいた。
エレナは陶器のポットにいくつかの茶葉を入れると、そのポットを金属器の上にそっと置いた。
「これからどうすればいいのかは、あなたにしか決めることができないわ。でもそうね…お茶を淹れてる間に、少しだけ私が手伝ってあげる。」
エレナはカウンターから出ると、時計の前に置かれていたガラクタと透明な液体の入った瓶をターニャの足元に置いた。
「これはね、ここに来た誰かの”鍵”と呼べるものよ。人によってその内容は様々だけど…。あなたにとって大切だったものを、ここに落としてみるといいわ。きっと行くべき先を教えてくれる。」
そう言ってエレナは、重たそうな瓶の蓋を開けた。
「でも、仕事終わりにルーカと話した後、逃げるように森へ来たから…今は何も……あっ。」
エレナの言葉に、慌てて身につけていた革のエプロンのポケットをかき回していると、ルーカから放るように返された銀細工の指輪が出てきた。今の自分が見れば少々拙い出来のそれは、しかし当時駆け出しだった自分が何日もかけて作り上げたものだ。
きっとルーカは喜んでくれる……そう、その時の自分は信じていたのだ。
「…これにします。きっと、もう自分には要らないものだから。」
「あなたがそれでいいなら、それにしましょう。」
指輪を作った時のことを思い出すと、また涙が溢れてきそうだ。
ターニャは深く深呼吸をした後、瓶の中に指輪を落とした。投げ落とされた指輪が、水面に波紋を広げる。 揺らめく水底から湧き出すように、薄紫色の靄が立ち上った。
それは徐々に鏡のような枠を形どり、彼女の歩んできた歳月を鮮やかに映し出し始める。
最初は、厳しい師匠から初めて合格を告げられ、震える手で銀を握りしめたあの日。 次は、一人前になって初めて顧客の依頼を受けた時の緊張と期待が降り混ざった不安と、自分の鼓動。
画面は次々と移り変わる。
亡き夫の形見であるブローチの修復を任せてくれた婦人が、蘇った銀の輝きを見て流した嬉し涙。
あるいは、真っ赤な顔で婚約指輪をオーダーしに来た若者が、完成した作品を手にした瞬間に見せた、満足そうな笑顔。
ターニャの目の前には、自分と関わってくれた顧客たちとの温かな記憶が、鮮烈に蘇っていた。
「…エレナさん。私、きっと大事なものを見失ってたわ。だからきっと迷ってしまっていたのね。」
過去を映し出す水鏡を見つめたまま、ターニャは震える声で紡いだ。
「私が銀細工師になったのは、誰かと競うためでも、ましてや……自分でも恋だったのか分からない幼馴染に、認めてもらうためでもなかった。私の手が生み出したもので、誰かが笑ってくれる。…本当は、それだけで十分だったの。」
ターニャの呟きが静かな店内に吸い込まれた瞬間、過去を映していた鏡は、眩い光を放って弾けた。 光の粒は、まるで星屑のように宙を舞い、彼女の周囲を優しく照らした。
「…あっ。」
光が収まると、ガラス瓶の中に沈んだターニャの銀細工の指輪は、磨きをかけた直後のような輝きを取り戻していた。
「ちょうどお茶も入ったわ。昔、私の故郷で飲まれていた紅茶よ。とても渋みが強いけれど、甘いジャムとよく合うの。」
エレナは真鍮の金属器からポットを外すと、たっぷりのベリージャムを添えて、湯気の立つカップを差し出した。 初めて口にする紅茶の強烈な渋みに、ターニャは思わず目を白黒させる。
エレナはそれを見てクスクスと喉を鳴らすと、金属器の蛇口部分を捻ってお湯を足し、程よい濃さに整えてくれた。
「少しぐらい渋みやクセがある方が、紅茶も人間も味わい深い…そうは思わない?」
目元を緩めて優しく微笑む店主の言葉に、ターニャはふっと肩の力を抜いた。
「……そうね、エレナさん。私も、自分の渋いところは抱えたままで、もう少し上手くやっていこうと思うわ。」
立ち上がったターニャの瞼は真っ赤に腫れていたが、その瞳からは迷いが消え、輝きを取り戻していた。
「あなたの鍵は、たしかに預かったわ。……さあ、もうそろそろ、あなたの時間を動かして良い頃よ。」
エレナが指さした扉の向こう、白樺の隙間からは、街へと続く道がうっすらと見えていた。 ターニャは深く一礼し、店を後にする。背後で、カチリ、と時計の針が動く音がした。
扉を開けて外に出ると、冷たく澄んだ空気が彼女を包んだ。ターニャが後ろを振り返ると、そこにはもう何もなかった。随分な時間を話し込んでいた筈だが、あの不思議な扉を開く前とほとんど時間は変わらないようだった。
ふと立ち止まり、自分の両手を見つめてみる。
……節くれだって、銀の汚れがついた、無骨な職人の手。
「……悪くないわね。」
誇らしげに呟いたその言葉は、しっかりとした自信に満ちていた。
家路を急かす街の鐘が鳴っている。ターニャは振り返ることなく、確かな足取りで光る街へと歩き出した。
お茶を沸かしている機械は、サモワールをイメージしています。




