恋する歌姫とチェリー包み(後編)
ミラの問いかけに、ユーリは困ったように眉を下げて笑った。
「僕みたいに、ですか?…生憎、僕もまだ『なりたい自分』への道半ばなので、僕は答えを持っていないんです。」
ユーリはそう言って、カウンター越しにエレナへと穏やかな視線を向けた。
「でも、ここへ辿り着いたあなたにも、きっと『鍵』は見つかる。エレナさんが導いてくれるはずですよ。」
エレナが小さく、慈しむように微笑む。
彼女はどこからか、底に様々な雑貨が沈んだ大きなガラス瓶を取り出し、ミラの前に置いた。
瓶に満たされた水が、ランプの火を反射してゆらゆらと揺れる。
「私は、ほんの少しお手伝いをするだけ。…ここに、あなたの『本当の想い』を落としてみて。あなたにとって、一番思い入れのあるものを。」
「思い入れのあるもの……?」
ミラは困惑しながら、自分自身を見下ろした。
指先を飾る安物のアクセサリーや、劇団から与えられた衣装。そんなものは山ほどある。
けれど、この魔法の瓶に捧げたいと思えるようなものなんて——。
「…あ。」
ふと、ミラはドレスの隠しポケットに指を触れた。
そこには、端の擦り切れた、一枚のチケットが入っていた。
そのチケットは、ミラが歌姫の座を獲得してから、初めて舞台に立った日のチケットだった。
「…お守りとしてポケットに入れていたのね。もうすっかり、忘れていたわ。」
(あの頃の私は、ただ純粋に、光り輝く舞台に憧れていた。誰の付属品でもない、自分の歌を歌いたいと願って。)
「これにします。これが、私の始まりだったから。」
「あなたがそう決めたのなら、それが正解ね。」
エレナが頷いて、 瓶の蓋を開けた。
ミラは目を閉じると、祈るように紙片を水面へと落とした。
紙片が水面を揺らした、その瞬間だった。
瓶の底から溢れ出したのは、息を呑むほど眩い銀色の光。
それは無数の淡い光の玉となって立ち昇り、宙を舞いながら、やがて優雅な羽根を持つ蝶の姿を形取った。
「…きれい。」
呆然と立ち尽くすミラの鼻先を、一匹の蝶がかすめていく。
蝶が羽ばたくたびに、夜会で自分にこびりついていた安酒と脂ぎった吐息の匂いが消え、代わりに雨上がりの森や、朝露に濡れた野の花のような清涼な香りが満ちていった。
(……ああ。やっと、深く呼吸ができている気がする。)
ミラは深く息を吸い込み、瞼を閉じた。
すると、日々の心が擦り減るような嫌な記憶で塗り潰されていた、「歌姫になって良かった」記憶が、瞼の裏に鮮やかに蘇ってきた。
初めてスポットライトを浴びた時の、肌が粟立つような高揚感。
拙い言葉で「素敵な歌だった」と花束を渡しに来てくれた、観客の青年の照れた笑顔。
「わたしもお姫さまみたいに歌いたい」と瞳を輝かせて自分の手を握ってくれた、幼い少女の小さな手。
(…自分は本物になれない、と思っていたけれど。故郷を飛び出して、望んだ歌姫にもなれて…当時描いていた夢は、ちゃんと叶っていたのね。)
歌姫なのに歌で評価されない現実に押し潰されそうになって、「自分は本物じゃないから」と言い訳や壁を作ることで自分を守ろうとしていた。
けれど。
…望まない日々に心を失って忘れていただけで、きちんと舞台の上の自分を評価してくれた人もいたのだ。
自分自身にも「メッキの歌姫だ」とレッテルを貼って、自分を信じきれないから記憶から消えてしまっていた。
ミラの胸の奥で、小さく冷え切っていた種火が、温かな炎となって爆ぜた。
その熱は全身の血を巡り—…そして、彼女の震える唇からメロディを押し出した。
「…ふん、何がメッキの歌姫だ。良い声してんじゃねぇか。」
「…えぇ。ほんとうに。」
どこか嬉しそうなエレナとニコライの呟きが、ミラの背中を優しく押した。
彼女の口から零れ落ちたのは、彼女が歌姫としての初舞台で、カーテンコールで歌った一曲だった。
歌が盛り上がるにつれて、鎖のように彼女を押さえ付けていたドレスの重みは消え、彼女のヒールは羽根が生えたように軽快なステップを刻み始める。
「…素晴らしい!」
銀の蝶と共に舞い歌うミラを、瞳を輝かせて見ていたユーリが、衝動に突き動かされるようにバイオリンケースを開いた。
凛としたソプラノに、至宝と称されるバイオリンの音が重なる。
弓を弾くユーリと、ステップを踏むミラの視線が重なる。
深い霧と夜の闇に包まれた、夜更けの鍵の在り処。その日に限っては、柔らかな銀色の光と、軽快なステップと楽しげな音楽が夜遅くまで響いていた。
「…はぁ、楽しかったわ!」
最後の銀の蝶が星屑のように空間へ溶けたとき。
肩で息をしたミラは、晴れやかな笑顔で天を仰ぎ、椅子へと崩れ落ちた。
「最高でしたよ!あんなに心弾む歌には、なかなか出会えません。」
バイオリンを置いたユーリが、子供のように目を輝かせて拍手を送る。
巷で天才と誉めそやされる彼の剥き出しの賛辞に、ミラは頬を赤らめながらも、誇らしげな笑顔をユーリに向けた。
「ありがとう、ユーリ。…私、決めたわ。」
ミラは乱れた前髪を無造作に掻き上げ、エレナとユーリを交互に見つめた。
「今日からは、嫌なことは嫌と言うわ。歌に関係ない仕事はしない。それで歌姫の座を追われるなら……それまでの女だったってことよ。その時はまた一から、街角で歌い直すわ。」
ミラの瞳には、強い光が宿っていた。
「そしたら、僕の音楽院を手伝ってくださいよ。あなたのような方と一緒に先生をやれたら、心強いです。」
ユーリの言葉に、ミラは「それもいいわね!」と輝くような笑顔で返す。
「あー!なんだか悩みがなくなったら、お腹がすいてきちゃった。ねぇエレナさん、ここはカフェなのよね?…何か食べるものって、あったりする?」
二人のやり取りを満足そうに眺めていたエレナは、キッチンの奥から鍋を取り出した。
「昨夜仕込んだもので、ちょうどいいのがあったわ。今茹でるから待っていてね。」
エレナはそう言うと、大きな鍋にたっぷりとはった湯を沸かし始めた。
カウンターの下から取り出した木板から、小さく丸まった白い生地の包みが、次々と沸騰する湯の中へと滑り込んでいく。
それはまるで、小さな三日月が湯の中で踊っているようだった。
しばらくすると、熱を帯びた生地がぷっくりと膨らみ、ひとつ、またひとつと水面に浮き上がってくる。
「できたわよ。熱いうちに召し上がれ。」
真っ白な湯気と共に皿に盛られたのは、もちもちとした純白の生地に、透けて見えるほどたっぷりとチェリーの果肉を閉じ込めた、三日月型の果実包みだった。
皿の上では、メインに添えられたバターの欠片が熱に溶けて黄金色に透き通り、ユーリが紅茶に落としたのと同じ、深紅のジャムもバターと一緒に惜しみなく添えられている。
「エレナさん、あなた…深夜になんて罪深いものを作り出すの…!?」
ミラは悲痛な叫びを上げたが、艶やかに光るジャムとバターの誘惑に耐えられるはずもなかった。
震える手でスプーンを取り、ごくりと喉を鳴らす。
「…いただきます。」
ミラは深夜の甘い物という罪悪感にぎゅっと目を閉じながら、スプーンの中身を口へと放り込んだ。
噛んだ瞬間、熱く甘酸っぱい果汁が口いっぱいに弾け、バターの濃厚なコクが魔法のように全身を包み込んだ。
「美味しい…けど、やっぱり罪深いわ…。これ、皆で食べましょうよ!」
ミラは「罪を犯すなら道連れよ! 私だけ太るなんて絶対に嫌だもの!」と、子供のように頬を膨らませた。
その言葉にエレナとニコライは顔を見合わせて苦笑し、ユーリは待ってましたとばかりに嬉々として自分の皿を引き寄せた。
四人で囲む深夜の食卓。安酒の匂いも男たちの下卑た視線もない、「美味しい」と「楽しい」だけが満ちた時間は、瞬く間に過ぎていった。
ふと気がつくと、窓の外の濃い霧が、早朝特有の青白い光に透け始めていた。
魔法が解ける、終わりの合図だ。
「…もう、こんな時間ね。魔法みたいな夜だったわ。」
ミラは名残惜しそうに、窓枠越しに明るくなってきた空を見上げた。
店内は温かいが、窓の近くは朝の冷気に満ちている。そのひんやりとした感触が、高揚した体に心地よかった。
「街まで送りますよ。歌姫を朝帰りで独り歩きさせるわけにはいきませんから。」
エレナが扉を開けると、ユーリがそれを代わって抑え、ミラへと優しく微笑みかけた。
(……純粋で子供みたいだけれど、本当はすごく、頼りがいのある人よね。)
隣に並ぶユーリを見て、ミラはふふっと笑い、それから少しだけ真剣な瞳で彼を見上げた。
「ねえ、ユーリ。今日は本当に楽しかった。……私、あなたのことが好きになっちゃったみたい。」
「え……え?」
「あなたに似合う歌姫になれたら——また、一緒に甘いものを食べに行ってくれる?」
「えっ……あ、はい! 喜んで!」
顔を真っ赤にして立ち尽くすユーリを置き去りにして、ミラは最後にもう一度だけ、扉のそばに立つエレナへと振り返った。
「素敵な夜をありがとう、エレナさん! …それと、エレナさんの旦那様も!」
「だ、旦那!?違うわよ、彼は…彼は、ただの常連さんよ!」
今度はエレナが真っ赤になる番だった。
ミラは茶目っ気たっぷりにウインクして、今度こそユーリの手を引いて歩き出した。
ミラの足取りは、昨日までの鎖を引きずるような重さではなかった。
新たに手に入れた「自分を信じる」という鍵。
それさえあれば、どんな暗い舞台袖からでも、また光の中へと歩き出せる気がした。
エレナの目の前で、バタンと音を立てて扉が閉められた。
(びっ……くりしたわ。旦那さん。旦那さんですって……!)
ニコライと自分が、夫婦に見えたのだろうか?
恐る恐る店奥を振り返ると、案の定、不機嫌を絵に描いたような顔のニコライと目が合った。
瞬間、エレナの顔は火が出そうなほど熱くなる。
「…薬草畑を見てくるわね! ほら、もう朝だし!」
逃げ出すように扉を蹴立てて、エレナは冷気の立ち込める朝の庭へと飛び出した。
室内には、ニコライだけが取り残された。
ニコライは頭をガリガリと掻きむしり、大きなため息をついた後、足をどかりと隣の椅子に乗せた。
眉間に深い皺を寄せ、天井を見ながらぽつりと呟く。
「常連さん、ねぇ……。」
作中に登場した「ヴァレーニキ」は、「甘い水餃子」のような一品です。
とても美味しそうで、書いている間ずっとお腹が空いてしまいました。見た目も可愛いので、よろしければぜひ調べてみてくださいね。




