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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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18/20

恋する歌姫とチェリー包み(後編)


 ミラの問いかけに、ユーリは困ったように眉を下げて笑った。


「僕みたいに、ですか?…生憎、僕もまだ『なりたい自分』への道半ばなので、僕は答えを持っていないんです。」


 ユーリはそう言って、カウンター越しにエレナへと穏やかな視線を向けた。


「でも、ここへ辿り着いたあなたにも、きっと『鍵』は見つかる。エレナさんが導いてくれるはずですよ。」


 エレナが小さく、慈しむように微笑む。

 彼女はどこからか、底に様々な雑貨が沈んだ大きなガラス瓶を取り出し、ミラの前に置いた。

 瓶に満たされた水が、ランプの火を反射してゆらゆらと揺れる。


「私は、ほんの少しお手伝いをするだけ。…ここに、あなたの『本当の想い』を落としてみて。あなたにとって、一番思い入れのあるものを。」


「思い入れのあるもの……?」


 ミラは困惑しながら、自分自身を見下ろした。

 指先を飾る安物のアクセサリーや、劇団から与えられた衣装。そんなものは山ほどある。

 けれど、この魔法の瓶に捧げたいと思えるようなものなんて——。


「…あ。」


 ふと、ミラはドレスの隠しポケットに指を触れた。

 そこには、端の擦り切れた、一枚のチケットが入っていた。

 そのチケットは、ミラが歌姫の座を獲得してから、初めて舞台に立った日のチケットだった。


「…お守りとしてポケットに入れていたのね。もうすっかり、忘れていたわ。」


(あの頃の私は、ただ純粋に、光り輝く舞台に憧れていた。誰の付属品でもない、自分の歌を歌いたいと願って。)


「これにします。これが、私の始まりだったから。」


「あなたがそう決めたのなら、それが正解ね。」


 エレナが頷いて、 瓶の蓋を開けた。

 ミラは目を閉じると、祈るように紙片を水面へと落とした。


 紙片が水面を揺らした、その瞬間だった。

 瓶の底から溢れ出したのは、息を呑むほど眩い銀色の光。

 それは無数の淡い光の玉となって立ち昇り、宙を舞いながら、やがて優雅な羽根を持つ蝶の姿を形取った。


「…きれい。」


 呆然と立ち尽くすミラの鼻先を、一匹の蝶がかすめていく。

 蝶が羽ばたくたびに、夜会で自分にこびりついていた安酒と脂ぎった吐息の匂いが消え、代わりに雨上がりの森や、朝露に濡れた野の花のような清涼な香りが満ちていった。


(……ああ。やっと、深く呼吸ができている気がする。)


 ミラは深く息を吸い込み、瞼を閉じた。


 すると、日々の心が擦り減るような嫌な記憶で塗り潰されていた、「歌姫になって良かった」記憶が、瞼の裏に鮮やかに蘇ってきた。


 初めてスポットライトを浴びた時の、肌が粟立つような高揚感。

 拙い言葉で「素敵な歌だった」と花束を渡しに来てくれた、観客の青年の照れた笑顔。

 「わたしもお姫さまみたいに歌いたい」と瞳を輝かせて自分の手を握ってくれた、幼い少女の小さな手。


(…自分は本物になれない、と思っていたけれど。故郷を飛び出して、望んだ歌姫にもなれて…当時描いていた夢は、ちゃんと叶っていたのね。)


 歌姫なのに歌で評価されない現実に押し潰されそうになって、「自分は本物じゃないから」と言い訳や壁を作ることで自分を守ろうとしていた。


 けれど。


 …望まない日々に心を失って忘れていただけで、きちんと舞台の上の自分を評価してくれた人もいたのだ。

 自分自身にも「メッキの歌姫だ」とレッテルを貼って、自分を信じきれないから記憶から消えてしまっていた。


 ミラの胸の奥で、小さく冷え切っていた種火が、温かな炎となって爆ぜた。

 その熱は全身の血を巡り—…そして、彼女の震える唇からメロディを押し出した。


「…ふん、何がメッキの歌姫だ。良い声してんじゃねぇか。」


「…えぇ。ほんとうに。」


 どこか嬉しそうなエレナとニコライの呟きが、ミラの背中を優しく押した。

 彼女の口から零れ落ちたのは、彼女が歌姫としての初舞台で、カーテンコールで歌った一曲だった。

 歌が盛り上がるにつれて、鎖のように彼女を押さえ付けていたドレスの重みは消え、彼女のヒールは羽根が生えたように軽快なステップを刻み始める。


「…素晴らしい!」

 

 銀の蝶と共に舞い歌うミラを、瞳を輝かせて見ていたユーリが、衝動に突き動かされるようにバイオリンケースを開いた。


 凛としたソプラノに、至宝と称されるバイオリンの音が重なる。

 弓を弾くユーリと、ステップを踏むミラの視線が重なる。

 深い霧と夜の闇に包まれた、夜更けの鍵の在り処(カフェ・クリューチ)。その日に限っては、柔らかな銀色の光と、軽快なステップと楽しげな音楽が夜遅くまで響いていた。




 「…はぁ、楽しかったわ!」


 最後の銀の蝶が星屑のように空間へ溶けたとき。

 肩で息をしたミラは、晴れやかな笑顔で天を仰ぎ、椅子へと崩れ落ちた。


 「最高でしたよ!あんなに心弾む歌には、なかなか出会えません。」


 バイオリンを置いたユーリが、子供のように目を輝かせて拍手を送る。

 巷で天才と誉めそやされる彼の剥き出しの賛辞に、ミラは頬を赤らめながらも、誇らしげな笑顔をユーリに向けた。


「ありがとう、ユーリ。…私、決めたわ。」


 ミラは乱れた前髪を無造作に掻き上げ、エレナとユーリを交互に見つめた。


「今日からは、嫌なことは嫌と言うわ。歌に関係ない仕事はしない。それで歌姫の座を追われるなら……それまでの女だったってことよ。その時はまた一から、街角で歌い直すわ。」


 ミラの瞳には、強い光が宿っていた。


「そしたら、僕の音楽院を手伝ってくださいよ。あなたのような方と一緒に先生をやれたら、心強いです。」


 ユーリの言葉に、ミラは「それもいいわね!」と輝くような笑顔で返す。


「あー!なんだか悩みがなくなったら、お腹がすいてきちゃった。ねぇエレナさん、ここはカフェなのよね?…何か食べるものって、あったりする?」


 二人のやり取りを満足そうに眺めていたエレナは、キッチンの奥から鍋を取り出した。


「昨夜仕込んだもので、ちょうどいいのがあったわ。今茹でるから待っていてね。」


 エレナはそう言うと、大きな鍋にたっぷりとはった湯を沸かし始めた。

 カウンターの下から取り出した木板から、小さく丸まった白い生地の包みが、次々と沸騰する湯の中へと滑り込んでいく。


 それはまるで、小さな三日月が湯の中で踊っているようだった。

 しばらくすると、熱を帯びた生地がぷっくりと膨らみ、ひとつ、またひとつと水面に浮き上がってくる。


「できたわよ。熱いうちに召し上がれ。」

 

 真っ白な湯気と共に皿に盛られたのは、もちもちとした純白の生地に、透けて見えるほどたっぷりとチェリーの果肉を閉じ込めた、三日月型の果実包み(ヴァレーニキ)だった。

 皿の上では、メインに添えられたバターの欠片が熱に溶けて黄金色に透き通り、ユーリが紅茶に落としたのと同じ、深紅のジャムもバターと一緒に惜しみなく添えられている。


「エレナさん、あなた…深夜になんて罪深いものを作り出すの…!?」


 ミラは悲痛な叫びを上げたが、艶やかに光るジャムとバターの誘惑に耐えられるはずもなかった。

 震える手でスプーンを取り、ごくりと喉を鳴らす。


「…いただきます。」


 ミラは深夜の甘い物という罪悪感にぎゅっと目を閉じながら、スプーンの中身を口へと放り込んだ。

 噛んだ瞬間、熱く甘酸っぱい果汁が口いっぱいに弾け、バターの濃厚なコクが魔法のように全身を包み込んだ。


「美味しい…けど、やっぱり罪深いわ…。これ、皆で食べましょうよ!」


 ミラは「罪を犯すなら道連れよ! 私だけ太るなんて絶対に嫌だもの!」と、子供のように頬を膨らませた。

 その言葉にエレナとニコライは顔を見合わせて苦笑し、ユーリは待ってましたとばかりに嬉々として自分の皿を引き寄せた。


 四人で囲む深夜の食卓。安酒の匂いも男たちの下卑た視線もない、「美味しい」と「楽しい」だけが満ちた時間は、瞬く間に過ぎていった。


 ふと気がつくと、窓の外の濃い霧が、早朝特有の青白い光に透け始めていた。

 魔法が解ける、終わりの合図だ。


「…もう、こんな時間ね。魔法みたいな夜だったわ。」


 ミラは名残惜しそうに、窓枠越しに明るくなってきた空を見上げた。

 店内は温かいが、窓の近くは朝の冷気に満ちている。そのひんやりとした感触が、高揚した体に心地よかった。


「街まで送りますよ。歌姫を朝帰りで独り歩きさせるわけにはいきませんから。」


 エレナが扉を開けると、ユーリがそれを代わって抑え、ミラへと優しく微笑みかけた。


(……純粋で子供みたいだけれど、本当はすごく、頼りがいのある人よね。)


 隣に並ぶユーリを見て、ミラはふふっと笑い、それから少しだけ真剣な瞳で彼を見上げた。


「ねえ、ユーリ。今日は本当に楽しかった。……私、あなたのことが好きになっちゃったみたい。」


「え……え?」


「あなたに似合う歌姫になれたら——また、一緒に甘いものを食べに行ってくれる?」


「えっ……あ、はい! 喜んで!」


 顔を真っ赤にして立ち尽くすユーリを置き去りにして、ミラは最後にもう一度だけ、扉のそばに立つエレナへと振り返った。


「素敵な夜をありがとう、エレナさん! …それと、エレナさんの旦那様も!」


「だ、旦那!?違うわよ、彼は…彼は、ただの常連さんよ!」


 今度はエレナが真っ赤になる番だった。

 ミラは茶目っ気たっぷりにウインクして、今度こそユーリの手を引いて歩き出した。


 ミラの足取りは、昨日までの鎖を引きずるような重さではなかった。

 新たに手に入れた「自分を信じる」という鍵。

 それさえあれば、どんな暗い舞台袖からでも、また光の中へと歩き出せる気がした。




 エレナの目の前で、バタンと音を立てて扉が閉められた。


(びっ……くりしたわ。旦那さん。旦那さんですって……!)


 ニコライと自分が、夫婦に見えたのだろうか?

 恐る恐る店奥を振り返ると、案の定、不機嫌を絵に描いたような顔のニコライと目が合った。

 瞬間、エレナの顔は火が出そうなほど熱くなる。


「…薬草畑を見てくるわね! ほら、もう朝だし!」


 逃げ出すように扉を蹴立てて、エレナは冷気の立ち込める朝の庭へと飛び出した。


 室内には、ニコライだけが取り残された。


 ニコライは頭をガリガリと掻きむしり、大きなため息をついた後、足をどかりと隣の椅子に乗せた。

 眉間に深い皺を寄せ、天井を見ながらぽつりと呟く。



「常連さん、ねぇ……。」



作中に登場した「ヴァレーニキ」は、「甘い水餃子」のような一品です。

とても美味しそうで、書いている間ずっとお腹が空いてしまいました。見た目も可愛いので、よろしければぜひ調べてみてくださいね。

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