恋する歌姫とチェリー包み(中編)
「……嘘でしょ。なんで、彼がここに」
ミラは、カウンターに突っ伏していた体を慌てて起こした。
自分の乱れた髪を整えるのも忘れ、金髪に白磁の肌を持つ青年を凝視する。
ユーリ・ベルコフ。
この国の至宝と謳われ、高位貴族の前でも物怖じせず弦を鳴らす、若き天才。
歌姫としての舞台よりも、日夜接待でメッキの笑顔を振りまくことの方が多いミラにとって、彼は文字通り、雲の上の人間だった。
「ごめんなさい、夜分に。エレナさんに会いたいと伝えたら、『今から行けばいいだろ』ってニコライさんが。」
「近くの酒場に久々に顔を出してみたら、安酒場に似合わねぇ燕尾服のやつが居たからよ。お前、すごい奴だったんだな。」
「そんな大したものではありませんよ。」
ユーリは苦笑しながら、自分の袖を引いてきたニコライの顔を伺う。
エレナにとりあえず座るよう促され、ニコライはいつもの定位置に、ユーリはミラの隣に腰をかけ、傍にバイオリンケースを置いた。
(有名人が隣の席に…。)
ミラは落ち着かない気持ちで、隣をちらりと横目で見た。
まるで宗教画から抜け出してきたような、天使様のような横顔。
ユーリ・ベルコフと言えば、音楽の世界の端くれにいるミラでも知っている名前だ。
貧しい平民の出身でありながら名門音楽院を卒業したという彼の人生の物語は、彼の音楽家としての実力も相まって、世間では美談として語られている。しかしそれは、ミラからすれば、あまりに出来すぎた成功譚に思えた。
(余程の才能や美貌がないと無理よ。普通の平民が頑張ってなれるのなんて、精々私のような『そこそこ』の劇団の歌姫くらいのものだわ。)
眩しすぎる隣人に、ミラは無意識に心の壁を一段高く積み上げた。
暫しの間、冷めた感情でユーリの横顔を見つめていたミラだったが、彼がエレナから出してもらった紅茶に紅茶とほぼ同量のジャムを落として飲み始めたのを見て、目の色を変えた。
「ユーリ…さん?入れすぎじゃないですか?」
「え?そうかなぁ。北国だとこのくらい入れる気がするけど…あと、全然ユーリでいいですよ。」
「…北の国でもそこまで入れないわよ。」
呆れたエレナがユーリにスプーンを渡すと、彼はもはや固形に近くなった紅茶を嬉しそうにスプーンでかき混ぜて飲み始めた。
「いくらなんでも入れ過ぎだろ。中毒になるか、早逝するかのどっちかになるぞ。」
「酷いなぁ、ニコライさんは。」
辛辣なニコライの言葉に、ユーリは苦笑する。
その顔は、新聞の挿絵で見るような貴公子然とした表情とは異なり、年相応の青年のものだった。
「…なんか、意外ですね。ユーリさんってもっと『雲の上の人』って感じに思ってました。」
思わずミラがユーリに本音を零すと、ユーリは頬をかきながら赤くなった。
「よく言われるんですけど、全然ですよ。田舎の貧しい育ちなので、昔はあまり食べられなかった分、今は甘いものに目がなくて。」
「…田舎のご出身なんですか?」
「えぇ。北の国の、地図に名前も載っていないような小さな村です。今は立場上、頑張って貴族然とした態度を取ってますが、本当の僕は貧乏性なので困ることもあるんですよ。」
そこからユーリが語ってくれた自身の話は、ミラの想像とは随分かけ離れているものだった。
上等な白パンはお腹にたまらないから、本音を言うと安くて大きい黒パンが好きだとか。
靴下に穴が空いて捨てなければならない時、繕えば使えるのに、と勿体無く思う、とか。
極めつけは、彼が豪勢な晩餐会に呼ばれた時の話だった。
「あの豪華な一皿で村の牛が買える、なんて考え始めると、もうバイオリンを弾くより緊張しちゃって。結局、味がよく分からないまま終わるんです。」
真面目な顔で語る彼を見て、ミラの喉の奥から、こらえきれない笑いがせり上がってきた。
「っふ、あはは!ユーリ・ベルコフって案外、普通の男の子なのね!」
笑いすぎて目尻に溜まった涙を指で拭いながら、「なんだか元気が出たわ。」とミラが言うと、ユーリは表情を緩めた。
「そういやぁよ。お前、エレナに用があるんじゃなかったのか?」
ニコライがユーリに問いかけると、彼はハッとして燕尾服のポケットを探り始めた。
「あぁ、そうでした。今日はエレナさんにお礼を伝えたくて、ここへ伺ったんです。」
「お礼?」
ユーリは燕尾服の内ポケットから、小さな紙を取り出した。
その紙には、紺色の盾形の枠と銀色の鍵を中心に、交差するバイオリンと、下の方にはプリムラの花が描かれていた。
「あの日、この場所でいただいた勇気のおかげで、すれ違っていた家族とも向き合うことができました。」
ユーリは初めて鍵の在り処へ辿り着いた日を思い出すように、店内を見渡した。
「ここで魔法をかけて貰って、家族と話して。それで、残った気持ちはすごくシンプルでした。」
ユーリは紙面の意匠をエレナに向けた。
「『どんな人も音楽の楽しさに触れてほしい』。その想いから、平民向けの音楽院を設立することにしたんです。これはその音楽院の意匠です。」
エレナさんに貰った鍵を、僕も誰かに繋いでいきたい。
ユーリは、真っ直ぐエレナを見つめながら、そう告げた。
「その報告と、きっかけをくれたエレナさんへのお礼をずっと伝えたかったのですが、なかなか会えなくて。」
「それで森に一番近い酒場を彷徨いてたのか。もうボンボンっぽいなりで酒場なんか行くなよ。」
全員が善人ってわけじゃねぇぞ、とニコライが気だるげな目をユーリへと向ける。
ユーリは苦笑しながら、「ニコライさんがいて助かりましたよ。」とニコライへも軽く頭を下げた。
「…私はほんの少し、正しい道に戻る手助けをしただけよ。残りは全て、あなたが頑張ったことでしょう。」
「その『ほんの少し』が重要なんです。僕はあの日ここに訪れなかったら、両親と仲を修復することも、平民向けの音楽院を開こうと思うこともなかったでしょうから。」
ユーリは意匠の描かれた紙を内ポケットに戻し、「本当にありがとうございました」と言いながら、深くエレナへと頭を下げた。
「音楽を好きだったことを思い出させてくれて…ありがとうございました。」
(…彼のように才能があって順風満帆に見える人も、ちゃんと悩んで、苦しんで、それでも頑張っているんだ。)
ユーリとエレナのやり取りを見ていたミラは、自分の今までを振り返った。
世の中で自分よりも成功している人に『天才』『本物』と勝手にラベルを貼り付けて、「自分とは違う」「あの人は特別な才能があったからだ」と自分に言い聞かせてきた。
けれど、実際はどうだろう。
雲の上の人だと思っていたユーリも、素顔は二十代の等身大の青年だ。
彼もまた、彼なりに精一杯背伸びをして、周りからの期待に応えながら、自分のやりたいことを実現しようともがいている。
(…でも……でも、それがわかった上で、私は…。)
ミラの脳裏に、豪奢なドレスを着せられて、虚な目をして口角だけで笑う自分の姿が浮かんだ。
それと同時に、団長からのねっとりとした視線や、接待客の下卑た笑い声など、心が嫌だと叫んだ今までの瞬間が濁流のように思い浮かんでくる。
ミラにとって歌姫という仕事は、『誰かの添え物の人生になりたくない』という目的を達成するための手段でしかなかった。
別に歌じゃなくたって、目的を叶えるための手段は何だって良いと思っていた。
それでも—…
「私…自分で思うよりもずっと、歌が好きだったみたい。」
ユーリの「音楽が好きだったことを思い出した」という言葉は、ミラの胸の奥にすとんと落ちた。
それと同時に、ミラは、自分がなぜあんなにも、団長達の脂ぎった視線を憎んでいたのかを悟った。
歌がただの手段であったなら、割り切れた。けれど—…
「私、ちゃんと歌で評価されたいの。…どうすれば、あなたみたいになれるの…?」
自分が大切に思っていた歌を—…歌を歌っている自分を、接待の『添え物』扱いされることが。
——そして、自分の歌が『添え物』程度の感動しか与えられていないという事実が、死ぬほど悔しくて、悲しかったのだ。
ミラはハンカチで目尻を押さえながら、途方にくれた目でユーリを見上げた。




