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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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16/20

恋する歌姫とチェリー包み(前編)


 香水の甘ったるい匂いと、安酒の混ざった男たちの体臭。

 それらがこびりついた夜会のドレスは、今のミラにとっては重い鎖と同じだった。


「ミラ、もっと笑って。君のその笑顔が、次の公演の予算を決めるんだから。」


 団長の湿った声が耳に響く。

 酔っ払い特有の酒臭い吐息に、顔を顰めそうになるのを堪えて、ミラは意識して笑顔を作りながら小声で返事をする。


「わかってますよ、団長。」


 団長を含めた、年嵩の男性陣の笑い声が反響して聞こえる。

 くだらない自慢話や、若い頃の武勇伝が飛び交うことの一体何がそんなに楽しいのか、ミラには分からなかった。


(…あぁ、早く終わらないかなぁ。)





「バカみたい。」


 永遠にも感じられた宴会が終わった後。

 家に着く少し手前で辻馬車を降りて、その女性—…ミラは歩いていた。


 ミラ・チェルノヴァ十九歳。

 田舎の村を飛び出し、若くして劇団の「歌姫(プリマドンナ)」という座を掴み取った。

 世間的に見れば、華やかで成功者に見える肩書きだろう。


 けれど、実際のところ。

 歌姫なんていうのは、舞台に立っている時間よりも、出資先や脚本家に接待でお酌をし、聞きたくもない自慢話に相槌を打っている時間の方がずっと長い。

 

(私は、お酒を美味しくするための華でしかないのね。)

 

 故郷の村に居た頃。

 男たちが騒ぐ宴会の端で、くるくると忙しく働かされていた女たちの姿が脳裏をよぎる。

 場所が劇場に変わっただけで、自分と故郷の女性達がやっていることは、何も変わらない。

 

 自分の価値は、歌の実力ではなく「どれだけ男たちの機嫌を取れるか」で決まっている。


「…ほんと、バカみたい。」


 ぽつりと呟いた自分の声が、夜闇へと響いて溶けていく。

 足元ばかり見て歩いていたので気が付かなかったが、今夜は随分と深い霧が出ているようだ。

 なんとなく家に帰る気分になれなかったので、行く当てもなく歩いていたが、さすがにそろそろ家に帰ろうか—…。



 そう思っていた時。

 彼女の目の前にそれは現れた。


 

 鳥の脚のような奇妙な古木に乗った、歪な大木のような家。

 魔女の家のような不気味な佇まいだが、窓からは暖かい光が漏れ出ており、煙突からは何やら良い香りが漂っている。

 いつの間にか、あたりには足元の石畳さえ見えないほどの濃い霧が出ていた。


 近寄って見てみると、扉には真鍮のプレートで「カフェ・クリューチ」の文字がかかっている。



(こんな夜更けに、カフェなんて開いているものかしら。)



 訝しく思ったミラだったが、『この最悪な気分のまま帰りたくない』という心の声に突き動かされ、ふらふらと重厚な扉へと歩み寄り、それを押し開けた。



「あの…こんな夜更けですが、空いているんでしょうか?」



 扉を開けた瞬間、鼻腔を突いたのは——安っぽい香水でも、男たちの脂ぎった吐息でもなかった。

 どこか懐かしい、乾いた薪が燃える匂いと、摘みたての薬草を煮出したような、清らかな香り。



「あら。夜中のお客様は珍しいわね。どうぞいらっしゃい。」


 中に入ると、白銀色の髪と濃紺のドレスの似合う、絶世の美女が現れた。


「店主さん、すっごい美人さんね。扉を開けた時、異界にでも来たのかと思ったわ。」


「どうもありがとう。…異界というのはまぁ、当たらずとも遠からず、かしら。」


「え、どういうことですか…?」



 店主の口から告げられる言葉に、ミラは首をかしげる。



「ここは人生の迷い子が辿り着く場所だから。あなたも導かれたのでしょう。」



 ミラは息を呑んで、店主——エレナを見つめた。


 噂で聞いたことがある。


 この街にある深い霧の森の中は、人生の迷い子しか辿り着かない不思議な家がある。

 そこで麗しい女店主に悩みを打ち明けると、不思議な魔法の力で、自分の行くべき道を示してもらえるという噂だった。



 初めはミラも眉唾だと思いながら聞いていたが、今や街一番の人気を誇る女銀細工師の店も、その出来事がきっかけで人気店になったのだという。その店で彼氏に買ってもらったのだと、銀細工を自慢していた同僚の女が語っていた。



(ここがそうなのね。今夜辿り着けたのは、運が良かったのかもしれない。)



 望まない接待ばかりの毎日に、ミラの心は擦り減っていた。

 誰でも良いから、この胸に渦巻く暗い感情を吐き出させてくれる人が欲しかったのだ。



「ねぇ魔女さん。そうしたら、一緒に夜更かしをしながら、私の話を聞いてくれる?」


「えぇ。ここはそのための場所ですもの。」


 エレナは微笑みながら、温かい湯気の立つティーカップをミラの前へ置いた。


「…それから、魔女じゃなくてエレナで良いわ。ミラさん。」




 空に浮かぶ月も頭上高くまでのぼり、夜空を彩る星座も天辺から少し傾いた頃。

 


「もう本当に…毎日が最悪な気分なの!」



 ミラは、ワイングラスを片手に、日々の鬱憤をエレナにぶちまけていた。

 ミラが鍵の在り処(カフェ・クリューチ)の扉を叩いてから、すでに数刻が経っていた。



 「普段は歌姫として、誰がどこで見ているか分からないから」と本音を話す機会の少ないミラは、自分がこんなにも口汚く罵るほど劇団に対して不満を募らせていたのだと、自分でも初めて気が付いた。



(…こんな酷い言葉を、今日出会ったばかりの他人に聞かせるなんて、人として良くないわ。)



 そう思っているのに、心の奥底にぎゅうぎゅう詰めにして押し込んできた不満や怒りが、溢れ出して止まらなかった。



「でも…こんな思いをしているのも、私が本物の歌姫になれなかったからなのかな。」



 肩で息をしながら散々大声を張り上げていたミラだったが、風船が萎むかのように急速に項垂れ、カウンターに突っ伏した。



「…私の故郷はね。女性は、男性の付属品みたいな扱いだったのよ。」



 男性がどっかりと座って自分は忙しく働かされようとも、女が文句を言うことは許されない。

 酌を求める男がいたら、女は笑顔で応えなければならない。

 いやらしい言葉を年嵩の男性から投げつけられようとも、さらりと笑って受け流す。

 …それが、良い女というもの。



 故郷にいるのは、そんな考え方で、がっちりとねじ止めされた女達ばかりだった。

 自分の母もその一人だ。

 父に酷い言葉をぶつけられても、いつも笑顔で謝っていて、文句を言っているのを見たことがない。



「故郷を飛び出す時、母に『あんたみたいな、つまらない女になんてなるもんか!』って怒鳴っちゃったの。でも…」



 ミラは目尻に涙を浮かべた。



「今の私、彼女達と同じね。いつの間にか私も、『つまらない女』になっちゃった。」



 今の自分が、歌姫としての地位や世間からの評判に雁字搦めにされているように。

 自分が昔『つまらない生き方の女だ』と吐き捨てた、母を含む故郷の女たちにも、内心に秘めた不満や怒りがあったのだろうか。



「容姿もエレナさんみたいに飛び抜けて美しくはない。歌も、聞くだけで観客が足を止めるほど、光る原石を持っているわけでもない。」


 ティーカップの水面に映るミラの顔が、くしゃりと歪む。


「メッキの歌姫なんて、接待要員でしかないわよね。本物の歌姫なら、こんな思いもしなかったのに。」


「…あなたの言う、本物の歌姫って何なの?」


 それまで黙って話を聞いていたエレナが、初めてミラに問いかけた。


「そりゃ、やっぱり—…。」



 ミラが言いかけた時。

 バァン! という大きな音を立てて、重厚な扉が開けられた。


 エレナとミラが振り返ると、そこには長い黒髪を束ねた、冷たそうな青灰色(ブルーグレー)の瞳の男——ニコライと、それからもう一人。


「おい。こいつ、酒場でエレナのことを聞き回ってたんだけどよ。客か?」


「ちょ、ちょっとその人…天才バイオリニストの、ユーリ・ベルコフじゃない!」


 ニコライに燕尾服の袖を雑に引かれて、困り顔で笑っているユーリだった。


 

最後に登場したユーリは、第3〜5話『不揃いなスープ』に登場しています。


私事ですが、本日で執筆を始めてちょうど1ヶ月を迎えました。

右も左もわからぬまま最初の1ヶ月を書き続けられたのは、無名の新人作家の作品を手に取り、そしてここまで読んでくださっている皆様のおかげです。

いつもありがとうございます。


「続きが気になる!」「1ヶ月おめでとう!」と思っていただけたら、ぜひいいねや感想欄でお知らせいただけると嬉しいです。

引き続き更新頑張りますので、よろしくお願いします!

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