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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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15/20

【閑話】濃紺色のリボン


「子どもに対して優しいのね、あなた。」


 空の端で夕日の残滓と夜の帳が溶け合い、深い菫色に染まる頃。

 パシュカを送り届けに出たニコライが、冷えた外気と共に戻ってきた。


「そうでもねぇさ。」


 勝手知ったる様子で上着を壁際のフックにかけ、彼はいつもの定位置へと向かう。

 ぶっきらぼうな返事とは裏腹に、彼の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。


 店奥の椅子に腰掛ける背中を追いながら、エレナはティーカップを置いて問いかける。


「優しくない人が、あんなに真剣に子供に向き合わないでしょう? 何か、思うところでもあったの?」


 エレナの声に、ニコライの手が止まった。キャンバスの傍らに筆を置くと、彼は背もたれに深く体を預けた。


「……俺も孤児だったからな。どうしても、昔の自分と重ねちまったのかもしれねぇ。」


 その瞳が、窓の外の暗がりに遠い記憶を探すように向けられた。


「俺は孤児院育ちでな。親の顔は知らねぇ。十四か十五で放り出されるまでは、地面に木の枝で絵を描くか、院長…気のいい爺さんだったんだけどな。その人に頼み込んで、院の壁に絵を描かせてもらうのが、唯一の娯楽だった。」


 ニコライは皮肉な笑みを浮かべて続ける。


「…だが、孤児が絵で食うなんてのは、この国じゃ笑い話にもならねぇ夢物語だ。」


「どうして?」


 ニコライは自嘲気味に笑い、自らの傍らにある、汚れの目立つ画材を見つめた。


「まず画材が高ぇ。それに、どこの馬の骨かも分からねぇ孤児の絵なんざ、誰も金を出して買いやしない。画材を揃えるだけで血を吐くような思いをしたさ。やりたくもねぇ仕事もしたし、飢えを凌ぐためにカビた黒パンを齧った日も一度や二度じゃねぇ。」


 ニコライはふっと微笑んで、愛おしそうにキャンバスを撫ぜた。


「…それでも、やめられなかったんだ。残念ながら、今も成功者とは呼べねぇがな。」


「…あなたの絵、私は好きよ。いつか、この森を飛び出して日の目を見る日が来るわ。」


「ありがとな。…まぁ、いつまでもあんたの店に入り浸ってるわけにもいかねぇしな。一発当てて、さっさと身を立ててやるさ。」


 そう言って再び筆を握るニコライ。

 普段は温度のない青灰色の瞳に、創作の熱が灯る。それを見るのが嫌いではないことに、エレナは最近気づき始めていた。


 ニコライがキャンバスに筆を動かす静かな音だけが、空間を支配する。


 だがその平穏は、ニコライの長い黒髪に油絵の具がべっとりと付いた瞬間、エレナによって破られた。


「ちょっと、ニコライ! 髪に絵の具がついてるわよ!」


「ん? ああ、またか。…仕方ねぇな。」


 言い終えるより早く、ニコライは卓上の裁ち鋏を手に取った。

 そして――迷いなく、絵の具のついた毛束を、ジャリッと切り落とした。


「な、……なっ……!!」


 エレナが絶句しているのも構わず、彼は切り落とした髪の毛を見つめて呑気に呟く。


「これ、暖炉に焼べといていいか? 火種くらいにはなるだろ。」


「何してるのよ! あなた、たまに左右の長さが違うのって、それが原因だったの!?」


「ん? ああ。たまに画材が足りない時に髪を売るから伸ばしてるんだが、顔の横はどうしても絵の具で汚しやすいからな。」


 得意げに「黒髪は珍しいから、割といい金になるんだぜ?」などと言うニコライに、エレナは更に憤慨する。


「信じられない…!髪はもっと大事に扱いなさいよ!」


 自分の頭髪に一切の興味がないニコライには、なぜエレナがこれほどの剣幕で怒っているのか理解できない。ただ、エレナは地面につくほど長くとも白銀色(プラチナブロンド)の髪を綺麗に保っているようなので、自分の行為は、彼女の琴線に触れるものであったらしい。


(髪の毛は魔女的に大事なものなんだろうか?何かの触媒として?もしそうであったなら、それについては興味があるから、今度教えてはくれまいか――)


 ニコライがそんな考えに耽っていた時。

 ぐいと後ろから髪の毛を引っ張られ、彼は意識を戻した。


「おい、何やってんだ。」


「結ぶのよ!もうあんな雑に髪の毛が扱われるのは、見たくないわ!」


 プリプリと怒りながら、エレナは銀の櫛で彼の黒髪を梳き始めた。

 戸惑っていたニコライだったが、頭皮を滑る櫛の感触が存外に心地よく、抗うのをやめて目を閉じた。


「はい、出来たわよ。」


 満足げなエレナの声に目を開け、渡された手鏡を覗き込む。

 そこには、エレナが普段愛用しているものと同じ――濃紺色のリボンで、すっきりと髪をまとめられた自分の姿があった。


「おぉ……。これなら邪魔にならないし、絵の具もつかねぇな。ありがとな、エレナ。」


 振り返り、屈託のない笑みを向けるニコライ。

 それを見たエレナは、思わず息を呑んだ。


(…髪を結ぶだけで、印象って変わるものね。)


 鬱陶しく顔にかかっていた髪が払われたことで、彼の鋭利なほどに整った鼻梁と輪郭が浮き彫りになっていた。

 何より、黒髪に青灰色の瞳と、濃紺色のリボンは良く調和しており――


(……? 何かしら、この感じ。)


 自分と揃いのリボンが彼の黒髪の上にあるのを見た瞬間。

 

 エレナの胸の奥で、経験したことのないざわめきが波紋のように広がった。

 少し熱くてくすぐったいような、妙に居心地の悪い、違和感のようなもの。


(…さっきのピロシキでは、お腹が満たされなかったのかしら。今日は朝から動いたものね。)


「…お夕飯、食べていく?」


「ありがたくいただこう!」


 エレナは胸の奥の違和感を「空腹のせい」と結論づけると、いつもよりも少し落ち着かない手つきで、鍋を火にかけるのだった。


二人の距離がほんの少しだけ縮まった夜のお話でした。


次回の更新は土曜日(明日)の夜を予定しています。

二人の日常に、また新たな「鍵」が届くのか、それとも…?

ぜひ明日も霧の森へ遊びに来ていただけると嬉しいです。


面白いと思っていただけたら、評価やいいね・感想等で応援いただけると執筆の大きな励みになります!

よろしくお願いいたします。

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