【閑話】濃紺色のリボン
「子どもに対して優しいのね、あなた。」
空の端で夕日の残滓と夜の帳が溶け合い、深い菫色に染まる頃。
パシュカを送り届けに出たニコライが、冷えた外気と共に戻ってきた。
「そうでもねぇさ。」
勝手知ったる様子で上着を壁際のフックにかけ、彼はいつもの定位置へと向かう。
ぶっきらぼうな返事とは裏腹に、彼の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
店奥の椅子に腰掛ける背中を追いながら、エレナはティーカップを置いて問いかける。
「優しくない人が、あんなに真剣に子供に向き合わないでしょう? 何か、思うところでもあったの?」
エレナの声に、ニコライの手が止まった。キャンバスの傍らに筆を置くと、彼は背もたれに深く体を預けた。
「……俺も孤児だったからな。どうしても、昔の自分と重ねちまったのかもしれねぇ。」
その瞳が、窓の外の暗がりに遠い記憶を探すように向けられた。
「俺は孤児院育ちでな。親の顔は知らねぇ。十四か十五で放り出されるまでは、地面に木の枝で絵を描くか、院長…気のいい爺さんだったんだけどな。その人に頼み込んで、院の壁に絵を描かせてもらうのが、唯一の娯楽だった。」
ニコライは皮肉な笑みを浮かべて続ける。
「…だが、孤児が絵で食うなんてのは、この国じゃ笑い話にもならねぇ夢物語だ。」
「どうして?」
ニコライは自嘲気味に笑い、自らの傍らにある、汚れの目立つ画材を見つめた。
「まず画材が高ぇ。それに、どこの馬の骨かも分からねぇ孤児の絵なんざ、誰も金を出して買いやしない。画材を揃えるだけで血を吐くような思いをしたさ。やりたくもねぇ仕事もしたし、飢えを凌ぐためにカビた黒パンを齧った日も一度や二度じゃねぇ。」
ニコライはふっと微笑んで、愛おしそうにキャンバスを撫ぜた。
「…それでも、やめられなかったんだ。残念ながら、今も成功者とは呼べねぇがな。」
「…あなたの絵、私は好きよ。いつか、この森を飛び出して日の目を見る日が来るわ。」
「ありがとな。…まぁ、いつまでもあんたの店に入り浸ってるわけにもいかねぇしな。一発当てて、さっさと身を立ててやるさ。」
そう言って再び筆を握るニコライ。
普段は温度のない青灰色の瞳に、創作の熱が灯る。それを見るのが嫌いではないことに、エレナは最近気づき始めていた。
ニコライがキャンバスに筆を動かす静かな音だけが、空間を支配する。
だがその平穏は、ニコライの長い黒髪に油絵の具がべっとりと付いた瞬間、エレナによって破られた。
「ちょっと、ニコライ! 髪に絵の具がついてるわよ!」
「ん? ああ、またか。…仕方ねぇな。」
言い終えるより早く、ニコライは卓上の裁ち鋏を手に取った。
そして――迷いなく、絵の具のついた毛束を、ジャリッと切り落とした。
「な、……なっ……!!」
エレナが絶句しているのも構わず、彼は切り落とした髪の毛を見つめて呑気に呟く。
「これ、暖炉に焼べといていいか? 火種くらいにはなるだろ。」
「何してるのよ! あなた、たまに左右の長さが違うのって、それが原因だったの!?」
「ん? ああ。たまに画材が足りない時に髪を売るから伸ばしてるんだが、顔の横はどうしても絵の具で汚しやすいからな。」
得意げに「黒髪は珍しいから、割といい金になるんだぜ?」などと言うニコライに、エレナは更に憤慨する。
「信じられない…!髪はもっと大事に扱いなさいよ!」
自分の頭髪に一切の興味がないニコライには、なぜエレナがこれほどの剣幕で怒っているのか理解できない。ただ、エレナは地面につくほど長くとも白銀色の髪を綺麗に保っているようなので、自分の行為は、彼女の琴線に触れるものであったらしい。
(髪の毛は魔女的に大事なものなんだろうか?何かの触媒として?もしそうであったなら、それについては興味があるから、今度教えてはくれまいか――)
ニコライがそんな考えに耽っていた時。
ぐいと後ろから髪の毛を引っ張られ、彼は意識を戻した。
「おい、何やってんだ。」
「結ぶのよ!もうあんな雑に髪の毛が扱われるのは、見たくないわ!」
プリプリと怒りながら、エレナは銀の櫛で彼の黒髪を梳き始めた。
戸惑っていたニコライだったが、頭皮を滑る櫛の感触が存外に心地よく、抗うのをやめて目を閉じた。
「はい、出来たわよ。」
満足げなエレナの声に目を開け、渡された手鏡を覗き込む。
そこには、エレナが普段愛用しているものと同じ――濃紺色のリボンで、すっきりと髪をまとめられた自分の姿があった。
「おぉ……。これなら邪魔にならないし、絵の具もつかねぇな。ありがとな、エレナ。」
振り返り、屈託のない笑みを向けるニコライ。
それを見たエレナは、思わず息を呑んだ。
(…髪を結ぶだけで、印象って変わるものね。)
鬱陶しく顔にかかっていた髪が払われたことで、彼の鋭利なほどに整った鼻梁と輪郭が浮き彫りになっていた。
何より、黒髪に青灰色の瞳と、濃紺色のリボンは良く調和しており――
(……? 何かしら、この感じ。)
自分と揃いのリボンが彼の黒髪の上にあるのを見た瞬間。
エレナの胸の奥で、経験したことのないざわめきが波紋のように広がった。
少し熱くてくすぐったいような、妙に居心地の悪い、違和感のようなもの。
(…さっきのピロシキでは、お腹が満たされなかったのかしら。今日は朝から動いたものね。)
「…お夕飯、食べていく?」
「ありがたくいただこう!」
エレナは胸の奥の違和感を「空腹のせい」と結論づけると、いつもよりも少し落ち着かない手つきで、鍋を火にかけるのだった。
二人の距離がほんの少しだけ縮まった夜のお話でした。
次回の更新は土曜日(明日)の夜を予定しています。
二人の日常に、また新たな「鍵」が届くのか、それとも…?
ぜひ明日も霧の森へ遊びに来ていただけると嬉しいです。
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