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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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桃色のシチュー(後編)


「……っ!」


 衝撃が走った。

 バターとサワークリームの芳醇なコクの後に、野菜の土臭いまでの力強い甘みが追いかけてくる。そして、隠し味なのだろうか、清純な森のような爽やかなハーブの香りが鼻を抜けていった。

 ニコライは思わず、がつがつと残りのシチューを胃に流し込んだ。


「ねぇ、ニコライ。あなたが感じたその『ありのままの美しさ』を、言葉にして伝えたことはある?あなたがどれほど筆で雄弁に語れても、言葉にしないと伝わらないことって、あると思うわ。」


 エレナは追加のシチューをニコライの皿に盛りながら、彼を真っ直ぐに見つめた。


「『彼らが望むなりたい自分』と、『あなたの伝えたい美しさ』。それを白か黒かで分ける必要なんてない。…少しだけ、彼らの『なりたい自分』という願いに耳を傾けてあげることも、一つの表現だと思わない?」


 ふわり、とシチューの甘い香りが二人の間に漂う。


「私はね、美しさに正解なんてないと思うの。…形も色も、種類も、多ければ多いほど、この世界は豊かになると思わない?彼らの思う美しさも、あなたの思う美しさも、きっと一つの正解なのよ。」


 ニコライは、追加で盛られたシチューを口に運んだ。淡い桃色のシチューは、複雑で、重厚で、それでいて驚くほど優しい。

 白か黒か、美しいか醜いか、真実か嘘か。

 ニコライが今までこだわってきた境界線が、温かいスープと共に喉の奥へと溶け落ちていく。


「……腹が立つな。何の反論もありゃしない。エレナ、あんたの言う通りだよ。」


 ニコライは二口目、三口目とスプーンを動かした。

 彼の目には、いつの間にか熱い膜が張っていた。


「俺は…ただ、あのお節介な奥方の笑い皺が好きだった。あの娘の、働くために逞しくなった腕を尊敬していたんだ。その想いまでもが、絵と一緒に否定された気がして。それが…俺の伝えたいことが絵で伝えきれなかったことが、情けなくて堪らなかったんだよ。」


 言葉と一緒に、ポタリと一滴の雫が、桃色のシチューの中に落ちて波紋を作った。

 エレナは静かに、ただカウンター越しに彼を見守っていた。


「…ニコライ。きっとね、あなたが絵として差し出している鏡は、あまりにも磨き抜かれすぎているのよ。」


 エレナは空になった皿をそっと下げ、彼の痛みに寄り添うように声を落とした。


「自分を愛しきれない人たちにとって、あなたの描く真実は…少し、眩しすぎるのかもしれないわ。目を背けたくなってしまうほどに。けれど――その光に救われる人も、必ずどこかにいるはずよ。」


「…そうか。そうだな。…うん。自分の理想と現実の二択じゃなくて、その二つの間にある答えを、俺なりに探してみることにするよ。」


 ニコライは乱暴に袖で目元を拭うと、椅子を引いて立ち上がった。


「悪かったな。今日は依頼主に追い立てられて慌てて出てきたもんで、持ち合わせがないんだ。また今度まとめて支払わせてくれ。」


「気にしなくていいわ。」


 ニコライはふと、大きな置き時計の近くに置かれている、水と雑貨の入った瓶を指さしてエレナに尋ねた。


「あれはなんだ?インテリアにしちゃあ、随分尖った置物だが…。」


「あれはここを訪れた人生の迷い子達が置いていった鍵よ。自分の一部――重荷や悩みになっているものを落とすと、それを少しだけ楽にしてくれるわ。」


 ニコライは目を丸くして、瓶の中に再び目線を向けた。


「今日見せてくれたのとは別の魔法みたいなもんか。」


「…そうね。あなたも何か、置いていってみる?少しは楽になれるかもよ。」


 そう問われたニコライは、顎に手を当てて少し考えると、いたずらっ子のような笑顔でエレナを見返した。


「…いいや、やめておくさ。」


 ニコライは不敵に笑い、自分の胸を指差した。


「画家ってのは、目で見た景色を自分の中で濾過(ろか)して、筆から吐き出す生き物だ。今日ここで学んだことも、理想と現実の間で醜く足掻いたことも、消えない悩みも――」


 ニコライはエレナの目を真っ直ぐ見据えて、続けた。


「全部ひっくるめて俺という濾過(ろか)装置だ。俺はちゃんと悩んで足掻いて、苦しさを抱えたまま生きていくよ。それが画家としての、俺のプライドだからな。」


 そう言うとニコライは、重厚な扉を自分で開けて、ドアの方へと一歩踏み出した。

 扉を抜ける直前。ニコライはふと足を止めて、エレナの方を振り返った。


「言葉に出して伝えるのは大事だって、あんたに習ったからな。エレナ、最初に『造形が整いすぎて退屈な女』なんて言って、本当に悪かった。初めは血の通っていない彫刻みたいな女だと思ったが――話してみたらあんたは案外、親しみやすくて、優しくて、あったかい人間だよ。」


「ニコライ…。」


「あとすっげえ不器用。あの野菜の切り方はないぜ。味は美味かったけどな。」


「ニコライ!!」


「あははっ!」


 エレナの不満声に、ニコライは笑い声をあげると、駆け足で扉の向こうへ出ていった。

 じゃあなー!という間の抜けたニコライの声が、森の遠くで響いている。


(…変なお客さんだったわ。)

 大抵の顧客がエレナの元を訪れるのは、人生に一回か、多くて二回だ。

 ニコライのことも愉快な客人として、記憶のメモに留めておこう。




 ――そう、エレナは思っていたのだが。



「あなた…。今日でいったい、何回目なのよ。」


「悪いな。画家っていうのは、常に自分の理想と現実の人生の間で迷っているもんなんだよ。」


 悪びれもせず扉を開けたニコライが差し出したのは、エレナの好物。真紅の柘榴(ざくろ)だった。彼の押し付けてきた紙袋を開ければ、他にもパンや卵など、食料品がぎっしり入っている。


 結局あれからというもの、ニコライは毎日のようにエレナの元を訪れている。


「ここは内装も程よく雑多だし、意味のわからない置物も多い。インスピレーションが湧いてくるんだ!」


 とはニコライの談だ。褒めているのか貶しているのかわからない。

 カウンターの上で絵の具を散らかされるのはたまらないので、ニコライのことはカウンターの更に奥の、物置になっていたスペースに押しやっている。店の奥はキャンバスや絵の具が常に置かれ、すっかり彼専用のスペースとなってしまった。


(…どうしたものかしらね。)



 人生で迷える人しか辿りつかない場所、『鍵の在り処』(カフェ・クリューチ)

 想定もしていなかった「常連客」を持て余しながら、エレナはため息をついた。




画家のニコライ初登場回、お読みいただきありがとうございます。

作者個人的にはお気に入りのキャラなのですが、皆さんの目には彼はどう映ったでしょうか?


もし少しでも「いいな」と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆評価】や【ブックマーク】、いいねボタンの押下をいただけると、執筆の大きな励みになります。

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