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霧の森のクリューチ 〜魔女と迷い子と時々画家〜  作者: 小夜時雨


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桃色のシチュー(中編)


 容赦無く距離を詰めてくるニコライに、エレナは思わず半歩身を引いた。客から自分自身のことをこれほど真剣に問われるのは、いつ以来だろうか。


「出身は? どの辺りから来たんだ?」


「あなたたちが北の国と呼ぶところよ。」


「北か! あの白夜の国なら、こんな不思議な力も納得だ。……なあ、エレナ。あんた、何が好きなんだ? どんな色を、どんな食べ物を愛してる?」


「味も色も柘榴(ざくろ)は好きだけれど…そんなことを聞いてどうするの?」


 エレナは矢継ぎ早に繰り出されるニコライの質問に答えていく。

 ここに来る客は大抵、自分の人生に行き詰まりを感じていたり、自分では抱えきれない重荷に押し潰されそうになっている人々だ。そのため、ここに辿り着くなり自分の身の上や悩みを吐露する人が多かった。こうして顧客からエレナ自身のことを聞かれることは、非常に稀である。


「あの、私のことはいいから。ここのお店は、人生に迷った人しか辿り着かないようになっているのよ。あなたも何か、悩みがあったからここに辿り着いたんじゃないの?」


「ふむ。悩みか。俺はいつも何かしらに悩んでいるからな。」


 次々と繰り出される質問に、エレナは居心地悪くなり、たまらず彼の質問を遮った。


「強いていうなら、自分の見ている景色の美しさが、相手にも伝わらないことか。」


「それはどういう…」


 今度はエレナが彼に質問を投げかけた時。

 ぐぅぅ・・・・という地鳴りのような低い音がニコライの腹から鳴り響いた。


「あぁ…限界だ…そういえば三日前に固くなったパンを齧ったきりだった…。」


 ニコライは椅子に転げるように座り込むと、カウンターに突っ伏した。


「ちょ、ちょっと!!何を考えているの、人間は食べ物を食べないと死ぬのよ!」


「少々描きたい絵に集中してしまってな…。たまにあるんだ、気にしないでくれ。」


「気になるわよ!」


 みるみるうちに青ざめていくニコライを尻目に、エレナは何か食べ物はなかったかと、カウンター奥のキッチンの方へ駆け込んだ。


(…まったく、こんなお客は初めてだわ。)


 自分のペースが乱されるという慣れない感覚に、エレナはため息を吐きながら、鍋の置いてある暖炉に向かってパチンと指を鳴らして火をつけた。




「…む?」


 爆ぜる火の粉の音と、鼻腔をくすぐる芳醇な香りに、ニコライは意識を浮上させた。


「目が覚めたのね。本当に良かったわ。」


 覗き込んできたエレナと視線がぶつかる。その瞳に浮かぶのは、先ほどまでの困惑ではなく、穏やかな安堵の色だった。

 彼女は手元の鍋をゆっくりと掻き回しながら、「まずはこれを」と、小さく切ったパンと、深紅の粒が躍る柘榴(ざくろ)のコンポートを差し出した。


「いきなり熱いものを食べると、空っぽのお腹がびっくりしてしまうでしょう。」


柘榴(ざくろ)、好きなんだろう?行き倒れの男に分け与えるには、贅沢すぎやしないか?」


「…とっておきだけど、行き倒れ相手に独り占めする気はないわよ。」


「…優しいんだな。ありがたくいただくよ。」


 ニコライは柔らかな笑みを浮かべると、黒パンの欠片にコンポートをたっぷりと乗せ、口へと運んだ。

 御伽話の賢者の石が溶け出したかのような真紅色のコンポートだ。 その一粒一粒を噛み締めれば、弾けるような酸味と、心臓を直に叩くような鮮烈な甘みが溢れ出す。

 冷え切っていた指先に、じわりと熱い血が通い始めるのを感じた。


「…ふぅ。生き返ったよ。悪かったな、世話をかけて。」


 満足そうに皿を空にしたニコライは、ふと、傍らに置いていたトランクを開いて、中にあるキャンバスに手を伸ばした。

 彼はカウンターに肘をつき、先ほどまでの勢いが嘘のような、寂しげな微笑を浮かべる。


「…なぁ、エレナ。さっき言いかけた話なんだがな。どうも俺の目に映る『美しさ』は、世間様のそれとは違うらしいんだ。」


 彼はトランクから取り出した二枚の絵をエレナへと見せた。


「こっちは地主の奥方だ。旦那が貧乏だった頃から、歯を食いしばって家を支えてきた立派な人さ。…で、こっちは若くして商家の立て直しを成し遂げた、有能な娘さんだ。南の食料品の流通を一人で開拓したらしい。素晴らしいことだ。」


 ニコライは自嘲するように鼻を鳴らした。


「二人とも、この絵が気に入らなくて、俺を追い出したよ。奥方は『こんな皺くちゃに描くなんて』と憤り、娘さんは『もっと細身に描けと言ったはずよ』とカンカンだった。……俺には、それが分からないんだ。」


 ニコライはカウンターに項垂れ、指先で皿の上のコンポートの赤い跡をなぞった。


「奥方の皺は、苦境を耐え抜いた誇りだろう? 旦那と笑い合って刻まれた、愛の記憶だろう? 商家の娘さんの豊かな体だって、経営に喘ぐ商家を救った『豊穣の女神』の象徴じゃないか。…なのに、どいつもこいつも、工場で作られる規格品の部品みたいに、誰かが決めた『美しさの型』へ無理やり自分を押し込めようとする。」


 彼は顔を上げ、エレナを真っ直ぐに見つめた。


「どいつもこいつも、本当の自分の価値を低く見積もり過ぎている。それぞれの人間の人生の一瞬が、どれほど唯一無二の『美しさ』かってことを証明したくて、俺は筆を握ってるんだ。」


 ニコライが吐き出した言葉は、熱を帯びて店内の静寂に溶けていった。

 エレナは、彼の手元で空になったコンポートのグラスを静かに引いた。その指先が、微かに震える彼の手に一瞬だけ触れる。


「……繊細な絵は描けるのに、とても不器用なのね。」


「む。画家に不器用呼ばわりとは。」


 エレナは背を向けると、暖炉の上でコトコトと音を立てていた重い鍋を、カウンターへと運んできた。立ち上る湯気が、ニコライの険しい眉間を和らげるように包み込む。

 

「さぁ、お皿によそったわよ。冷めないうちに召し上がれ。」


 差し出されたスープ皿を見て、ニコライは息を呑んだ。


「……なんだ、この色は。」


 皿の中に広がっていたのは、彼が今まで見てきたどんなシチューとも違っていた。

 それは、冬の雪のような白でも、肉を煮詰めた深い茶色でもない。

 白と赤が溶け合い、混ざり合い、境界線を失った――淡い桃色だった。


「シチューだろう? ならば白か、さもなくば茶色だ。……こんな、中間色を煮詰めたようなものは見たことがないぞ。何色と呼べばいいのかも分からん。」


「私の故郷でボルシチと呼ばれている料理よ。赤蕪(ビーツ)の紅色とサワークリームの白色がお互いに混ざり合った、素敵な色でしょう。味も美味しいわよ。」


 ニコライは見慣れない色のシチューを前に怪訝そうな表情を浮かべたが、込み上げる空腹には勝てなかった。

 躊躇いながらもついにスプーンを取り、その不思議な桃色の海を掬い、口へと運ぶ。


「……っ!」


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