第9話 芸術の都
王都テゼリアの外壁は、壁というよりは断崖に近かった。
近づくにつれ、空が物理的に狭くなっていく。
バウウェルの防壁とは桁が違う。見張り兵が歩くための回廊すら、下からではただの細い筋にしか見えない。
視界の左から右まで、灰色の石が地平線を断ち切っていた。
南門の前には長蛇の列。
巨大な二枚の扉には、三尾の狐が四季を駆ける浮き彫りが施されている。その精緻さが、この国の底知れない国力を無言で誇示していた。
「次」
衛兵の声は事務的で、感情がない。
俺は胸ポケットからダリの推薦状を取り出した。
衛兵が青白く光る石を紙にかざす。一瞬の光。
「……正規だ。通っていい」
許可が出ると同時に、背中の緊張がひとつ解けた。
石造りのトンネルのような門を抜ける。
その瞬間、世界の色と音が爆発した。
視界を埋め尽くす人、人、人。
石畳は矢羽根模様に敷き詰められ、通りの両脇には色とりどりの看板が旗のように揺れている。
そして、音だ。
どこかの窓から聞こえる弦楽器の調律。路地裏からの合唱の練習。金槌が金属を叩くリズム。
それらが街の喧騒と混ざり合い、一つのざわめきとなって空気を震わせている。
ここが「芸術の都」と呼ばれる理由が、肌で理解できた。
「ギルドは……右か」
案内所で聞いた地図を頭の中でなぞる。
大通りを外れ、冒険者たちが多く歩く区画へ。
すれ違う人間たちの目つきが変わる。職人の穏やかな目から、戦いを生業とする目へ。
目的の建物はすぐに分かった。
周囲の建物より一際大きく、出入りする人間が皆、帯剣している。
冒険者ギルド、テゼルウォート基幹支部。
扉の取っ手は蔦の形をしていた。
握ると、金属の冷たさが掌に張り付く。
重い扉を押し開ける。
ムッとした熱気が顔を打った。
安い酒、古い油、そして乾燥した汗と鉄の匂い。
中は巨大な酒場と受付を足したような空間だった。長卓には屈強な男たちが屯し、奥のカウンターには列ができている。
俺が一歩踏み出すと、近くの卓の談笑がピタリと止まった。
視線。
値踏みするような、粘つく視線が数本、俺の全身を舐める。
装備の質、体格、歩き方。
ここは品評会の会場だ。弱ければ喰われる。
俺は視線を無視し、カウンターを目指して歩いた。
その進路を塞ぐように、ひとつの影が立ち上がった。
背中に大斧を背負った、見上げるような大男だ。
革鎧の隙間から、岩のような筋肉が覗いている。
「見ねぇ顔だな」
男が俺を見下ろす。口から醸造酒の酸っぱい臭いが漂ってきた。
「ここはお前みたいな、ひ弱なチビが来る場所じゃねぇ。怪我しねぇうちに帰んな」
周囲の男たちがニヤニヤと笑い声を上げる。
新入りの洗礼か。どこの世界にもある通過儀礼だ。
「……そこ、退いてもらえませんか」
俺は努めて穏やかに言った。
だが、視線は男の膝と喉元を計測していた。
(重心が高い。右足の踏み込みが遅そうだ。……膝を蹴り砕けば沈むか)
自分の中に、冷徹な計算式が浮かび上がる。
人を殺すことに慣れた思考が、暴力への忌避感を麻痺させていた。
「あァ? 痛い目見ねぇと分かんねぇらしいな」
男が、指をポキポキと鳴らして間合いを詰めてくる。
俺の頭ひとつ分上から、威圧の影が落ちる。
「やっちまえガイン!」
「新人の鼻っ柱、へし折っとけ!」
野次が飛ぶ。
周りからガインと呼ばれる男が右腕を振り上げた。
俺は息を吐き、魔火を足裏に集める。
迎撃する。
──その時だった。
入り口の扉が、カラン、と軽やかな音を立てて開いた。
「やれやれ。冒険者というのは、どこの国でも野蛮ですねぇ」
場違いなほど優雅で、少し鼻にかかった男の声が、殺気立った空気を裂いた。
視線が入り口へ吸い寄せられる。
そこに立っていたのは、金色の髪を持つ二人組だった。
男は前髪を下ろし、優しげだが、瞳の奥が笑っていない。
女は髪を後ろで高く結い上げ、背中に刃のない槍のような長棍を背負っている。
聖職者のような紺のローブを纏っているが、その佇まいは修羅のそれだ。
「なんだテメェら……まとめて殺されてぇのか?」
ガインが俺から興味を外し、低い唸り声を上げて二人へ向く。
金髪の男は、心底不思議そうに首を傾げた。
「はて。どう見ても彼の方が、あなたより強いでしょう? ……まあいい、野蛮な猿どもの喧嘩には興味がありませんね」
「行くわよ、ソロモン」
「ええ」
金髪の女に促され、独り言のように喋っていた男も歩を進める。
──二人はガインの横を素通りしようとした。
「無視してんじゃねぇぞッ!」
ガインが激昂し、丸太のような腕を男の後頭部へ振り下ろす。
止めに入ろうと、俺が足を踏み出した瞬間だった。
女の姿がブレた。
ドォォォォンッ!!
大砲を至近距離で撃ったような破砕音が、鼓膜を殴打する。
俺が知覚できたのは、音だけだった。
「……は?」
気づいた時には、ガインの巨体が弓なりに折れ曲がり、入り口の扉に叩きつけられていた。
跳ね返るように扉が開き、巨体は外の石畳へ転がり出た。
女の右足が、高く天を突いている。
蹴った動作が見えなかった。音と結果だけが、そこに置き去りにされていた。
静寂。
ギルドの喧騒が、ナイフで切り取られたように消滅する。
結んだ金髪が微かに揺れ、女は無言で足を下ろすと、何事もなかったかのように歩き出した。
男がふと、こちらを振り返る。
「おや? あなた、何をそんなに怯えているのです?」
「……え?」
言葉の意味が、すぐには降りてこない。
怯えている? 俺が?
「あなたからは恐怖の匂いがしますよ。……まるで、暗闇で震える子供のような」
ゾクリ、と背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
心臓を見透かされた感覚。
森の中を走っていた時の、あの粘着質な不快感が蘇る。
「まあ、いいでしょう」
男は興味を失ったように視線を外し、カウンターへ向かった。
「ご、ご用件を……?」
「聖女教会のフィオネとソロモンです。教会の任で参りました」
その名乗りを聞いた瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「教会騎士……!」
「あの双子か?」
「ヤバい仕事も請ける掃除屋だって噂だぞ……」
職員は顔色を変え、慌てて二人を奥の別室へと案内した。
……。
俺は拳を握りしめた。
俺も強いつもりでいた。だが、あの女の蹴りは見えなかった。あの男の目は、俺の深淵を覗いていた。
これが、王都か。
気を取り直し、俺は空いたカウンターへ向かった。
「冒険者登録をしたい」
「は、はい! お名前は?」
受付の女性職員は、まだ双子の余韻で強張っていたが、すぐに業務用の顔に戻った。
「ベリアです」
「では、こちらの判定石に魔火を通してください。指数の測定と、個体識別を行います」
渡されたのは、掌サイズの白い石だった。
俺は言われた通り、手をかざして魔火を流し込む。
吸われる感覚。体内の熱を、無理やりヒルに吸い取られているような不快感がある。
石が青白く発光し、やがて光が収束した。
職員が石を持って奥へ下がり、少しして戻ってきた。
その表情には、明らかな驚きが張り付いている。
「……お待たせしました。登録完了です。ベリア様の魔火指数は──47です」
その数字が告げられた瞬間、周囲の空気がまた変わった。
さっきの双子の時のような畏怖ではない。
値踏みするような、重い沈黙。
「四十超かよ……」
「新顔で47? どこの手の者だ?」
好奇心と警戒。
数字は、確かに敵を呼ぶらしい。
「通常はFランクからですが、指数40以上は特例としてCランクから開始できます。よろしいですか?」
「……お願いします」
手続きが進む中、俺は一つだけ気になっていたことを尋ねた。
「あの、以前の登録データなどは……」
「いえ、見当たりません。今回が完全な新規登録となります」
「……そうか」
過去の手がかりはない。期待していた糸が切れた音がした。
渡された銀色のギルドカード。
そこには《氏名:ベリア》《年齢:二十一歳》《ランク:C》と刻まれている。
俺は二十一歳らしい。判定石は年齢も分かるのか。
だがカードに書かれた事実はそれだけだ。それ以前の俺が何をしていたのか、どこで生まれたのか、このカードは何も教えてくれない。
(空っぽだな)
47という強さを表す数字。二十一という年齢。
記号だけが増えていくのに、中身の俺は空洞のままだ。
「Cランク以上は、名前が売れるのも早いですから気をつけてくださいね」
職員が上目遣いに微笑む。
俺は短く礼を言い、カードを懐にしまった。
背後では、蹴り飛ばされたガインがようやく呻き声を上げていた。
誰も彼に駆け寄ろうとはしない。
弱者は見捨てられる。強者は警戒される。
テゼリアは美しい都だ。
だがここでは、正しさより実力がものを言う。
今日で分かったのは、それだけだ。




