第8話 別れと旅立ち
屍人の襲撃から、数日が過ぎた。
王都テゼリアから到着した騎士団が、街の動脈を押さえるように配置についた。
石畳を叩く鉄靴の音。胸甲に刻まれた『三尾の狐』──この国の紋章が、昼も夜も鈍く光っている。
市場は再開したが、空気は薄いままだ。
呼び込みの声は遠慮がちで、母親は子供の手を強く握りすぎている。
街全体が、深呼吸の途中で息を止めてしまったみたいだった。
* * *
昼前。酒場の窓際で、俺は冷めたコーヒーを飲んでいた。
苦味だけが舌に残る。
「……結局、奴らの狙いは分からずじまいか」
向かいの席で、ゼトが低い声で唸った。
彼も目の下に隈を作っている。あの夜以来、俺たちは交代で街を見回っていた。
リュネルは眉間を撫で、指先で卓をとん、と叩いた。
「屍人はここ数年、表で大きな動きは取っていない。組織的な襲撃で言えば、最後は十数年前のケルナ族虐殺だ」
「“大規模な”、だろ?」ゼトが肩をすくめる。「殺しや襲撃の噂なんて、掘ればいくらでも出てくる」
「あぁ。ただ、過去には国盗りもやってのけた。二十年前には帝国の侵攻を二度退けた強国すら、屍人の連続襲撃で滅んだと記録に残ってる。正面も暗殺もやる。やり口が読めない」
「でも屍人も相当な痛手を負ったって噂はあるよな?」
「実際は分からない。ただ、ここのところの静けさと無関係じゃないのかもしれないね」
厨房から、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。
規則正しいリズムだが、いつもより少し硬い。
「ベリア」
ダリがカウンターから顔を出さずに言った。
「王都へ行け」
唐突だった。だが、俺は驚かなかった。
「……」
王都テゼリアの冒険者ギルド。
判定石に魔火を通せば、登録の有無も、過去の足取りも分かるかもしれない。
けれど、今バウウェルを離れていいのか、踏ん切りがつかない。本気で走れば半日で着ける距離だが、日帰りは無理だ。
ダリが顔を上げ、研いだばかりの包丁を布に包んだ。
「お前はこの街に収まるべきじゃない。……あの夜、お前は無力さを噛み締めた。なら、広い場所へ行って、自分の器を知ってこい」
ゼトがニッと笑い、俺の背中を叩く。
「ま、そういうこった。バウウェルは俺たちが守る。お前は外でデカくなって戻って来い」
俺は腰の刀に手を置いた。
あの夜、何も斬れなかった刀。
王都へ行けば、自分が何者か分かるかもしれない。そして、理不尽な暴力に抗う術も見つかるかもしれない。
「分かった。……必ず、強くなって戻る」
俺の言葉に、ダリは無言で頷き、リュネルも静かに頷いた。
* * *
翌朝。陽の八刻。
北門の空気は、針のように冷たかった。
草原の中を、一本の砂利道が北へ向かって伸びている。
車輪の跡が幾重にも重なり、地平線の先へと続いていた。
「この道をまっすぐだ。草原を抜けたら林。途中の橋を渡れば、もう半分だ」
見送りに来たリュネルが言う。
「たまに賊が出る。ま、ベリアなら平気だろ」
ゼトが肩をすくめた。
「魔獣は?」
「道沿いは行商人の除獣香の残り香がある。街ほどじゃないけど、出にくいよ」
俺はリュネルの言葉に頷くと、靴紐をきつく結び直し、立ち上がった。
ダリが、封をした羊皮紙を俺に渡してきた。
「王都への推薦状だ。俺の魔火印を押しておいた。身分証代わりになる」
「……推薦状?」
「どこの馬の骨とも知れん奴を、王都の衛兵は通さんからな。宿屋の親父の保証だが、ないよりはマシだろ」
「何から何まで……すまない」
「有名になったら、ウチの宿の宣伝でもしてこい」
ダリはぶっきらぼうに言って、腕を組んだ。その目が「死ぬなよ」と言っているのが分かった。
「へへっ、寂しくなるな」
ゼトが鼻の下を擦りながら、俺の肩を小突く。
「いいか、俺たちの最強の新人。舐められんなよ。王都の連中に、バウウェルの冒険者の底力、見せてやれ」
「ああ。ゼトも、怪我するなよ」
「はん、誰にもの言ってんだ」
ゼトは照れ隠しに笑ったが、その耳の先は少し赤かった。
そして、三人の後ろから、アリシアが一歩、前へ出た。
彼女は、真っ直ぐに俺を見ていた。
少し充血した目。けれど、もう涙はなかった。
「……ベリア」
彼女は、何かを渡すように両手を差し出した。
小さな包みだった。
「これ……薬草。干したばかりのやつ。傷薬にもなるし、眠気覚ましにもなるから」
受け取ると、宿の匂い──清潔なリネンと、スープの香りが微かにした。
「眠気覚まし?」
「……うん。これね、怖い夢を見た夜に、ちゃんと目が覚めるおまじないなの」
「おまじない、か」
俺は包みの感触を確かめるように、指先で少しだけ力を込めた。
「ありがとう」
「あのね、ベリア」
彼女は少し目を伏せると青い髪結びを指で触れた。
そして、俺の目を見据える。
「私、もっと勉強する。……いつかベリアが戻ってきた時、どんな怪我でも治せるように」
夜の闇で交わした約束。
いつか一緒に旅をする。そのために、彼女もまた戦おうとしている。
「だから……迎えに来て」
「ああ」
俺は包みを懐に入れ、心臓の近くに収めた。
「必ず戻る。……その時まで、待っていてくれ」
「うん。……行ってらっしゃい」
アリシアが、花が咲くように笑った。
無理に作った笑顔じゃない。
再会を信じるための、強い笑顔だった。
「行ってくる」
背を向ける。
門を出ようとした時、柱の陰に一人の騎士が立っているのに気づいた。
頬に古い傷のある男。今回の部隊を率いる隊長だ。
「発つのか」
男は俺を見ず、遠くの草原を見たまま言った。
「ええ」
「……君、かなり強いな。だが、忠告だ」
男の視線だけが、ぎろりと俺の腰の刀を刺した。
「王都へ行くなら、覚えておけ。……数字は、時に敵を呼ぶ」
「数字?」
「強い力は、それだけで火種になるということだ」
それだけ言うと、男は踵を返した。
鉄靴の音が遠ざかっていく。
俺は門を出た。
砂利が靴底でジャリ、と乾いた音を立てる。
一度だけ振り返る。
四つの影が、まだ手を振っていた。
朝日に輝く青い髪結び。不器用なダリの腕組み。ゼトの大きな動作。リュネルの静かな立ち姿。
それが、俺がこの世界で初めて手に入れた「帰る場所」だった。
俺は前を向いた。
背中に感じる熱を燃料にして、走り出した。
* * *
王都への道は平坦だった。
俺は走った。馬より少し速い巡行速度。
風が耳元を切り裂き、景色が後ろへ飛び去っていく。
走りながら、意識を内側へ沈める。
魔火。
血管の中を、静かな炎が流れているような感覚。
俺は、自分が何者かを知らない。だが、この力だけは、俺の身体に深く刻み込まれている。
試しに、走りながら掌に魔火を集めてみた。
リュネルのように、炎として放てるか。
ボッ。
黒煙のような焦げた塊が飛び出し、数歩先で霧散した。
……駄目だ。形にならない。俺の魔火は、放出系には向いていないらしい。
なら、これはどうだ。
俺は足を止めず、道端の手頃な岩に向けて刀を抜いた。
斬るのではなく、“衝撃”を乗せるイメージ。刃を通して、魔火を叩きつける。
ガィンッ!!
岩が爆ぜた。
斬撃ではない。まるで巨大なハンマーで殴りつけたように、岩が粉々に砕け散った。
「……なるほど」
手応えはある。
魔火は、「刃」という媒体を通すことで、破壊力にも変換される。
斬撃に衝撃を上乗せし、斬れないものを砕く。
使い道はありそうだ。
刀を納め、再び速度を上げた。
* * *
陽が高くなった頃、街道を行く隊商とすれ違った。
荷馬車が三台、武装した護衛が四人。
俺が速度を緩めると、先頭の護衛が馬上で剣の柄に手をかけた。
「何者だ、貴様」
「旅の者だ。先を急ぐ」
俺が短く答えると、男は鼻を鳴らし、蔑むような目を向けた。
「ふん、足だけで旅とは物好きだな。……おい、妙な気を起こすなよ。この辺りは盗賊団“灰狼”の縄張りだ。ガキでも容赦なく攫われる」
「……忠告どうも」
隊商は土煙を上げて去っていった。
背中を見送る。誰も俺に興味などない。
これが外の世界だ。バウウェルのような温かさは、どこにでも転がっているわけじゃない。
* * *
前方に林が見えてきた。
鬱蒼とした木々が街道を覆い、日差しを遮っている。
空気が少し湿り、土の匂いが濃くなる。
俺は速度を緩めず、林道へ入った。
その時だった。
(……気配)
林の奥。左右の茂みから、気配がこちらを窺っている。
獣ではない。理知的な殺気。人間だ。
俺はしばらく進んでから足を止めた。
「……気づいたか。やるじゃねぇか、坊主」
林の奥から、男が二人、姿を現した。
薄汚れた革鎧、腰に剣と手斧。──盗賊。
「そんなに気配を漏らしてたら、誰でも気づく。……用件は?」
「……ほう。“灰狼”に喧嘩を売るとは、よっぽど苦しんで死にてぇみたいだな」
ジャリ、と男たちが足を踏み出す。
空気が殺気で軋む。
「殺す」
二人同時に跳んだ。
一人は俺より遥かに大柄な男。体重を乗せた大振りの一撃が頭上から迫る。もう一人は右から、低い軌道での横薙ぎ。
俺は刀を抜き放ち、頭上の刃を受け止める。
ガィンッ。
重い。だが、押し負けない。
(……あぁ、そうか)
鉄と鉄が噛み合う、ほんの瞬間。
指先が無意識に熱を送っている。
“魔火”だ。
斬るためではなく、刃の強度を底上げするために、身体が勝手に流している。
刀が硬く、強くなる。
俺は大男の剣を弾き返し、右からの横薙ぎを半歩下がって躱した。
剣先が鼻先をかすめる。
遅い。
重さはあるが、呼吸が浅い。
少し剣戟を交わすと、盗賊たちは肩で息をし、一度距離を取った。
俺の息は、一つも乱れていない。
人間相手の間合いが、よく見える。
魔獣よりも、ずっと鮮明に。
「終わらせようか」
心に浮かんだ言葉が、そのまま口をついて出た。
「ナメやがってェッ!」
二人が吠え、同時に詰めてくる。
殺気の質が変わった。焦りが見える。
最初の太刀。
右から左へ受け流す。相手の力が外へ逃げる。
がら空きになった胴体。
返す刃で、喉の高さを払った。
ズン、という軽い抵抗と、熱い液体の感触。
男の視界が回り、首が砂利道に落ちた。
「なッ……!?」
残る一人が目を見開く。動きが止まる。
その隙を見逃す理由はなかった。
一気に踏み込む。
左から右へ、速く。
男が慌てて剣を盾にするが、俺の刃が触れる瞬間、魔火で衝撃を乗せた。
剣が空へ高く跳ね飛ばされる。
露わになった肩口へ、刀を振り下ろす。
骨を断つ鈍い音がして、男は声もなく崩れ落ちた。
林道に、静寂が戻る。
「……」
俺は刀についた血を振るい、鞘に納めた。
自分の手を見る。
震えはない。吐き気もない。
人を二人斬ったのに、まるで道を塞ぐ枝を払った程度の感覚しかない。
(俺は……人を殺すことに慣れているのか?)
冷たい汗が背中を伝う。
昨夜、屍人を恐ろしいと思った。だが、俺自身もまた、彼らと同じ「殺す側」の人間なのではないか。
数刻前に見た、アリシアの笑顔が脳裏に浮かぶ。
もし彼女が、今の俺を見たら。人をゴミのように斬り捨てる俺を見たら、何と言うだろうか。
「……考えるな」
俺は首を振り、思考を振り払った。
今は進むしかない。
自分が何者であれ、力を手に入れなければ、守りたいもの一つ守れないのだから。
* * *
林を抜け、川と越えると、視界が一気に開けた。
遠く、草原の向こうに、巨大な影が聳え立っていた。
王都テゼリア。
高い外壁が地平線を区切り、その奥には無数の尖塔が天を突いている。
バウウェルとは比較にならない規模。
あの中に、俺の過去を知る手がかりがある。そして、今の俺には想像もつかない強者たちがひしめいている。
「……待ってろ」
誰にともなく呟き、俺は再び走り出した。




