第7話 火の無い夜
夜の酒場は、煮込み料理の湯気と、男たちの笑い声で満ちていた。
琥珀色のエールが盃の縁を濡らし、木のテーブルを叩く乾いた音が響く。
「ほら、宿代と……これは利子だ」
俺はカウンターに、数枚の硬貨を積み上げた。
ダリが布巾で手を拭きながら、目を丸くする。
「もう返すのか。ギルバートの刀以外は、これできれいさっぱりだぞ」
「借金は背中が重くなるからな」
「……律儀なやつだ。もう少し長く、タダ働きさせておきたかったがな」
ダリは憎まれ口を叩きながらも、口元の髭を少しだけ緩めた。無骨な指が、硬貨を一枚ずつ丁寧に引き出しへ仕舞う。
「はい、ベリア。これ、おまけ」
湯気の立つ木皿が、俺の目の前に置かれた。
根菜と干し肉がたっぷり入ったシチュー。香草の匂いが鼻をくすぐる。
顔を上げると、アリシアが盆を抱えて笑っていた。
「こんなに入らないぞ」
「食べるの。明日も働くんでしょ?」
彼女は言うと、くるりと背を向け、他の客の注文を取りに行った。
振り返った拍子に、束ねた髪がふわりと揺れる。
それを留めているのは、鮮やかな青い布だった。
「……新しいな」
独り言のように呟くと、近くにいたゼトがニヤリと笑って肩を組んできた。
「おっ、気づいたか? あれは市場で俺が選んでやったんだぜ。似合うだろ?」
「ああ。……よく似合ってる」
俺が素直に答えると、少し離れた場所にいたアリシアの耳が、ほんのり赤くなったのが見えた。
ゼトが豪快に笑い、向かいのリュネルが呆れたように盃の持ち手を拭く。
「色気づくのもいいが、明日はドゥーべの森だぞ。ベリア、魔火の感覚は忘れてないだろうな」
「身体が覚えてる」
「頼もしいこった。……ベリア、王都へ行くのか?俺たちと組めばもっと稼げるぞ」
「考えておく」
シチューを口に運ぶ。肉は柔らかく、野菜の甘みが溶け出している。
温かい。
記憶のない俺にとって、この場所の温度だけが、確かな現実だった。
* * *
バンッ!!
唐突に、扉が壁に叩きつけられた。
店内の喧騒が一瞬で断ち切られる。
冷たい夜風が吹き込み、ランプの炎が大きく揺れた。
転がり込んできたのは、顔色の悪い行商人だった。息を切らし、目が泳いでいる。
「し……屍人だッ!」
男の叫び声が、裏返って店内に響いた。
「奴らが……“屍人”が、この街に入ってきたぞ!」
空気が凍った。
誰かが盃を落とした。中身がこぼれる音だけが、やけに大きく聞こえた。
「ダリ!」
リュネルが鋭い声で呼ぶ。
ダリは既に動いていた。カウンターの下から、鈍く光る鉈を取り出す。
その顔からは、温和な店主の表情が消え失せていた。
「全員、灯りを落とせ!」
ダリの怒声が飛ぶ。
「窓とカーテンを閉めろ! 内側の閂もだ! あるだけの樽で扉を押さえろ!」
客たちは弾かれたように動いた。
酔いは消し飛んでいる。厚手の布が窓に下ろされ、油灯の芯が次々と指で潰される。
店内は闇に沈んだ。
「……ベリア、こっちだ」
ゼトに腕を引かれ、俺たちは壁際の席へ身を潜めた。
暗闇の中、誰かの荒い呼吸音と、衣擦れの音だけが聞こえる。
アリシアが厨房の隅で、青ざめた顔をして震えているのが見えた。
俺は腰の刀に手を置いた。
屍人。
その名前を聞いただけで、街の人も熟練の冒険者たちも震え上がる。
何が来ているんだ。
この薄い壁一枚の向こうに。
* * *
──バウウェル、大通り。
街は死んだように静まり返っていた。
家々は雨戸を閉ざし、灯りを消している。
その闇の中を、三つの影が歩いていた。
黒いローブに白い仮面。
先頭を歩くのは、大鎌を担いだ男と、袖の長い痩身の男。
少し遅れて、小柄な少年が退屈そうに続いている。
彼らは、逃げ遅れた市民や、閉ざされた商店には目もくれなかった。
ただ真っ直ぐに、街の奥──領主邸だけを目指して歩を進める。
「いやぁ、人気がないと寂しいねぇ」
大鎌の男──バモンが、軽い調子で言った。
「歓迎してほしいなぁ。どっか一軒、消し飛ばしてみっか?」
「無駄口を叩くな、バモン」
隣を歩く男──ザレオニールが、しゃがれた声で返す。袖口の影に、短剣が二本、刃先だけ冷たく眠っている。
「目的は一つだ」
「あァ? 指図すんなよ。……テメェから死ぬか? ザレオニール」
バモンが足を止め、ギラついた目を向ける。
ザレオニールもまた、無言で殺気を返した。
一触即発の空気。
「はは」
背後から、乾いた笑い声がした。
少年だ。
白い仮面の下で、面白そうに二人を見上げている。
「喧嘩は帰ってからにしよ。今を楽しまないと」
少年の言葉に、二人は舌打ちをして前を向き直った。
やがて、彼らの前に立派な鉄柵が現れた。
領主邸。
松明が焚かれ、十数人の衛兵が槍を構えて立っている。彼らは震えていた。本能が、近づいてくる三人が只者ではないと告げているのだ。
「と、止まれ! 貴様ら、何者だ!」
衛兵長が声を張り上げる。
バモンが肩をすくめ、大鎌をひょいと持ち上げた。
「教えてやるよ。身体で」
ヒュッ。
風を切る音すらしなかった。
大鎌が横薙ぎに閃く。肉を斬る感触はない。ただ風が通り抜けたような軽さ。
前列にいた三人の衛兵が、槍ごと、鎧ごと、上下に分かたれた。
血飛沫が舞う。
ザレオニールが袖を振る。
闇色の短剣が二本、門の蝶番に吸い込まれる。
金具が弾け飛び、重厚な鉄の門が、悲鳴を上げて傾いだ。
「なッ……!?」
崩れ落ちる衛兵たちを跨ぎ、二人は中庭へ入る。
少年はその後ろを、散歩でもするように着いていく。
「お邪魔しまーす」
楽しげな声が、惨劇の幕開けを告げた。
* * *
夜中。
街は息を潜め、鳥の羽音すら遠かった。
酒場の客たちは床に布団を並べ、身を寄せ合うようにして横になっていた。
戸板には楔。油灯は消され、カーテンの裾は紐で縛られている。
俺は闇の中で、隣のリュネルに声を落として尋ねた。
「屍人って、なんだ」
リュネルの顔色は、闇の中でも分かるほど蒼白だった。声が震えている。
「闇の組織だ。……いや、そんな生易しいもんじゃない」
彼は暗がりで指を三本立てた。
「闇の組織はいくつかあるが、三強が“屍人”、“鴉”、“熾紋”。……中でも屍人は最悪だ。屍人は──国を落とす」
「あいつらと戦争すれば、大国でも沈むって噂だ」
ゼトが珍しく剣の柄を強く握りしめていた。
「ベリア、絶対に外に出るな。強さとかそういう次元じゃねぇ。あれは“死”そのものだ」
壁の向こう、遠くで何かが崩れる音がした。
悲鳴は聞こえない。それが逆に、事態の絶望的さを物語っていた。
俺は息を整え、天井の闇を見つめた。
隣の布団で、衣擦れの音がする。アリシアだ。彼女が髪結びを指で弄っているのが、気配で分かった。
「……この街、どうなるのかな」
彼女が天井に向かって囁く。
返事を探している間にも、外で風が角を曲がり、金具が微かに鳴った。
「大丈夫だ」
俺は根拠のない言葉を口にした。
「何かあれば、この宿は……俺が守る」
「……うん」
アリシアは少し笑い、身体を小さく丸めた。
「じゃあ、安心」と囁く。
沈黙の間。外で、遠い足音が通り過ぎる。心臓が跳ねる。
足音が遠ざかると、彼女はまた口を開いた。
「ねぇ、ベリア」
独り言のような、小さな声。
「私……医者になりたいの。ここだけじゃなくて、いろんな町で。いつか大陸を回って、怪我した人や、困ってる人を助けたい。……その時、一緒に行けるかな」
彼女が顔を向けた気配がした。
「ベリアの旅に、私もついていってもいい?」
厨房の水滴が一粒、石に落ちて音を立てた。
俺は天井の染みを見つめたまま、胸の奥で何かが決まる音を聞いた。
「……ああ。いつか──一緒に行こう」
「ほんと?」
「ああ。だから、その“いつか”まで、俺はここを守る」
「約束ね」
「約束だ」
暗闇の中、彼女の手が俺の手に少しだけ触れた。
温かい。
この冷え切った夜の中で、そこだけが唯一の熱だった。
「……生きて、ね」
「アリシアもだ」
互いの距離は、手を伸ばせば届く。
けれど俺たちは手を繋がなかった。
言葉だけの誓いが、闇の中に静かに響いた。
* * *
明け方。
薄灰色の空の端で、鳥が一度だけ短く鳴いた。
長い夜が明けた。
体を起こすと、壁にもたれていたゼトと目が合った。彼も一睡もしていない。
「……街を見に行く」
ゼトが低く言う。
「俺も行く」
「リュネルは残れ。ここを頼む」
「……分かった。気をつけて」
ダリが閂を外し、重い扉を少しだけ開ける。
外の空気は、針のように冷たかった。
南の大通りは無人だった。
布がかかったままの露店。濡れ色の石畳。
破壊の跡はない。家々は静かに眠っている。
だが、匂いが違った。
鉄と、乾いた血の匂いが、風に乗って流れてくる。
ゼトが顎で示した。
──中央広場。
そこに、人が集まりはじめていた。
近づくほど、話し声はなくなる。
誰もが口を閉ざし、一点を見つめていた。
噴水の縁。
俺の足が、止まった。
そこには、首が並べられていた。
領主。その妻。そして、昨夜まで門を守っていた衛兵たち。
十数個の首が、噴水の縁石に等間隔で置かれている。
顔は歪み、恐怖に引きつったまま固まっていた。
「……ぁ、あぁ……」
傍らで膝を折り、声を押し殺して泣き崩れる女がいた。支えようとする老人の指も、枯れ木のように震えている。
ゼトの歯が、小さく軋んだ。
俺は喉を通らない唾を飲み込み、声を絞り出した。
「……街を、回ろう」
確かめなければならない。
俺たちは足を動かした。
角を曲がるたび、窓越しに怯えた瞳が動く。
見て回った結果は、異様だった。
被害はどこにもない。
民家も、商店も、傷一つつけられていなかった。
領主邸だけが徹底的に破壊され、中の人間だけが綺麗に処理されていた。
「……見せしめだ」
ゼトが呻くように言った。
「いつでも殺せる。誰でも殺せる。……そう教え込むために、わざと街を残したんだ」
広場の惨劇だけではない。無傷の街並みが、より深く恐怖を刻みつけていた。
鐘は鳴らない。
鳴らすべき人間は、もう噴水の縁で物言わぬ肉塊になっている。
宿に戻ると、俺たちの顔を見たアリシアが駆け寄ってきた。
彼女は俺とゼトの体に傷がないことを確認すると、一度だけホッと息を吐いた。
だが、俺が無言で首を横に振ると、その表情が凍りついた。
詳細を聞く必要はなかった。
俺たちが持ち帰った空気が、全てを語っていたからだ。
アリシアは何か言おうとして、口を噤んだ。
耐えきれなくなったように視線を伏せ、ギュッと掌を握りしめると、逃げるように厨房の奥へと消えた。
ダリは黙ってカウンターを拭いていた。
布を持つ手が、怒りで白くなっていた。
俺は階段を上がり、自分の部屋に入った。
窓の外、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいる。
けれど、もう二度と、昨日の空気は戻らない。
バウウェルの火の無い夜は明けた。
だが、扉が閉まる音の向こうで、日常の音は戻らないまま、浮かんでは消えた。




