第6話 武器屋と王都の陰
その夜、ダリの宿屋の一階は、ささやかな宴の熱気に包まれていた。
樽の香りと笑い声が混じり合い、木の卓ごとに小さな輪ができている。
旅人の話に耳を傾ける者もいれば、陽気に歌を口ずさむ者もいて、盃が絶えず打ち鳴らされる。
暖炉の火が赤々と揺れ、一階の酒場全体に心地よい熱気が広がっていた。
「乾杯だ! 俺たちの最強の新人に!」
ゼトが並々と注がれた盃を高々と掲げる。
カチン、と木の器がぶつかり合う鈍い音が響いた。中身は水で割った安物のエールだが、労働で乾いた喉には格別に染みる。
白縞熊の素材は、夕方のうちにギルドへ卸し、想定以上の高値がついた。俺の取り分だけでも、当面の宿代と借金を返して釣りが来る額だ。
「ぷはぁっ! 生き返るぜ。……それにしても、あの熊を一撃とはなぁ。ベリア、お前本当に記憶がないのか?」
酔いの回ったゼトが、赤ら顔で絡んでくる。
俺は苦笑して首を振った。
「ああ。気づいたら森の中だった。……自分が何者でどこから来たのか、今も分からない」
俺の言葉に、場の空気が少しだけ湿っぽくなる。
それを払拭するように、リュネルが壁に貼られた古い羊皮紙を指差した。
脂と煤で汚れているが、大陸全土を描いた地図だ。
「なら、まずは今の居場所を知っておくことだ」
リュネルの指が、壁にかけられた古ぼけた羊皮紙の地図を指でなぞる。
「俺たちがいるのはここだ。大陸の西側、小国テゼルウォートの南端にある小さな街、バウウェル。ちなみに、テゼルウォートは別名『芸術の国』とも呼ばれてる」
芸術の国。
そういえば、この街の建物も、古びてはいるが装飾が細やかだ。
「テゼルウォートは治安も商いも安定してる。軍事は強くないけど、諜報が巧い国だよ」
「間違いない、良い国!」
ゼトが親指を立てる。
「僕ら、テゼルウォートしか知らないけどね」
「はは」
「大陸には無数に国があるが……『四大国』と呼ばれる強国がある。西に広がる──『ゼラ帝国』。軍事力なら大陸一だ。中央のフォグ山脈を挟んで東にあるのが──『オルディス王国』。帝国にも抗える十二師団を擁する大国だな」
帝国。オルディス。
聞いたことがあるような、ないような不思議な感覚だ。
「北の険しい山岳地帯が『デボラ』。そして南の海沿いが、聖女教会の本部がある『アントリーゼル』だ」
四大国。
その名前を聞いても、記憶の奥にある霧は晴れない。
「俺は……どのくらいの強さなんだろうな」
盃の泡を見つめながら、独り言のように漏らす。
あの熊を一撃で倒せた。だが、それがこの世界でどの程度の位置なのか、俺には物差しがない。
リュネルが席に戻り、冷静な口調で言った。
「一般人の魔火指数がだいたい10前後だ。兵士クラスで20台──二十超。俺やゼトみたいな熟練の冒険者で、ようやく30台──三十超ってところさ」
「へっ、俺たちだってこの辺じゃ相当な使い手だぜ?」
ゼトが胸を張るが、リュネルはそれを無視して俺を見た。
「ベリアの動きは、間違いなく四十超以上だ」
「四十超……」
「だが、慢心するなよ。上には上がいる」
リュネルの声が、一段低くなる。
「五十超の一騎当千。小国では最強クラスの六十超。そして大陸にひと握りしかいないと言われる、生ける伝説、七十超」
七十超。
桁が違うのだろう。今の俺の力が通じない化け物が、この広い世界には君臨しているということか。
想像もつかない高みに、背筋が粟立つ感覚を覚えた。
「……自分が何者か知りたいなら、王都へ行くんだ」
リュネルが静かに言った。
「ここ──バウウェルの北にある王都テゼリアには、冒険者ギルドの基幹支部がある。冒険者ギルドの『判定石』は、魔火の強さだけでなく、個人の波形まで記録できる代物だ」
「波形?」
「指紋みたいなもんだ。もし過去にベリアがギルドに登録していれば、身元が割れるかもしれない」
その言葉に、俺は顔を上げた。
王都テゼリア。判定石。
暗闇の中に、細い道筋が見えた気がした。
* * *
翌日。
俺は二日酔いで少し重い頭を抱えながら、北の通りを訪ねていた。
カン、カン、カン。
規則正しい槌音が響き、鉄と油の焼ける匂いが立ち込めている。
油に濡れた革、壁いっぱいの剣と盾——武器屋の看板が目に入った。
《ギルバート》と彫られている。
王都へ行く前に、自分の武器を手に入れておきたかった。昨日の狩りで分かったことがある。あの短刀は良い品だが、俺の戦い方には合わない。おそらく予備だろう。俺の身体は、もっと別の──「斬る」ことに特化した形状を求めている。
扉を押すと、乾いた鈴の音。客が数人、思い思いに刃を眺めている。奥では店主と思われる髭の男が椅子にふんぞり返り、葉巻をくゆらせながら冊子を読んでいた。
店内には、剣や槍、斧が所狭しと並べられていた。
俺は適当な長剣を手に取り、値札を見る。
「……鉄の剣、五万オルム。鋼の剣、十万オルム」
ため息が出た。
昨日の報酬を合わせても、まともな剣には手が届かない。
ふと、店の奥に視線が行った。
全身を分厚い重鎧で覆った巨漢だ。
顔は見えないが、こんな路地裏の店には似つかわしくない立派な装備だ。騎士だろうか。
彼は腕組みをして棚を眺めているだけで、微動だにしない。
俺は視線を外し、店の隅にある棚へ向かった。
そこで、一本の鉄に目が留まる。
埃を被り、雑多な剣の中に埋もれるように置かれた、反りのある刀。
「……刀」
その単語が自然と口をついて出た。
吸い寄せられるように柄を握る。
ずしりとした重み。だが、振れば羽のように軽いだろうという予感。重心が、俺の掌の真ん中にピタリと収まる。
これだ。
俺は鞘から少しだけ刃を抜き、指先から微量の魔火を流し込んだ。
チィン……。
高く、澄んだ感覚が腕に返ってきた。
その時、奥にいた重鎧の男がピクリと反応し、兜が僅かに俺の方を向いた気がした。
俺は慌てて魔火を散らす。
他の客たちは気付いていないようだ。──いや、店主の男は冊子に目を落としたまま、口の端だけで笑っていた。今のやり取りを面白がってる。
その後もいくつかの武器を試してみる。
分かったことは二つ。俺に一番馴染むのは刀だということ。そして、魔火の通りが良い武器ほど値が張るということ。
「おい坊主、閉めるぞ」
店主の声で我に返った。客はいつの間にか誰もいない。
「すみません。すぐ出ます」
「いや、構わん。……ずいぶん刃物が好きらしいな」
葉巻を外し、男はニヤリと笑った。
「楽しそうに見てたが……金はあるのか?」
俺は正直に首を振った。
「はっはっ! 金無しか!」
男は愉快そうに喉を鳴らして笑うと、ふぅ、と紫煙を吐き出した。
そして、先ほどの刀を無造作に手に取る。
「……こいつは、俺が五年前に打ったもんだ。だが、誰も見向きもしねぇ。最近の連中は叩き斬る直剣ばかり好むからな」
ギルバートは布で鞘の埃を乱暴に拭うと、俺の目の前にドン、と置いた。
「だが、お前は真っ先にこれを選んだ。しかも、丁寧に魔火を通しやがった」
「……見ていたのか」
「自分の打った鉄が鳴く音を聞き逃すほど、焼きが回っちゃいねぇよ」
ニヤリと笑うと、彼は顎で出口をしゃくった。
「持っていけ」
「え?」
「代金はツケだ。出世払いでいい」
俺は呆気にとられた。
タダでくれると言うのか。いや、この刀の質を見れば、十万オルムでも安いくらいだ。
「いいのか?」
「ここで腐らせて鉄屑にするよりマシだ。その代わり、有名になって返しに来い。俺の目に狂いがなかったとな」
背中越しに投げられた言葉。
俺は深く頭を下げた。
職人のプライドと、不器用なエール。
まだ名もなき刀だが、今の俺には過ぎた相棒だ。
「必ず返す」
俺は腰に新たな重みを感じながら、店を後にした。
上機嫌のまま宿へ向かいながら、ふと振り返る。扉越しに、葉巻の火がちらりと揺れた。
──武器屋の名は、ギルバート。
バウウェルの鍛冶師にして、目利きの偏屈親父。
その名を、この先、俺は長く忘れないことになる。
* * *
──王都テゼリア
夜。
街灯が等間隔に並び、橙の明かりが石畳に薄く伸びていた。
露店はそろそろ店じまい。果物籠を縛る手も、どこか眠たげだ。
「お嬢さん、遅い時間だね。焼き栗、最後の一袋。もう冷めちまう」
年季の入った露天商が呼び止める。
黒いクロークを着た女──ニーナは足を止め、袋を指で持ち上げた。重さを確かめ、口元だけで笑う。
「冷めても甘い?」
「甘いよ。綺麗な人に売るときは、少し多めに入れる主義でね」
「じゃあ買う。……一つ、味見」
割った栗は湯気がほとんどない。彼女は一粒を口に運び、もう一粒を店主へ差し出す。
「公平でしょ?」
「はは、こりゃ一本取られた」
短い笑いを置いて、袋を袖の下へ滑らせる。ニーナは歩調を変えず横手の路地へ入った。
* * *
洗濯縄が頭上を渡り、樽と木箱が影を濃くする。
風が止む。音が、少し薄くなる。
(……来る)
黒衣が二つ、影から滑り出た。顔は布で覆い、動きに無駄がない。かなりの手練れ。
右から斜めの斬り上げ。半歩遅れて、左から心臓狙いの突き。呼吸の揃った挟撃。
ニーナは半歩だけ退き、指先に魔火を細く乗せ、空を一閃。
音が一拍、消えた。
パァン。
乾いた音が響く。
右の男の剣、その柄が二つに割れ、握りが崩れ落ちた。刃が石をかすめ、鈍く跳ねる。
同時に、抜刀。
左の突きを紙一重で躱し、水平の斬光。
上衣が胸の中心ですっと裂け、男は息を飲むより早くたたらを踏む。
だが、もう遅い。
ニーナはすでに一歩、踏み込んでいた。縦の細線が喉から鎖骨の下へ落ちる。
声もなく男が崩れ、樽に肩をぶつけて沈黙した。
残る一人は即座に退きへ移る。
石畳を蹴る音、手から飛ぶ小さな閃き──目潰し。
ニーナはまぶたを細く閉じて一呼吸。靴底が石の角を噛む三拍を数える。
開眼。
同時に、黒衣の横へ詰める。
刃が煌めき、斜めの線が夜気を短く裂いた。
黒衣の胸前で布が裂け、その下で赤が遅れて開く。
刃は心臓の前で止めていたが、刀に乗せた衝撃が体幹に返り、男の身体は木箱ごと後ろへ叩きつけられた。
短い泡が漏れ、抵抗は途切れる。
ニーナが刀を納める音は、耳を澄まさなければ聞こえないほど静かだった。
「……今回は、少し足を踏み入れすぎたかな」
独り言が、裏路地の底に落ちる。
焼き栗の袋が袖の下で軽く揺れ、甘い香りがわずかに混じった。
そのとき、路地の口から均整の取れた足音が近づく。
背筋のまっすぐな男。倒れた二人に一瞬だけ視線を落とし、距離を保って立ち止まる。
表情は動かない。声だけがよく通った。
「見事だ」
ニーナは横顔だけ向ける。
「誰」
男は一拍だけ間を置き、簡潔に答えた。
「邪魔をする気はない。この国の、陰の者だ」
「何の用」
「率直に言う──協力関係を結びたい。君が追っているこいつらは、近いうちにこの国の脅威となる」
橙の明かりが風に震え、影が薄く伸びる。
ニーナは短く言った。
「条件はひとつ。命令は受けない」
「承知した」
落ち着いた返事。
「こちらも、君に命令するつもりはない」
約束の形だけが、その場に静かに置かれた。
男はそれ以上身分を明かさず、ニーナもそれ以上問わない。
彼女はクロークの留め具を確かめ、歩調を変えず路地を出た。
美しい背の線が橙から離れ、夜のテゼリアに紛れていく。
男は一度だけ倒れた二人を見やり、足音を消した。
路地には、酒と鉄の匂いと、静けさだけが残った。




