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第5話 西の森の狩人


一日の始まりを告げる鐘が、遠くで鳴っていた。


朝の光が街の石畳を照らしているが、西の端にある出口付近だけは、どこか張り詰めた空気が漂っている。

俺たちは装備を整え、街の境界に立っていた。


「よし、忘れ物はねぇな? 行くぞ」


ゼトが剣のベルト位置を直しながら、先頭を切って歩き出す。

俺も背負い袋の紐を握り直し、その後に続いた。


街を囲むのは、背丈ほどの高さしかない古い石塀だ。

その切れ目にある、鉄帯で補強されただけの質素な木の門をくぐる。


その瞬間、鼻の奥を刺すような、強烈な刺激臭が襲ってきた。


「うっ……」


思わず手で鼻を覆う。

腐った香草と、焦げた木材を混ぜて煮詰めたような、生理的な不快感を煽る匂いだ。


「キツいだろ? 慣れるまでは我慢だね」


最後尾を歩くリュネルが、平然とした顔で言った。


除獣香じょじゅうこうを焚いてるんだ。魔獣はこの匂いを嫌がる。ここから先は『人の領域じゃない』って合図さ」


境界線。

その言葉通り、匂いのカーテンを抜けた先には、まったく別の世界が広がっていた。


踏み固められた土の道が、草原の向こうにある濃緑の壁へと続いている。

リュネルから『ドゥーべの森』と聞いた。

大陸の西を縦長に伸びる、世界の果てを飲み込むような巨大な緑の塊。

その広大さゆえに縦断は不可能とされ、深部は深い霧と魔獣に支配された人外の領分だという。


「ここからは遊びじゃねぇぞ。気を抜くなよ、新人」


ゼトの声から、先ほどまでの陽気さが消えていた。

背中を丸め、重心を低く落とした独特の歩き方。いつでも抜剣できる姿勢だ。

リュネルも杖を握り、細めた瞳で油断なく周囲を走査している。


草原を抜け、森の入り口へ足を踏み入れる。


一歩進むごとに、世界から色が失われていくようだった。

頭上を覆う枝葉が太陽を遮り、視界が一気に薄暗くなる。

肌にまとわりつく湿気。腐葉土の甘ったるい匂い。

街の喧騒は完全に消え、自分の心音と、枯葉を踏む音だけがやけに大きく響く。


怖いのではない。

むしろ、懐かしい。

体の中で、魔火まかが静かに熱を帯び始める。この張り詰めた緊張感を、俺の細胞は「日常」だと認識していた。


「……止まれ」


半刻を進んだところで、先行していたゼトが、拳を上げて足を止めた。

彼が指差した先、大木の幹に、真新しい傷跡が刻まれていた。


巨大な爪痕だ。

三本の溝が、硬い樹皮を深々と抉り取っている。俺の顔ほどもある大きさだ。


「熊か?」


ゼトが低い声で問う。

リュネルが近づき、杖の先で傷跡に触れずにかざした。数秒の沈黙。


「……ただのけだものじゃない。断面が炭化してる」


言われて目を凝らす。

抉られた木の断面が、火で焼かれたように黒く焦げ、微かに熱を帯びているように見えた。


「魔火が練られている証拠だ。爪に魔火を乗せて、バターみたいに樹皮を裂いたんだよ」


リュネルが厳しい顔で森の奥を睨んだ。


「肉体の力だけで生きる『獣』と、体内の魔火を扱える『魔獣』。……こいつは後者だ。しかも、かなりタチが悪い」


魔獣。

その言葉を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。

思考で理解したわけではない。

残された爪痕から漂う、ピリピリとした残滓。それが、俺の中の何かを逆撫でする。


近い。

すぐ近くに、その「熱源」がいる。


「……来るぞ」


俺の口が勝手に動いた。

ゼトとリュネルが驚いて振り返るより速く、前方の藪が爆発したように弾け飛んだ。


──空気を破裂させたような轟音が、鼓膜を通り越して腹の底を揺らした。


白縞熊ホーンズベアーの咆哮。

木漏れ日の中に躍り出たその巨体は、立ち上がれば人の背丈の二倍はある。漆黒の毛並みに走る白い縞模様が、威圧するように波打った。


「散れッ!」


ゼトの叫びと同時に、俺たちは左右に跳んだ。

直後、俺たちがいた場所に熊の前脚が叩きつけられる。

地面が揺れ、土砂と落ち葉が爆ぜた。ただの腕力じゃない。爪に纏わせた魔火が、衝撃を拡散させているのだ。


「オラァッ!」


ゼトが側面から飛びかかる。

剣を両手で握り、体重を乗せて熊の脇腹を薙ぐ。


ガィンッ。


硬質な音が響いた。

刃は厚い毛皮と筋肉に阻まれ、浅い傷一筋すらつけられない。


「硬ってぇ! 岩かよこいつ!」

「下がるんだゼト!」


後方のリュネルが杖を突き出す。

先端に赤い光が収束し、握り拳大の火の塊が放たれた。

火球は熊の顔面で弾けたが、熊は鬱陶しそうに鼻を鳴らし、腕を振るって煙を払っただけだ。魔火で強化された肉体には、小手先の魔法など通じない。


熊の金色の双眸が、チョロチョロと動くゼトを捉えた。

巨体に似合わぬ瞬発力で、丸太のような腕が横薙ぎに振るわれる。


「しまっ──」


ゼトが剣を盾にするが、体勢が悪い。

あの質量を受ければ、剣ごと腕を持っていかれる。


危ない。

そう思った瞬間に、俺の身体は動いていた。


思考などない。

ただ、視界の端で捉えた熊の筋肉の収縮、重心の傾き、風の流れが、俺の脳に最適解を叩き込んでくる。


熱い。

湧き上がった魔火が、一瞬で四肢へと駆け巡る。

足裏で地面を噛む。爆発的な加速。


ゼトと熊の間に割り込むと同時に、俺は姿勢を限界まで低くした。

間に入った俺に気を取られた豪腕が頭上を通過する。風圧で髪が逆立ち、肌が粟立つ。


──ここだ。


振り抜いた直後、熊の懐がガラ空きになる。

分厚い筋肉と骨に守られた巨体の中で、唯一、喉元だけが柔らかく脈打っているのが見えた。


俺は右手に持った短刀に、ありったけの魔火を流し込んだ。

下から突き上げるように、その一点を目掛けて刃を走らせる。


ズンッ。


重い手応え。

毛皮と筋肉の抵抗を、魔火の鋭さで無理やりこじ開ける。

刃先が硬い何かを断つ感触が手に伝わり、俺はそのままの勢いで背後へと駆け抜けた。


一瞬の静寂。


ドォンッ。


遅れて、巨大な質量が地に伏した。

首の動脈を裂かれた白縞熊ホーンズベアーは、喉の奥でゴボゴボと音を立て、やがて痙攣して動かなくなった。


「…………は?」


ゼトの間の抜けた声が響いた。

彼はへたり込んだまま、目の前の光景を信じられないという顔で見上げている。

リュネルも杖を下ろし、呆気にとられていた。


俺は短刀を振って血糊を払い、鞘に納めた。

心臓が早鐘を打っている。恐怖からではない。興奮した身体を冷まそうとしているのだ。


「おい……嘘だろ、ベリア」


ゼトがおそるおそる立ち上がり、動かなくなった熊を覗き込む。

首の傷は深く、致命傷だった。


「一撃かよ。しかも、短刀でホーンズベアーを……」

「……運が良かった。動きが見えたんだ」


俺は短く答えた。

運ではない。だが、どう説明すればいいのか分からなかった。

ただ身体が勝手に動き、手が急所を知っていた。


「運で斬れる首じゃないさ」


リュネルが近づいてきた。

彼は熊の死骸と、俺の顔を交互に見比べ、小さく息を吐いた。


「拾ったのは、とんでもない化物だったらしいな」


その言葉には、少しの畏怖と、それ以上の呆れが含まれていた。

俺は自分の掌を見つめた。

まだ微かに熱い。

俺は、この感覚を知っている。ずっと昔から、こうやって生きてきたのだと、手が教えてくれている気がした。


「……帰ろう。血の匂いに、他の魔獣が寄ってくる」


俺が促すと、二人は我に返ったように頷いた。

ゼトが熊の角と皮を剥ぎ取る作業に取り掛かる。

俺の新しい日常は、どうやら穏やかなものにはなりそうもなかった。


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