第4話 始まりの町
目を開けると、知らない天井があった。
古い木材の梁。
鼻をくすぐる、乾いた薬草の匂い。
糊の効いた清潔なシーツが、身体の重みを柔らかく受け止めている。
窓からは、真上に昇った太陽の強い光が差し込み、部屋の中を白く照らしていた。
……助かったのか。
身を起こそうとすると、骨の髄まで響くような鈍い痛みが走った。
「っ……」
声にならない呻きが漏れる。
扉が、控えめに叩かれた。
返事をする間もなく、水桶を持った少女が顔を出す。
「……あ、気がついた?」
年は俺より少し下くらいか。白い肌に、墨を流したような綺麗な黒髪。
それを束ねる青い髪結びが、日差しを受けて鮮やかに揺れた。
彼女は桶をサイドテーブルに置くと、慣れた手つきで俺の額に手を当てた。ひやりと冷たい掌。
「熱は下がってる。……よかった」
安堵の息。その声の響きだけで、ここが敵地ではないことが分かる。
「ここは……」
「宿屋よ。パパが森の入り口であなたを拾ったの。丸三日も眠ってたんだから」
少女の声に呼ばれ、今度は髭面の巨漢が入ってきた。床板が重そうにきしむ。
「目が覚めたか。俺はダリだ」
熊のような豪快な見た目だが、包帯の滲みを確かめる目は、職人のように細やかで穏やかだった。
「ひどい怪我だったが、峠は越えたようだ。手当てはアリシアがやったんだぞ」
アリシアと呼ばれた少女が、照れくさそうに視線を逸らし、タオルを絞る。
水が滴る音だけが、静かな部屋に響く。
俺は身体を起こし、礼を言おうとして──言葉に詰まった。
「俺は……」
名前が出てこない。
記憶の底をさらっても、泥のような暗闇があるだけだ。
残っているのは、あの雨の森での、氷のように冷めた感覚だけ。
魔獣の首を落とした時の、あの掌の感触。
思考するより速く、首を断った自分の手が、ひどく他人のもののように思えて、寒気がした。
自分の手を見つめて固まる俺を、ダリは静かに見ていた。
何も聞かず、サイドテーブルに置いてあった短刀を取り、俺に放った。
「柄を見てみな」
反射的に受け取る。
ずしりとした重み。掌に吸い付くような馴染み方。
……知っている。この重心の位置を、俺の指先は記憶している。
使い込まれた柄の底に、小さな文字が刻まれていた。
「……ベリア」
読み上げた音が、不思議と腹の底に落ちた。
空っぽの器に、最初の石が置かれたような感覚。
「そういうこった、ベリア。命拾いしたな。今は陽の十二刻だ。腹、減ってるだろ」
ダリが窓の外、真上にある太陽を見て言った。正午だ。
そう言われた途端、腹の虫が小さく鳴った。緊張が緩む音。
ダリがわっはっは、と豪快に笑う。
「行くあてがないなら暫くここにいな。身体が治ったら働いてもらうけどな」
アリシアが「もう、パパったら。人使いが荒いんだから」と苦笑して、俺の枕元の水を替えてくれた。
水が器に注がれる澄んだ音。
窓の外から聞こえる、活気ある荷車の音。
階下からは、昼時の喧騒と共に、煮込まれたスープの香ばしい匂いが漂ってくる。
二人のやり取りの温度が、冷え切った胸にじんわりと染みた。
ここには、あの森とは違う確かな「日常」があった。
「ありがとう。二人は命の恩人だ」
短刀の柄に彫られた「ベリア」の文字に親指をなぞると、体内の炎が微かに呼応した気がした。今の俺を繋ぎ止める、唯一の釘だった。
* * *
階段を降りると、木の床がぎしりと鳴った。
一階は酒場を兼ねた食堂になっていた。客は疎らだが、暖炉の火が爆ぜる音と、厨房から漂う煮込みの匂いが、空間を温かく満たしている。
「ほら、座りな。病み上がりには特製のスープだ」
ダリがカウンターの奥から、湯気の立つ木椀を差し出した。
受け取ると、器の温もりが指先から掌へ、そして芯まで冷えた身体へと伝播していく。
一口、啜る。
根菜の甘みと、少し濃いめの塩気。
舌の上で解けるような熱が、喉を通って胃袋に落ちる。
美味い、と思うより先に、身体が震えた。生きていてよかった、という本能的な安堵が、涙腺を刺激する。
「……美味いか?」
「ああ……すごく」
俺が答えると、ダリは満足そうに髭を撫で、アリシアが厨房の奥で小さく微笑んだ。
平和だ。
あの雨の森での、血と泥の感触が嘘のようだった。
その時──。
バンッ!
入り口の扉が勢いよく開かれた。
外の熱気と共に、騒がしい風が吹き込んでくる。
「おやっさーん! 腹減った! 一番高い肉食わせろ!」
「バカ、ゼト。声が大きいよ。……すみません、いつもの二つで」
雪崩れ込んできたのは、若い男が二人。
腰に剣をぶら下げた、茶髪で目つきの鋭い男と、背に長い杖を背負った、長身の優男。
この街の冒険者だろうか。慣れた様子で入ってくる。
「お、起きたか! 森で拾った遭難者!」
俺に気づいた茶髪の男が、土足でドカドカと近づいてくる。
遠慮のない距離感。だが、その瞳には屈託のない好奇心だけがあった。
「俺はゼト。こっちはリュネル。……あんたを運ぶのを手伝ったんだぜ。重かったなぁ」
「余計なことは言わなくていい。……怪我の具合はどうだい?」
リュネルと紹介された優男が呆れたようにゼトを制した。
俺は軽く頭を下げる。
彼らが命の恩人の一部だと知ったが、今の俺には礼を言う言葉と、空っぽの身体しかなかった。
「……ありがとう。必ず、借りは返す」
「いいってことよ」
俺は短く、自分の状態を告げた。自分が誰で、どこから来たのか分からないことを。
一拍の沈黙の後、ゼトが大仰にのけぞった。
「き、記憶喪失ぅ!? そんなことって──」
「ゼト、声」
「ご、ごめん!」
大騒ぎするゼトを、リュネルが肘でつつく。
「マジかよ、物語の中だけかと思ったぜ」
ゼトがまじまじと俺の顔を覗き込んだ。そこには同情よりも、珍しいものを見るような純粋な驚きがあった。
その軽さが、今の俺には逆に救いだった。
「ま、生きてりゃなんとかならぁ。よろしくな、記憶なしのベリア」
ゼトはニカっと笑うと、運ばれてきた肉料理に食らいついた。
その日は、それだけで終わった。
* * *
それから、三日が過ぎた。
俺の回復は早かった。
自分でも驚くほど、傷が塞がり、体力が戻っていく。
ただ飯を食うわけにはいかないと、俺はダリに頼み込んで宿の雑用を始めた。
裏庭での薪割り。
それが俺の日課になった。
「ふっ」
短く息を吐き、斧を振り下ろす。
パァン、と乾いた音が響き、太い薪が真っ二つに割れて左右に飛ぶ。
(……軽い)
鉄の斧が、小枝のように軽く感じる。
筋肉を使うときに、身体の奥で熱──魔火が循環し、活力を補填しているのが分かる。
記憶はなくとも、この身体は異常だ。
ただの村人や、普通の旅人ではない。
割れた薪を積み上げながら、俺は掌を見つめた。
この手は、暮らしのためではなく、別の何かのために作られている気がした。
「……へえ。いい腰が入ってる」
不意に、背後から声をかけられた。
振り返ると、裏口の木柵に寄りかかって、ゼトとリュネルがこちらを見ていた。
「病み上がりとは思えねぇな。斧の扱いが手慣れてる」
「……生きるために必死なだけだ」
俺が斧を置くと、リュネルが目を細めた。
値踏みするような、それでいてどこか楽しげな視線。
「ベリア。君、金は持ってるのかい?」
唐突な問い。俺は首を横に振った。
無一文だ。ダリは「出世払いでいい」と言ってくれるが、いつまでも甘えるわけにはいかない。
「なら、稼ぐ気はあるか?」
リュネルが懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
依頼書だ。
「西の森に、白縞熊が出た。デカい獲物だ。二人でもやれるが、荷物持ちと、いざという時の『壁』が欲しい」
「おいリュネル、こいつは素人だぞ?」
ゼトが口を挟むが、リュネルは無視して俺を見た。
「ただの素人は、あんな音で薪を割らない。……どうだい? 報酬は弾む」
狩り。
その言葉を聞いた瞬間、身体の奥が熱くなった。
金が必要なのは事実だ。だがそれ以上に、俺の中の本能が「行け」と告げている。
森へ。あの感覚を、もう一度確かめる場所へ。
俺は汗を拭い、彼らを真っ直ぐに見返した。
「……連れて行ってくれ。足手まといにはならない」
「はん、口だけは達者だな」
ゼトは呆れたように肩をすくめたが、拒絶はしなかった。
リュネルが、にやりと笑う。
「決まりだ。明日の朝、出発するぞ」
風が吹き抜け、積み上げた薪の匂いが鼻をかすめた。
ここでの暮らしは温かい。だが、俺の居場所は、やはり平穏の中にはないのかもしれない。
予感と共に、俺は握りしめた拳に力を込めた。




