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第34話 影の刃


南門が崩れ落ちた土煙の向こうから、それは溢れ出した。

もはや侵攻と呼べるような生易しいものではない。


せきを切った黒い濁流が、テゼリアの石畳を舐め広げていく。

白い仮面をつけた男たちが、瓦礫を踏み越え、笑いながら市街へと雪崩れ込む。


「ひ、あ……!」


露店で果物を売っていた太った店主が、腰を抜かして後ずさる。彼が守ろうと手を伸ばした木箱ごと、無造作に振り下ろされた錆びた斧が、彼の腕を断ち割った。


悲鳴すら上げる暇はない。

果汁と血が混ざり合い、鮮やかな赤が石畳の溝を走る。


殺戮は、恐ろしいほど事務的だった。

屍人たちにとって、目の前の市民は敵ですらない。ただそこにある、壊すべき「物」でしかないのだ。


逃げ惑う女の背中に短剣が突き刺さる。

泣き叫ぶ老婆が蹴り飛ばされ、その首が枯れ木のように折れる。


「ハハッ、いい色だ」


仮面の男たちは、まるで収穫でも楽しむかのように、血飛沫を浴びて笑う。

つい数刻前まで、「星の儀」を待ちわびていた芸術の都。

その美しいキャンバスは、瞬く間に、鉄錆の匂いと臓腑ぞうふの熱気で塗り潰されていった。


* * *


「ひるむな! 陣形を作れ! 盾を並べろ!」


南門警備隊の小隊長が叫ぶ。

爆発の衝撃から立ち直った騎士たちが、震える手で盾を構え、壁を作ろうとする。

彼らは勇敢だった。だが、相手が悪すぎた。


「オラァッ!」


真正面から突っ込んできた屍人の一人が、盾の上から戦鎚を叩きつけた。

魔火まかを乗せた一撃。

騎士の腕ごと、鋼鉄の盾が飴細工のようにひしゃげる。


「が、ぁ……ッ!?」


陣形の一角が崩れた瞬間、そこへ数人の屍人が黒い蟻のように殺到した。

隙間を縫う短剣が、騎士たちの鎧の継ぎ目──首、脇、太腿を正確に貫いていく。


「た、隊長! 抑えきれません!」

「城へ! 誰か城へ伝令を……!」


必死の叫びは、喉を切り裂かれてゴボリという音に変わる。

指揮官の首が飛び、高く掲げようとした旗が血泥の中に落ちる。


号令が消えた。

あとに残るのは、統率を失った個々の断末魔と、肉が斬り裂かれる濡れた音だけ。

テゼルウォートが誇る「秩序」は、暴力の嵐の前で、あまりにも脆く砕け散った。


* * *


俺は、走っていた。

右腕に、逃げ遅れた少女を抱えて。


「う、うぅ……っ」


少女は俺の肩に顔を埋め、ガタガタと震えている。

軽い。あまりにも軽い命だ。

爆風と熱気で焼かれた空気が、肺を焦がす。


「しっかり捕まってろ! 絶対に手を離すな!」


俺は叫び、魔火を足に集中させる。

石畳を蹴るたびに、衝撃で足裏が痺れる。だが、速度は緩めない。緩めれば、背後から迫る「死」に追いつかれる。


前方では、ニーナが猛火で描いた矢印を頼りに、市民たちが北小門へ向かっている。

だが、その列の最後尾にも、黒い影が迫っていた。


路地を曲がろうとした時、少女の腕に巻かれたものが目に入った。

安っぽい、青い布切れ。

おそらく母親が、はぐれないようにと結んでくれた目印なのだろう。


ドクン。


心臓が嫌な音を立てた。

視界が一瞬、歪む。


脳裏に、あの光景がフラッシュバックする。

バウウェルの宿。

割れた窓。

床に落ちていた、アリシアの青い髪結び。


『遅れて、すまない』


あの時の絶望。冷たくなった手の感触。


(──なにも、守れなかった)


あの時の無力感が、黒い泥のように足元から這い上がってくる。

恐怖か。絶望か。

足がすくみそうになる。


「──ッ、ふざけるな!」


奥歯が砕けるほど強く噛み締め、思考を怒鳴りつけた。

恐怖をねじ伏せ、全身の血管に魔火を無理やり循環させる。


あの時、俺は間に合わなかった。

だが今は、ここにいる。刀がある。足が動く。

背中には、守るべき約束がある。


「泣くのはあとだ……!」


感傷に浸る時間は一秒もない。

俺は過去の幻影を振り切り、さらに深く踏み込んだ。


* * *


「走って! 列を崩さないで!」


ニーナの声が、路地裏の闇を切り裂く。

彼女は北へと続く狭い退路に立ち、パニック寸前の群衆を誘導していた。

炎の赤と、夜の黒。明滅する視界の中で、ニーナの感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。


(……おかしい)


ふと、彼女は足を止めた。

背筋を、冷たい指で撫でられたような悪寒。


右手の民家の軒先には、油灯が揺れている。光は右から差している。

だというのに──目の前の煉瓦塀に落ちる煙突の影が、あろうことか「手前」に向かって伸びていた。


物理法則を無視した黒い染み。

それは意思を持った軟体動物のように、避難民の足元へ滲み寄ろうとしていた。


「──ッ!」


ニーナは迷わず動いた。

足元に転がっていた露店の油樽を蹴り上げる。

樽は空中で回転し、黒い染みの上で砕け散った。

同時に、近くの油灯の支柱を鞘で叩き折る。


ガシャン!


落ちた火種が油に引火し、爆発的な炎が路地を埋め尽くした。

強制的な光源の書き換え。

四方八方から光を浴びせられた「影」は、逃げ場を失って狂ったように波打った。


「……ほう」


炎の向こうで、影が立体的に隆起した。

黒衣を纏った男が、ぬらりと姿を現す。穏やかな顔には仮面すらなく、ただフードが目元を暗く覆っているだけ。

だが、その立ち姿から漂う気配は、先ほどの暴徒たちとは次元が違った。


(大劇場を襲撃した男……)


諜報長から知らされた、“影”を使う特殊な魔火。


男が、指先を指揮者のように振る。

足元の影が鎌首をもたげ、鋭利な刃となってニーナの喉元へ迫る。


「邪魔!」


ニーナは刀を抜き放ち、影の刃を弾く。

硬い。実体がないはずの影に、鋼鉄のような質量がある。


踏み込む。

間合いを一足で潰し、男の胴へ斬撃を走らせる。

だが、手応えは水のように軽かった。男の体がブレて、背後の闇へと溶ける。


(速い──いや、消えた?)


直後、背後の空間が歪んだ。

殺気すら感じさせない、完全なる死角からの剣の刺突。


ニーナは振り返ることなく、刀を背中へ回してそれを受けた。


ギィン!!


空気が悲鳴を上げるほどの衝撃。

ニーナの靴が、石畳を削って沈む。

受け止めた腕の骨が軋む。重い。ただの筋力ではない、圧倒的な魔火の密度。


(……ああ、やっぱり)


鍔迫り合いの数秒で、ニーナの肌が理解してしまった。

この男は、戦ってはいけない相手だ。

ベリアに語った「生物としての格が違う」化け物が、今、目の前にいる。


「いい反応だ」


影の男は、右手に持つ直剣越しに楽しげに囁いた。

その視線が、ニーナの背後──逃げ惑う市民たちの足元へ向けられる。


「だが、守れるかな。──影はどこにでもある」


男の姿が再びブレた。

狙いはニーナではない。市民たちの足元に伸びる、無数の影だ。


「──させないッ!」


ニーナは男を追わなかった。追えば、その隙に誰かが死ぬ。

彼女は刀を返し、近くにあった商店の積み荷──小麦粉の麻袋を一閃した。


バッ!


白い粉が舞い散り、路地の入り口に真っ白な一本の線を引いた。


「全員、その線を跨がないで!」


ニーナの裂帛れっぱくの気合いが、市民の足を縫い止める。


「──影を踏んだら死ぬと思って」


理屈ではない。ルールとしての「結界」。

視覚的に安全地帯を示すことで、市民を影から遠ざけ、同時に男の侵入経路を限定する。

ニーナは白線の前に立ち塞がり、全身の魔火を立ち昇らせた。


これ以上踏み込めば、私もタダでは死なない。

その覚悟を感じ取ったのか、影の男は足を止めた。


「……賢い。市民を盾にすれば崩せるが、それでは興が削がれる」


男は興味を失ったように肩をすくめ、炎の明滅に紛れて後退した。


「次は踊ろう。……刀の人」


嘲笑を残し、その気配は完全に闇へと溶けて消えた。


ニーナは刀を下ろさず、荒い息を整える。

冷たい汗が背中を伝っていた。

勝ったのではない。気まぐれに見逃されただけだ。

震えそうになる膝を叱咤し、彼女は再び市民へ声を張り上げた。


「行って。振り返らないで」


* * *


虐殺と悲鳴、そして爆発音。

無秩序なノイズだけが支配していたテゼリアの夜に、変化が訪れたのはその直後だった。


ズン。


城の方角から。

空気を震わせる重低音が響いた。


ズン。ズン。ズン。


それは、耳ではなく、心臓を直接叩くような音だった。

逃げ惑う人々が、ニーナが、そして暴れていた屍人たちさえもが、本能的に動きを止める。

戦場の不規則な脈拍が、その巨大な「足音」のリズムへと強制的に書き換えられていく。


炎と黒煙が渦巻く大通りの向こう。

銀色の壁が迫ってきた。


整然と隊列を組んだ、重装騎士の大部隊。

千を超える足音が完全に同期し、一つの巨大な生物のように地を揺らしている。


そして、その隊列の中心。

姿は見えない。だが、そこには確かに「核」があった。


戦場の空気が、質量を持って歪んでいる。

ただ歩くだけで、周囲の喧騒をねじ伏せ、敵の心臓を鷲掴みにするような、圧倒的な「武」のプレッシャー。


「……団長」


誰かが、祈るように呟いた。


テゼルウォート最強の剣。

その重たい気配が、絶望に沈みかけていた街に、反撃の杭を打ち込んだ。


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