第33話 南門、落つ
ドンッ——!
音よりも先に、質量を持った大気が全身を叩く。
胸板を巨人の掌で殴りつけられたような圧迫感。俺の体は石畳から浮き上がり、ニーナとともに路地の壁へと叩きつけられた。
「ぐ、っ……!」
肺から空気が強制的に絞り出される。
視界が揺れ、明滅する。
耳の奥で、キーンという鋭い金属音が鳴り続けて、すべての音を遠ざけていく。
覆いかぶさってくれたニーナの外套の隙間から、熱風が頬を焼いた。
口の中がじゃりつく。石灰の粉と、鉄の味。
(なにが……起きた……?)
霞む視界で、南門の方角を見る。
そこにあったはずの堅牢な石造りの門楼が、内側から膨れ上がっていた。
まるで熟した果実が破裂するように、石と木材が四方へ飛び散る。
俺たちが見つけた「薪」──火薬と黒油の樽が、一斉に牙を剥いたのだ。
ドォォォン……!
二度目の爆発。腹の底に響く重低音。
門のそばにあった倉庫の屋根が吹き飛び、炎の舌が夜空を舐める。
「……ぁ、……あぁ……!」
耳鳴りの向こうから、悲鳴が戻ってくる。
さっきまで笑っていた人々の声が、恐怖の金切り声に変わる。
俺の足元に、砕けた胡桃の飴が散らばっていた。
つい数秒前、ニーナと分け合うはずだった小さな約束。
それが今、逃げ惑う人々の靴底で粉々に踏み砕かれていく。
「……ッ、止まらないで! 走って!」
ニーナの声だ。
痺れる腕を無理やり動かし、俺は身体を起こした。
隣でニーナが既に動いている。彼女は瓦礫を避けるのではなく、舞い落ちる板片を鞘だけで弾き飛ばしていた。
「あっち! 火の手が回る!」
兵士たちの叫び声。
門楼の上に取り残された見張り番たちが、炎に巻かれようとしていた。
「梯子だ! 縄を出せ!」
下から数人の兵が、救助用の縄梯子を投げ上げる。
縄は空中で弧を描き、楼上の手すりに掛かろうとした──その瞬間。
ヒュン。
風の音とも違う、鋭い刃鳴りが、煙を切り裂いた。
空中に伸びた縄が、ふつりと切れた。
命綱を失った梯子が、蛇のように力なく地面へ落ちる。
それだけではない。
逃げ場を失った兵たちが掴まろうとした手すり、避難用の木枠の足場。それらが一瞬で、積み木を崩すように斜めに断ち切られた。
「え……?」
誰かの呆けた声。
崩れ落ちる足場の粉塵の中を、黒い影がすうっと通り抜ける。
重力を感じさせない、不自然な軽さ。
影の肩には、身の丈ほどもある巨大な大鎌が担がれていた。
影は立ち止まらない。
ただ通りすがりに、そこに在る命綱を「刈り取った」だけ。
「おいおい、足場が泣いてるぜ」
煙の向こうで、軽い声が嘲笑う。
大鎌の男──その背中が放つ、人を肉塊としか見ていないような冷たい気配が、俺の背筋を凍らせた。
直後、崩れた足場と共に、数人の兵が炎の中へ落下した。
「──ァアアアッ!!」
絶叫。
助けようと伸ばした手は、熱波に阻まれる。
「上!」
ニーナの鋭い声。
反射的に見上げると、南門近くの民家の屋根に、小柄な影があった。
楽しげに足をぶらつかせている、少年のような影。
「ははっ、きれいだねぇ」
無邪気な、本当に心から楽しんでいるような笑い声。
少年は手にした瓶を、ボール遊びのように軽く放り投げた。
パリン。
瓶が石畳で割れた瞬間、紅蓮の炎が花のように咲いた。
ただの油じゃない。魔火によって燃え広がる、粘り着く炎だ。
逃げ惑う群衆の進路を塞ぐように、赤い壁が立ち上がる。
「こっちも、そっちも。……もっと明るくしようか」
少年は屋根の上を軽やかに飛び跳ねながら、次々と瓶を投下していく。
爆炎が連鎖する。
倉庫街の樽が誘爆し、南区画一帯が、巨大な竈の中に放り込まれたような熱気に包まれる。
風が炎を煽り、火の粉が雪のように舞う。
三尾の狐の旗が燃え落ち、黒い蝶になって空へ舞い上がっていく。
守りたかった日常が。
エドナが灯そうとした火とは違う、破壊の炎が、街を食い荒らしていく。
俺は歯が砕けるほど奥歯を噛み締め、ギルバートの刀の柄を握った。
熱い。鞘越しに伝わる熱か、それとも俺自身の血の熱か。
「──ベリア」
ニーナの手が、俺の肩を掴んだ。
強く、痛いくらいに。
「呑まれないで。……怒りは、あと」
彼女の声は、炎の爆ぜる音よりも静かで、俺の熱を冷ますように響いた。
彼女は南門の方角を見つめ、掌を地面に当てた。
地面から伝わる振動を、指先で読んでいる。
「まだ序の口。……門が落ちるよ」
ニーナの言葉と同時。
爆発に耐えきれなくなった南門の主柱が、悲鳴のような音を立てて折れた。
巨大な石の塊が崩落し、もうもうと土煙が舞い上がる。
ぽっかりと開いた、街の傷口。
「……ここからが本番」
ニーナが鯉口を切り、腰を落とす。
俺も呼吸を整え、熱くなった空気を肺に押し込んだ。
屋根の上の少年が、崩れ落ちる門を見下ろし、クスクスと笑った。
* * *
「——ギャアアアッ!」
「押すな! 子どもがいるんだぞ!」
「どいて! 早く!」
悲鳴と怒号が、熱風の中で渦を巻く。
逃げ惑う人々が将棋倒しになり、その上を更に人が乗り越えようとする。
恐怖の連鎖。このままでは炎に焼かれる前に、パニックで人が人を殺すことになる。
「ベリア、右! 柱が落ちる!」
ニーナの声が矢のように飛んでくる。
視線の先、市場の屋根を支えていた太い木柱が、根本から焼け落ちて傾いていた。
その下には、逃げ遅れた老人と、それを庇う母親の姿。
(間に合え……ッ!)
俺は地面を蹴った。
思考するより先に、血管の中の魔火が跳ねる。
足裏に熱を流し、爆発的な加速で二人の前へ滑り込む。
ズォォォ……!
倒れてくる柱の質量と軌道を、眼球がスローモーションのように捉える。
真正面から受け止めたら潰れる。
俺は柱の側面に鞘を振り、魔火を一瞬だけ噴かせて衝撃を流し込んだ。
「……フッ!」
ドンッ!
軌道が逸れる。
崩れた木材が、老人のわずか半歩横へズレて、轟音と共に地面にめり込んだ。
「走れ! 立ち止まるな!」
俺が叫ぶと、母親が涙目で頷き、老人の手を引いて走り出した。
「こっち! 北小門へ!」
煙の向こうで、ニーナの声が響く。
彼女は通りの壁の前に立ち、掌をかざしていた。
ボッ!
彼女の手から橙色の猛火が噴き出し、石壁を一瞬で焦がす。
描かれたのは、太く、明確な「矢印」。
煙の中でもはっきりと見えるその焦げ跡が、逃げ惑う人々の視線を吸い寄せた。
「この印を辿って! 私の声が聞こえる限り、道はある!」
ニーナの透き通った声が、パニックの雑音を切り裂いていく。
その凛とした立ち姿は、恐怖に支配された人々にとって、唯一の道標に見えたのだろう。
無秩序だった人の流れが、一本の太い川となって北へ向かい始めた。
「ベリア、水!」
「ああ!」
俺は燃え盛る倉庫の脇へ走った。
積み上げられた樽──防火用水の樽だ。
魔火を腕と腰に回す。重さを無視して樽を抱え上げ、炎の勢いが強い路地へと放り投げる。
バシャアッ!
樽が割れ、水が弾ける。
焼け落ちた梁が水蒸気を上げ、炎の壁に一瞬の風穴が開く。
「今だ、通れッ!」
俺の指示に合わせて、逃げ遅れた数人がその隙間を駆け抜ける。
その時。
城の方角から、低く、腹に響く音が届いた。
ブォォォォォ──ッ!
角笛だ。
二回。短く、強く。
見上げれば、城壁の櫓に旗が上がっていた。
白地に紅、そして白。
『総員、戦闘配置』の合図。
トン、トン、トン、トン──。
整然とした小太鼓のリズムが、爆発音の合間を縫って聞こえてくる。
城門が開き、銀色の甲冑の波が動き出すのが見えた。
騎士団だ。ダンクたちが動いた。
(まだだ……まだ、この街は死んでない!)
俺は煤けた顔を拭い、刀の柄を握り直す。
バウウェルの時とは違う。
何も知らず、何も間に合わなかったあの時とは。
俺たちは今、抗っている。
だが──敵は、そんな俺たちの希望を嘲笑うように、次の絶望を注ぎ込んできた。
メリメリメリ……ッ!
南門の瓦礫が、内側から押し広げられる。
炎の向こうから、異様な「音」が近づいてくる。
金属が擦れる音。
規則性のない足音。
そして、含み笑いのような、低い呻き声。
「……来た」
ニーナが壁から手を離し、スッと半身に構える。
崩れ落ちた門の暗がりから、まず黒い影が一つ。
ついで二つ、三つ。
それは瞬く間に、堰を切った濁流のように溢れ出した。
黒いローブ。白い仮面。
手には歪な剣や、血に錆びた斧。
屍人。
「ハハッ……燃えてる、燃えてる」
「いい声だ、もっと鳴かせろ」
先頭の男たちが、瓦礫を踏み台にして高く跳躍する。
獣のような身のこなしで石畳に着地し、ギラつく目で逃げ惑う市民の背中を睨んだ。
屋根の上で、あの少年が足をぶらつかせながら、楽しそうに指を鳴らした。
「さぁ、音楽は鳴った。舞台は燃えた」
少年の視線が、路地に立つ俺とニーナを捉え、三日月のように目を細めた。
「芸術の国よ──踊ろうか」
俺は息を吐き出し、重心を落とす。
日常は終わった。
ここからは、戦場だ。




