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第32話 昼下がりの誓い

 

朝一番、南門のやぐらに乾いた風が吹き抜けた。

騎士団長ダンクは、革の肩当てをきしませながら、眼下の門を見下ろしていた。

 

一見すれば、数日後に控えた『星の儀』に向けた、いつもの警備風景だ。

だが、その内実はまるで違う。

 

「おい、そこの班!」

 

ダンクの鋭い怒声が飛んだ。

 

「油壺を櫓の上に積むなと言ったはずだ! 矢に火を点ける手間などいらん。……下に降ろせ。水桶と砂袋だけを上げろ」

 

「は、はいッ!」

 

慌てて動く兵士たちを見ながら、ダンクはこめかみの汗を拭った。

敵の手口は「火薬」だ。火種になりうるものは極力排除しなければならない。

 

「交替は半刻はんときで回せ。目の慣れは死角を生む。常に新鮮な目で外を見ろ」

 

「了解!」

 

「合図旗は“白、紅、白”。無闇に叫ぶな。……敵は音もなく来ると思え」

 

部下たちの返事は短く、硬い。

彼らもまた、具体的な脅威の内容までは知らされずとも、ただならぬ空気を感じ取っているのだ。

 

一通りの巡視を終えると、ダンクは副官を呼んだ。

 

「現場は任せる。何かあれば即座に狼煙のろしを上げろ」

 

「団長はどちらへ?」

 

「城の様子を見に戻る。陛下へ、配置の完了と現況を報告せねばならん」

 

ダンクは手すりを強く握りしめ、最後にもう一度、南へ続く街道を見据えた。

嵐の前の静けさ。だが、肌を刺すような重圧がそこにある。

 

「……頼んだぞ」

 

「はっ!」

 

副官の敬礼を背に受け、ダンクはきびすを返した。

最前線の指揮を部下に託し、彼は全体の指揮を執るべく、王の待つ城へと馬を走らせた。


* * *

 

昼前。城の奥深く、地図にも載っていない隠し部屋。

 

バルシュム王の対面に、黒衣を纏った一人の男──諜報長が立っていた。

顔の半分を覆うフード。その正体を知る者は、この国に数人しかいない。

 

男は懐から、よれよれの薄い紙片を取り出した。

 

「……“潜り”からです」

 

バルシュムが目を通す。

そこには、震えるような走り書きで、短い暗号が記されていた。

 

『南門、警戒。時機不明 リ』

 

「やはり、南か」

 

バルシュムが呻くように言う。ニーナたちの報告と完全に一致する。

黒衣の男は、紙片を卓上の蝋燭にかざした。炎が紙を舐め、一瞬で灰へと変える。

 

「手を打ちました」

 

男の低い声が響く。

 

「近くに駐留する帝国軍の一隊に、餌を撒きました。『屍人が帝国の機密名簿を、東の王国へ売り渡そうとしている』と」

 

「……嘘の情報を?」

 

「はい。噂は火薬より早く燃え広がる。帝国が動けば、屍人も無視はできません。……多少なりとも、勢いを崩せれば御の字かと」

 

毒をもって毒を制す。綱渡りの策だ。

だが、今のテゼルウォートには、使える手は何でも使うしか道はない。

 

「……すまないな。お前にばかり、汚れ役をさせて」

 

「私の役目です。……それに私はもう、死んだ身ですから」

 

男は自嘲気味に笑い、退室しようと踵を返した。

 

「待て」

 

バルシュムが呼び止める。

 

「……もしもの時は、エドナとエルザを頼む」

 

男の背中が、ぴくりと止まった。

 

「東外壁の蔦の裏に抜け道がある。……お前なら、二人を連れて逃げられるはずだ」

 

王の声は震えていた。それは、友に対する最期の願いだった。

 

黒衣の男の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。

川辺で泥だらけになったエドナの顔。細い手首。笑うと、目元に小さなえくぼができた。やがて彼女は王へ嫁いだ。

男は“表の顔”と“裏の顔”を作り、王に仕えた。城ではない場所から彼女とこの国を支えると決め、言葉で、人を動かすつもりで。

 

(……ずるい男だ、あんたは)

 

男は振り返らず、しかし深く、長く頭を下げた。

言葉はいらなかった。

 

扉が閉まり、部屋には再び、王の孤独な溜息だけが残された。

 

* * *

 

昼下がり。

城の回廊から、中庭を見下ろす二つの影があった。

 

一人は、質素なドレスを纏った王妃エドナ。

もう一人は、剣の柄に手を置いた護衛騎士クラリス。

 

中庭では、エルザ王女が侍女たちと羽根突きをして遊んでいる。その無邪気な笑い声が、回廊まで風に乗って届いていた。

 

「……クラリス」

 

エドナは娘から目を離さずに言った。

 

「あなたに、勅命ちょくめいがあります」

 

「はっ」

 

クラリスが姿勢を正す。

 

「私の身に何があろうと、王妃殿下をお守りします。この命に代えても」

 

「いいえ」

 

エドナの静かな否定に、クラリスが顔を上げる。

王妃はゆっくりと、いつも自分の隣にいる騎士の顔を見た。その瞳は、いつもの穏やかな母親のものではなく、冷徹なまでに覚悟を決めた者の色をしていた。

 

「私ではありません」

 

「……え?」

 

「いざという時、私を守れば、あなたはエルザを守れなくなる」

 

エドナは一歩、クラリスに近づいた。

 

「私のことは捨てなさい。……あの子だけを連れて逃げるのです」

 

「な……ッ!?」

 

クラリスが息を呑む。

 

「そのようなこと、できるはずがありません! 私は王妃殿下の剣です!」

 

「いいえ、あなたはテゼルウォートの剣です」

 

エドナの声には、反論を許さない響きがあった。

 

「私は、この国の母として、バルシュムと共に残ります。……けれど、あの子はこの国の未来です。未来を灰にしてはいけない」

 

「ですが……!」

 

「クラリス」

 

エドナは両手で、若き騎士の手を包み込んだ。

 

「私の盾にならないで。……この国の、未来の盾になりなさい。……お願い」

 

最後の一言だけは、母としての震える懇願だった。

 

クラリスは唇を噛み締め、中庭のエルザと、目の前の主君を交互に見た。

騎士としての忠義と、託された未来の重み。

 

長い葛藤の末、彼女は膝をつき、深く頭を垂れた。

 

「……御意」

 

その声は微かに震えていたが、迷いは消えていた。

エドナは安堵の息を吐き、再び中庭へと視線を戻した。

 

雲が流れ、陽光がかげり始める。

長い昼が、終わろうとしていた。


* * *

 

夕刻が近づくにつれ、南門近くの露店通りは香りで満ちていった。

干し肉、焼き魚、香草をまぶした揚げ菓子。

 

俺とニーナは、祭りの前の浮かれた空気に紛れながら、南門が見える路地裏の木箱に腰掛けていた。

 

「……ニーナ」

 

俺は行き交う人々の足元を見ながら、ふと口にした。

 

「ニーナでも、“怖い相手”っているのか?」

 

彼女は串焼きの焼ける煙を目で追いながら、少しだけ考える素振りを見せた。

 

「いるわよ」

 

「例えば?」

 

「私は六十超イグニス。技術と経験で、大概の相手はどうにかなる。……でも、七十超エテルは別の生き物」

 

ニーナの声のトーンが、すっと低くなる。

 

「空気の重さが違うの。近づく前に、肌が『あ、死ぬな』って理解する感じ。……理屈じゃない、生物としての格が違う」

 

「勝てる?」

 

子供のような質問だと思ったが、聞かずにはいられなかった。

ニーナは俺の方を向き、寂しげに笑って肩をすくめた。

 

「ベリア、約束して」

 

「え?」

 

「もし“化け物”が来たら──戦おうとしないで」

 

彼女は真剣な眼差しで、俺の目を射抜いた。

 

「“勝つ”より、被害を減らすのが大事。……昔ね、一度だけ、刀を持ったまま逃げ回って『負け』を選んだことがあるの。勝てたかもしれないけど、……それが正解だった」

 

「負けを選ぶ……」

 

「うん。生きていれば、それは本当の意味での『負け』じゃない。……死んだら、そこで全部終わりだから」

 

その言葉は、バウウェルで死んでいった仲間たちの顔を、俺の脳裏に呼び起こした。

そうだ。生き残らなきゃ、何も守れないし、何も伝えられない。

 

「分かった。……無茶はしない」

 

「よろしい」

 

ニーナは表情を緩めると、懐から小さな紙包みを取り出した。露店で買ったばかりの、胡桃くるみの飴だ。

 

「じゃあ、今日は『何も起きない』がいちばんの勝ちってことで」

 

彼女は包みを振って、カサカサと音をさせた。

 

「何も起きなかったら、あとで半分こしよ」

 

「ああ。……約束だ」

 

俺たちは軽く指切りをして、歩幅を合わせた。

何でもない約束。けれど今は、それが何よりも重い誓いのように感じられた。

 

* * *

 

空が茜色から群青色へと変わり始めた頃。

街に、時刻を告げる鐘が鳴り響いた。

 

カァン、カァン、と二つ。

 

家路を急ぐ人々。酒場へ繰り出す男たち。

一日の終わりと、夜の始まりが交差する、曖昧な時間。

 

ふと、風が止んだ。

 

賑やかだった市場の音が、まるで水に沈んだように遠のいた気がした。

 

「…………」

 

隣を歩いていたニーナの足が、ピタリと止まる。

 

「ニーナ?」

 

彼女の表情から、さっきまでの柔らかな笑みが消え失せていた。

琥珀色の瞳が極限まで見開かれ、一点──南の空を見据えている。

 

鳥が、一斉に飛び立った。

不自然な羽音。

 

そして、風の底から、あの匂いが押し寄せてきた。

微かな刺激臭ではない。鼻をつく、濃厚な死の匂い。

 

ニーナの手から、紙包みが滑り落ちた。

 

「……来た」

 

乾いた音がして、胡桃の飴が石畳に散らばる。

 

彼女は俺の襟を掴むと、力の限り叫んだ。

 

「伏せてッ!!」

 

──世界が、白く弾けた。


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