第31話 星の降る街
翌朝、窓から差し込む陽光は、残酷なほど明るかった。
俺たちは重い秘密を抱えて目覚めた。
あと数日、あるいは明日にも、この街が炎に包まれるという確信。けれど、窓の外に広がるテゼリアの街は、何も知らずにいつもの朝を迎えていた。
「今日は、どうする」
「普段通りにする」
ニーナは当たり前みたいに言った。
この美しい街の姿を、その目に焼き付けておくために。
* * *
昼下がりのテゼリアは、芸術の国という名に相応しい穏やかさに満ちていた。
大通りのキャンバスに向かう画家の筆先、軒先でレースを編む老婆の指先、パン屋から漂う焦げた小麦の匂い。
すれ違う人々は皆、数日後の『星の儀』の話をしていた。
「王女様、どんなドレスを着るのかしら」
「うちは祭りの日に備えて、酒を三樽仕入れたよ」
その笑顔を見るたびに、俺の胸の奥がちくりと痛む。
この笑顔の足元には、既に黒い油と火薬が眠っている。その導火線に火がつくことを、俺たちだけが知っている。
バルシュム王の言葉が蘇る。
『君たちは逃げなさい』
バウウェルの惨劇が脳裏をよぎる。
焼け落ちた家、転がる仮面、そして動かなくなったダリやアリシアたち。
逃げれば、生き残れるかもしれない。でも、逃げた先で俺は、この街の煙を背中で感じながら、一生自分を呪い続けるのだろうか。
「ベリア」
ニーナの声に、ハッとして顔を上げた。
いつの間にか、俺たちは夕暮れの市場にいた。
* * *
夕刻の市場は、一日の中で最も華やぐ時間だ。
夕食の買い出しに来た人々で溢れ、あちこちで商人の威勢のいい声が飛んでいる。
通りの角では、旅の楽団がリュートと笛を奏でていた。
軽やかで、どこか哀愁を帯びた旋律。
買い物客たちが足を止め、手拍子を打ったり、硬貨を投げたりしている。子供がリズムに合わせて跳ねている。
ニーナはその雑踏の中で、足を止めた。
彼女は何かを探すように、あるいは確かめるように、市場の景色をゆっくりと見渡した。
パンを分け合う親子。値切り交渉をして笑い合う店主と客。音楽に身を委ねる恋人たち。
「……ベリア」
リュートの音色に重なるように、ニーナが静かに口を開いた。
「ん?」
「私ね、復讐とか、正義とか──そういう難しいこと、どうでもいい時があるの」
彼女の視線は、遠くを見ているようで、すぐ近くの温かい営みに注がれていた。
「ただ……私、この国が好き」
飾らない、独り言のような言葉。
「ごはんが美味しくて、街角には音楽が流れてて。頑固な硝子職人がいて、優しいおじさんみたいな王様がいる」
ニーナが俺を振り返った。夕陽を受けて、その瞳が琥珀色に輝いている。
「だから、壊されたくない。……それだけ」
ストン、と胸の奥で何かが落ちる音がした。
理屈じゃなかった。
ただ、この場所が好きだから。この笑顔たちを灰にしたくないから。
シンプルで、何よりも強い理由。
「……ああ」
俺は頷いた。迷いが、霧のように晴れていく。
「俺もだ。……バウウェルでは、何も守れなかった。何もできなかった」
俺は腰の刀に──ギルバートの遺刀に手を触れる。
「でも今は、刀がある。隣にニーナがいる。……俺も、壊させたくない」
ニーナはふわりと笑った。
いつもの悪戯っぽい笑みではなく、花が綻ぶような、柔らかな笑みだった。
「うん。……じゃあ、決まりだね」
* * *
日が落ちると、街は藍色の夜に包まれた。
人通りが絶え、俺たちは静まり返った噴水広場へと足を運んだ。
見上げると、息を呑むような星空が広がっていた。
雲ひとつない夜空に、無数の星が砂金のように散らばっている。
噴水の水面にも星々が映り込み、水音だけがシャラシャラと心地よく響いていた。
俺たちは噴水の縁に腰を下ろした。
石の冷たさが、心地良い。
しばらく無言で星を眺めていたニーナが、ふと口を開いた。
「ねぇベリア」
「ん?」
「もし刀を持ってなかったら、今頃何をしてた?」
唐突な問いだった。
「刀を持ってなかったら……」
俺は自分の掌を見つめる。硬くなった、武骨な手。
記憶を失う前の自分が何をしていたかは分からない。でも、今の俺が刀を置いたら。
「そうだな……。パン屋も悪くないかもな」
ふと、炊き出しの時のスープの匂いを思い出した。
「誰かに美味いものを食わせて、笑ってる顔を見る。……ダリみたいに、スープをよそうのもいい」
「ふふ、似合いそう。ベリア、意外と丁寧だもんね」
ニーナがくすくすと笑う。
「ニーナは?」
「私?」
彼女は星空に手を伸ばし、指の隙間から光を透かして見た。
「私は……花屋かな」
「花屋?」
意外な答えに、俺はまじまじとニーナの顔を見た。
返り血よりも花の香りが似合う彼女を想像してみる。……確かに、絵にはなる。
「似合わないでしょ?」
「……いや、客が言い値で買わないと、花で殴りそうだなと思って」
「ひどい言い草」
ニーナは声を上げて笑った。俺も釣られて笑った。
静かな広場に、二人の笑い声だけが響く。
「……でも、そっか。パン屋か」
笑い終わると、ニーナは静かに息を吐き、水面に映る星を見つめた。
「そんな未来も、あったかもしれないね」
もしも、刀を持っていなければ。
もしも、戦う道を選んでいなければ。
けれど、俺たちの腰には刀がある。
その重みが、現実を繋ぎ止めている。
「でも、刀があるから」
ニーナが言った。
「パン屋や花屋を営む人たちを、守ることができる」
「ああ」
「悪くないよ。今の私たちも」
彼女は立ち上がり、夜風に髪をなびかせた。
その背中は、どこまでも凛として美しかった。
その時だった。
ふわり、と風向きが変わった。
「…………」
ニーナの表情から、笑みが消えた。
俺も立ち上がり、風の匂いを探る。
澄んだ夜気の底。
花の香りでも、パンの匂いでもない。
舌の奥が痺れるような、微かな、本当に微かな刺激臭。
火薬の辛味。
あの枯れ川で嗅いだものと同じ、破壊の予兆。
星空は変わらず美しい。噴水の水音も穏やかだ。
けれど、その平穏の皮一枚下で、導火線に火がついた音が聞こえた気がした。
ニーナが空を見上げる。
「……きれいな夜だね」
彼女は呟き、ゆっくりと刀の鯉口に親指をかけた。
「ベリア」
「ああ」
俺たちは並んで、星空の下に立った。
嵐の前の、最後の静寂。
テゼリアの長い夜が、終わろうとしていた。




