表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/34

第31話 星の降る街

 

翌朝、窓から差し込む陽光は、残酷なほど明るかった。

 

俺たちは重い秘密を抱えて目覚めた。

あと数日、あるいは明日にも、この街が炎に包まれるという確信。けれど、窓の外に広がるテゼリアの街は、何も知らずにいつもの朝を迎えていた。

 

「今日は、どうする」

「普段通りにする」


ニーナは当たり前みたいに言った。

この美しい街の姿を、その目に焼き付けておくために。

 

* * *

 

昼下がりのテゼリアは、芸術の国という名に相応しい穏やかさに満ちていた。

大通りのキャンバスに向かう画家の筆先、軒先でレースを編む老婆の指先、パン屋から漂う焦げた小麦の匂い。

 

すれ違う人々は皆、数日後の『星の儀』の話をしていた。

 

「王女様、どんなドレスを着るのかしら」

「うちは祭りの日に備えて、酒を三樽仕入れたよ」

 

その笑顔を見るたびに、俺の胸の奥がちくりと痛む。

この笑顔の足元には、既に黒い油と火薬が眠っている。その導火線に火がつくことを、俺たちだけが知っている。

 

バルシュム王の言葉が蘇る。

『君たちは逃げなさい』

 

バウウェルの惨劇が脳裏をよぎる。

焼け落ちた家、転がる仮面、そして動かなくなったダリやアリシアたち。

逃げれば、生き残れるかもしれない。でも、逃げた先で俺は、この街の煙を背中で感じながら、一生自分を呪い続けるのだろうか。

 

「ベリア」

 

ニーナの声に、ハッとして顔を上げた。

いつの間にか、俺たちは夕暮れの市場にいた。

 

* * *

 

夕刻の市場は、一日の中で最も華やぐ時間だ。

夕食の買い出しに来た人々で溢れ、あちこちで商人の威勢のいい声が飛んでいる。

 

通りの角では、旅の楽団がリュートと笛を奏でていた。

軽やかで、どこか哀愁を帯びた旋律。

買い物客たちが足を止め、手拍子を打ったり、硬貨を投げたりしている。子供がリズムに合わせて跳ねている。

 

ニーナはその雑踏の中で、足を止めた。

 

彼女は何かを探すように、あるいは確かめるように、市場の景色をゆっくりと見渡した。

パンを分け合う親子。値切り交渉をして笑い合う店主と客。音楽に身を委ねる恋人たち。

 

「……ベリア」

 

リュートの音色に重なるように、ニーナが静かに口を開いた。

 

「ん?」


「私ね、復讐とか、正義とか──そういう難しいこと、どうでもいい時があるの」

 

彼女の視線は、遠くを見ているようで、すぐ近くの温かい営みに注がれていた。

 

「ただ……私、この国が好き」

 

飾らない、独り言のような言葉。

 

「ごはんが美味しくて、街角には音楽が流れてて。頑固な硝子職人がいて、優しいおじさんみたいな王様がいる」

 

ニーナが俺を振り返った。夕陽を受けて、その瞳が琥珀色に輝いている。

 

「だから、壊されたくない。……それだけ」

 

ストン、と胸の奥で何かが落ちる音がした。

理屈じゃなかった。

ただ、この場所が好きだから。この笑顔たちを灰にしたくないから。

 

シンプルで、何よりも強い理由。

 

「……ああ」

 

俺は頷いた。迷いが、霧のように晴れていく。

 

「俺もだ。……バウウェルでは、何も守れなかった。何もできなかった」

 

俺は腰の刀に──ギルバートの遺刀に手を触れる。

 

「でも今は、刀がある。隣にニーナがいる。……俺も、壊させたくない」

 

ニーナはふわりと笑った。

いつもの悪戯っぽい笑みではなく、花が綻ぶような、柔らかな笑みだった。

 

「うん。……じゃあ、決まりだね」

 

* * *

 

日が落ちると、街は藍色の夜に包まれた。

人通りが絶え、俺たちは静まり返った噴水広場へと足を運んだ。

 

見上げると、息を呑むような星空が広がっていた。

雲ひとつない夜空に、無数の星が砂金のように散らばっている。

噴水の水面にも星々が映り込み、水音だけがシャラシャラと心地よく響いていた。

 

俺たちは噴水の縁に腰を下ろした。

石の冷たさが、心地良い。

 

しばらく無言で星を眺めていたニーナが、ふと口を開いた。

 

「ねぇベリア」

 

「ん?」

 

「もし刀を持ってなかったら、今頃何をしてた?」

 

唐突な問いだった。

 

「刀を持ってなかったら……」

 

俺は自分の掌を見つめる。硬くなった、武骨な手。

記憶を失う前の自分が何をしていたかは分からない。でも、今の俺が刀を置いたら。

 

「そうだな……。パン屋も悪くないかもな」

 

ふと、炊き出しの時のスープの匂いを思い出した。

 

「誰かに美味いものを食わせて、笑ってる顔を見る。……ダリみたいに、スープをよそうのもいい」

 

「ふふ、似合いそう。ベリア、意外と丁寧だもんね」

 

ニーナがくすくすと笑う。

 

「ニーナは?」

 

「私?」

 

彼女は星空に手を伸ばし、指の隙間から光を透かして見た。

 

「私は……花屋かな」

 

「花屋?」

 

意外な答えに、俺はまじまじとニーナの顔を見た。

返り血よりも花の香りが似合う彼女を想像してみる。……確かに、絵にはなる。

 

「似合わないでしょ?」

 

「……いや、客が言い値で買わないと、花で殴りそうだなと思って」

 

「ひどい言い草」

 

ニーナは声を上げて笑った。俺も釣られて笑った。

静かな広場に、二人の笑い声だけが響く。

 

「……でも、そっか。パン屋か」

 

笑い終わると、ニーナは静かに息を吐き、水面に映る星を見つめた。

 

「そんな未来も、あったかもしれないね」

 

もしも、刀を持っていなければ。

もしも、戦う道を選んでいなければ。

 

けれど、俺たちの腰には刀がある。

その重みが、現実を繋ぎ止めている。

 

「でも、刀があるから」

 

ニーナが言った。

 

「パン屋や花屋を営む人たちを、守ることができる」

 

「ああ」

 

「悪くないよ。今の私たちも」

 

彼女は立ち上がり、夜風に髪をなびかせた。

その背中は、どこまでも凛として美しかった。

 

その時だった。

 

ふわり、と風向きが変わった。

 

「…………」

 

ニーナの表情から、笑みが消えた。

俺も立ち上がり、風の匂いを探る。

 

澄んだ夜気の底。

花の香りでも、パンの匂いでもない。

舌の奥が痺れるような、微かな、本当に微かな刺激臭。

 

火薬の辛味。

 

あの枯れ川で嗅いだものと同じ、破壊の予兆。

 

星空は変わらず美しい。噴水の水音も穏やかだ。

けれど、その平穏の皮一枚下で、導火線に火がついた音が聞こえた気がした。

 

ニーナが空を見上げる。

 

「……きれいな夜だね」

 

彼女は呟き、ゆっくりと刀の鯉口こいくちに親指をかけた。

 

「ベリア」

 

「ああ」

 

俺たちは並んで、星空の下に立った。

嵐の前の、最後の静寂。

テゼリアの長い夜が、終わろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ