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第30話 迫る夜の足音

 

夕闇が完全に落ちる頃、馬車は城の裏門へと滑り込んだ。

門番の検問をすぐに抜けたのは、荷台に乗っているのが“ただの商家の女将”ではなく、この国の王妃だからだ。

 

石造りの通用口をくぐると、空気は一変した。

街の喧騒は分厚い壁に遮断され、あるのは冷たい静寂と、甲冑が擦れる硬い音だけ。廊下を行き交う兵士たちの顔も、一様に強張っている。

 

エドナの手引きで、俺たちは奥へと進んだ。


重い扉が開く。

通されたのは、きらびやかな謁見の間ではない。窓が少なく、壁に巨大な地図と武具だけが飾られた、石造りの「軍議室」だった。

 

部屋の中央、巨大な戦術卓を囲むようにして、数人の男たちが立っていた。

 

「──陛下、戻りました」

 

エドナが告げると、中央にいたバルシュム国王が顔を上げた。その顔には深い疲労の色が滲んでいたが、俺たちを見ると、わずかに安堵の息を吐いた。

 

「戻ったか。……ベリア、ニーナも。よく来てくれた」

 

部屋にはバルシュムの他に、騎士団長ダンク、そして以前、謁見の場で見かけた数名の重鎮たちがいた。

その中の一人、痩せこけた頬に神経質そうな眼鏡をかけた男が、鋭い声を上げた。

 

「陛下! この非常時に、部外者を軍議に招くとは正気ですか!?」

 

彼は俺たちを指差し、声を震わせた。

 

「情報は水です。漏れれば、敵が来る前にパニックで国が潰れますぞ! どこの馬の骨とも知れぬ冒険者を……!」

 

「ヴァルダー、控えよ」

 

バルシュムが静かに、しかし有無を言わせぬ声で制した。

 

「彼らは部外者ではない。我々と同じ敵を見据え、その尻尾を掴んできた者たちだ。……それに、エドナが連れ帰ったということは、それだけの“土産”があるということだろう」

 

王の言葉に、ヴァルダーと呼ばれた男は不満げに口をつぐみ、バツが悪そうに視線を逸らした。彼もまた、国を想うがゆえの過敏さなのだろう。

 

その時、ダンクの隣に控えていた一人の老騎士が、ゆっくりと歩み出てきた。

白髪を短く刈り込み、背筋は槍のように真っ直ぐ。顔には無数の古傷が刻まれているが、その瞳は少年のように澄んでいる。

 

「あんたか」

 

老騎士はニーナの前に立つと、好々爺のような、それでいて肌が粟立つような鋭い眼光で微笑んだ。

 

「孫娘──クラリスが世話になったな。あの子が『底が見えない相手』なんてぼやくのは、剣を持たせてから初めてだ」

 

ニーナは眉ひとつ動かさず、涼しい顔で老騎士を見返した。

 

「クラリスは良い剣をお持ちでした。……重心が低い。あなたも、守る剣だ」

 

「ただの老骨さ。名はレオナリオ。この国で一番長く、剣を握ってきただけの男よ」

 

レオナリオ。この人は強い。

──それも、経験に裏打ちされた古強者だ。

 

「さて、挨拶はこれまでだ」

 

ダンクが卓上の地図を指で叩き、空気を引き締めた。

 

「状況を共有する。……連中が動き出した」

 

バルシュムが重い口を開く。

 

「先日の劇作家ハロルドの殺害。あれは単なる暗殺ではない。バウウェル領主邸の時と同じ、“見せしめ”だ」

 

バウウェル。その名が出た瞬間、俺の奥歯が自然と噛み締まる。

 

「恐怖を植え付け、混乱させ、その後に本隊で殲滅する。それが奴ら──屍人しびとのやり方だ。……諜報からの報告によれば、テゼリア近郊の森に、奴らの戦力と武器が集結しつつある」

 

「そして、もう一つ」

 

エドナが一歩進み出る。彼女は旅装束の埃を払うこともせず、卓上の地図──王都の南東部分に、赤い駒を置いた。

 

「ニーナさんとベリアさんが、見つけてくれました。南東の枯れ川沿い……ここです」

 

俺は一歩前へ出て、皆に向けて告げた。

 

「黒油と、火薬の痕跡がありました。樽の数から見て、相当な量です」

 

部屋にどよめきが走った。

 

「火薬だと……?」

 

「搬入は終わっていました。……いつでも火を点けられる状態です」

 

「……早すぎる。我々はまだ、一月ひとつきは猶予があると見ていたが……」


円卓の端にいた重鎮の一人が、苦渋の声を漏らした。

その言葉は、この場の全員の動揺を代弁していた。まさか、これほど早く“準備”が整っているとは想定していなかったのだ。


ニーナが冷徹に補足する。

 

「南門は、有事の際の主要な避難経路です。そこを塞ぎ、袋小路にして焼き殺すつもりでしょう。……脅しや制圧じゃない。奴らの目的は、この都の“殲滅”です」

 

ガタン、と音がした。

ヴァルダーが青ざめた顔で、椅子に手をついていた。

 

「殲滅……? 奴らは、この美しい都を、地図から消す気か……!」

 

重苦しい沈黙が落ちた。

誰もが言葉を失う中、ニーナの静かな声だけが響いた。

 

「なぜです?」

 

彼女はバルシュムを真っ直ぐに見据えていた。

 

「一国を滅ぼすには、それなりの理由がいります。領土拡大でも、資源の収奪でもない。……ただ“消す”ためだけに、これほどの戦力を動かす。奴らは何を恐れて、テゼルウォートを狙うのです?」

 

その問いは、この場にいる全員の喉元に突きつけられた刃のようだった。

ダンクが苦渋の表情で床を見る。エドナが静かに目を閉じる。

 

しばらくの沈黙の後、バルシュムが口を開いた。

 

「……我々は、知ってしまったのだ」

 

王の声は、枯れていた。

 

「奴らの根幹に関わる、大陸がひっくり返るような“秘密”を」

 

「秘密?」

 

俺が問い返すと、バルシュムは悲しげに笑い、首を横に振った。

 

「……言えない」

 

「なぜですか。知れば──」

 

「知れば、君たちも“標的”のど真ん中になる」

 

バルシュムは強い言葉で俺を遮った。

 

「これは、知った者だけが背負う呪いだ。エドナも、ダンクも、私も、もう逃れられない。……だが、君たちを巻き込むわけにはいかない」

 

王は卓上の拳を握りしめた。

 

「これは、王家だけが飲み込むべき毒だ。……どうか、それ以上は聞かないでくれ」

 

その言葉には、王としての威厳よりも、一人の男の懇願が混じっていた。

俺は言葉を失った。この人は、自分たちの命運が尽きかけている今でさえ、俺たちの未来を守ろうとしている。

 

ニーナが小さく息を吐き、視線を地図に戻した。

 

「……分かりました。理由は問いません。今は、どう守るかです」

 

彼女は切り替えた。

情ではなく、戦士としての顔で。

 

「こちらの戦力は?」

 

その問いに、ダンクが顔を上げ、重い口を開いた。

 

「……我が軍の最高戦力は私だ。魔火指数は66」

 

ダンクが沈痛な面持ちで続ける。

 

「次いで、レオナリオ卿が同等の六十超イグニス。……それ以外となると、五十超ヴォルカンが七名。四十超フラムが十数名。残る王都の兵は五千ほどだが、その殆どは三十超アーデントかそれ以下だ」

 

小国にしては、決して弱くはない。六十超イグニスが二人いるだけでも、通常の国境紛争なら十分に抑止力になる。

だが、相手は国ではない。歴史の影で、大国すら滅ぼしてきた怪物たちだ。

 

ニーナが地図の上で指を滑らせ、敵の予想進路をなぞりながら、冷徹に告げた。

 

「……無理ですね」

 

言葉を選ばない、事実だけの宣告。

 

「敵の“幹部”は、一人で一個師団に匹敵します。……彼らが同時に攻めてくれば、前線は紙のように破れます。ダンクさんとレオナリオさんが抑えても、数の差で押し切られる」

 

「そ、そんな……!」

 

ヴァルダーが悲鳴のような声を上げた。

 

「だ、だが、手はあるはずだ! 冒険者ギルドの支部長が、聖女教会へ援軍要請に発った! 教会が動けば、“四聖”が来れば、勝機はある!」

 

その言葉に、部屋中の空気が一瞬だけ浮き立った。聖女教会。大陸最強の正義。彼らが来れば──。

 

だが、老騎士レオナリオが静かに首を横に振ったことで、その希望はシャボン玉のように弾けた。

 

「……間に合わんよ」

 

レオナリオは寂しげに笑った。

 

「アントリーゼルの聖都サンクレアまでは、魔馬まばを乗り継いでも往復で三月みつき。“四聖”が動くとなれば、さらに手続きに時間がかかる。……奴らが待ってくれるとは思えん」

 

三月。

火薬の準備は終わっているのだ。明日、あるいは明後日にでも火が放たれる状況で、三月も先の援軍など、墓標に花を供えに来るようなものだ。

 

ヴァルダーが崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。

 

「では、どうすれば……座して死を待てと言うのか……」

 

「……門を、固めるしかない」

 

ダンクが呻くように言った。

 

「南門と東門。敵の侵入経路になりうる場所の警備を最大化する。市民の避難は北小門から。……避難させる時間だけでも稼ぐ。それしかない」

 

攻めるのではなく、ただ滅びの時間を遅らせるだけの策。

それが、テゼルウォートが出せる精一杯の答えだった。

 

「……それでいこう」

 

バルシュムが顔を上げ、臣下たちを見渡した。その目には、覚悟の光が宿っていた。

 

「皆、すまない。貧乏くじを引かせたな」

 

「陛下……!」

 

「だが、我々はテゼルウォートの民を守る盾だ。……最後まで、矜持を持とう」

 

王の言葉に、臣下たちが音を立ててきびすを揃え、敬礼した。

悲壮な決意が、部屋を満たしていた。

 

* * *

 

重苦しい会議が終わり、俺とニーナは部屋を後にした。

 

長い廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。

 

「ベリア、ニーナ」

 

バルシュム王だった。護衛もつけず、一人で歩いてきたようだ。

 

「陛下……」

 

「今日は、辛い役目をさせてすまなかった。礼を言う」

 

バルシュムは俺たちの前で立ち止まると、穏やかな、まるで親戚の叔父のような顔で微笑んだ。

 

「単刀直入に言おう。……もし戦いが始まったら、君たちは逃げなさい」

 

「え……?」

 

「これは、我々王家の因果だ。知ってしまった責任であり、過去からの清算だ。……だが、君たちは違う」

 

彼は俺の肩に、温かい手を置いた。

 

「君たちには、君たちの旅があるはずだ。未来がある若者に、我々の毒を分け与えるわけにはいかない」

 

「でも、俺たちは……!」

 

「ベリア」

 

王は静かに首を振った。

 

「バウウェルの件は聞いた。君はもう十分に傷つき、それでも立ち上がった。……これ以上、君の剣を復讐や死守のために使わせたくないのだ」

 

そして、ニーナに向き直る。

 

「ニーナよ。……どうか、彼を連れて行ってやってくれ。この国が炎に包まれる前に」

 

それは、王としての命令ではなく、一人の大人としての、最後の願いだった。

ニーナは肯定も否定もせず、ただ静かに、透き通った瞳で王を見つめ返した。

 

「……お心遣い、痛み入ります」

 

短く頭を下げた彼女に、バルシュムは満足そうに頷き、背を向けた。

 

「良い旅を。……君たちに出会えてよかった」

 

王の背中が、回廊の闇に消えていく。

その背中は、あまりにも小さく、そして孤独に見えた。

 

* * *

 

城を出ると、冷たい夜風が吹き抜けた。

空には星ひとつない。分厚い雲が、街の灯りを押し潰すように垂れ込めている。

 

俺たちは無言のまま、坂道を下った。

靴音が、乾いた音を立てる。

 

「……ニーナ」

 

俺は堪えきれずに口を開いた。

 

「逃げるのか?」

 

勝てない戦い。王の願い。逃げる理由はいくらでもある。

ニーナの目的は、復讐だと言っていた。ここで死ぬわけにはいかない。

 

ニーナは足を止めず、夜空を見上げたまま、ぽつりと答えた。

 

「……どうだろうね」

 

その横顔からは、感情が読み取れなかった。

ただ、彼女の指先が、無意識に刀の柄を撫でているのが見えた。

 

街はまだ、何も知らずに眠っている。

迫り来る夜の足音は、もうすぐそこまで来ていた。


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