第3話 雨の森
——一月前
雨の森を、俺は走っていた。
行き先はない。ただ、背後にある“何か”から距離を取りたくて、泥を蹴る。
裂けたローブが背中に張りつき、冷たい雨と生温かい血が混じって重い。
肺が焼けるように痛い。
けれど、それ以上に頭の中がおかしかった。
脳みそを直接手で掻き回されたような、粘着質な恐怖がこびりついている。誰かに覗かれた。誰かに壊されかけた。
その記憶だけが、焼印みたいに熱を持って疼いている。
(……思い出せない)
名前も、過去も、なぜ追われているのかも。
思考しようとすると、頭の奥で警鐘が鳴り、強烈な吐き気が込み上げる。
俺は嘔吐きながら、それでも足を前へ運んだ。
どれくらい走っただろうか。
息が切れ、岩陰に身を滑り込ませる。
雨音だけが鼓膜を叩く。追っ手の気配はない。
顔を上げ、森の闇を睨む。
……。
月明かりすらない夜の森だ。なのに、俺の目には数十歩先の木の皮の裂け目や、落ちる雨粒の輪郭までが、異常なほど鮮明に見えていた。
夜目が利く、というレベルではない。視界が鋭すぎて、脳が情報を処理しきれずにきしむ。
(俺は……何者だ?)
自分の身体が、自分のものではないような違和感。
寒気が背筋を撫でた。
ここにいてはいけない。本能がそう告げていた。
俺は震える膝を叱咤し、再び歩き出した。
* * *
泥濘を数刻ほど歩いた頃だった。
前方の闇が、不自然に揺れた。
足裏に伝わる振動。風に乗って漂う、腐った肉のような臭気。
俺の足がピタリと止まる。
枝葉が押しのけられ、青黒い毛並みの獣が現れた。
狼に似ているが、骨格が歪だ。肩の筋肉が異様に盛り上がり、眼球は濁った黄色に発光している。
喉の奥で低く唸りながら、ゆっくりとこちらへ距離を詰めてくる。
(……殺される)
脳が恐怖で縮み上がった。
逃げろ、と理性が叫ぶ。
だが、俺の身体は奇妙な反応を示した。
震えが止まった。
乱れていた呼吸が、氷水を浴びたように静まり返る。
右手は思考するよりも早く、腰の短刀の柄を掴んでいた。
二十歩。十五歩。
獣が腰を沈め、筋肉が収縮する音が聞こえた。
飛んだ。
地面を抉る音と共に、黒い塊が視界を埋め尽くす。
死ぬ──そう思う暇もなかった。
身体の芯を熱い奔流──魔火が駆け巡る。
まるで、見えない血液のように。
その熱を、腕を通して指先へ、指先から刃へと流し込む。
不可視のエネルギーが刃に流れ、鉄の硬度と切れ味を極限まで研ぎ澄ます。
俺は半歩、右へ踏み込んだ。
獣の牙が左肩の空気を裂く。
すれ違いざま、身体が勝手に最短の軌道を描いた。
ザンッ。
硬い肉を断つ手応え。
獣の首が音もなく胴体から離れ、虚空を舞った。
血飛沫が雨に混じる。
俺はそのまま泥の上を滑り、距離を取って振り返った。
首を失った獣の巨体が、勢いのまま泥の上を滑り──ビクリ、と痙攣した。
泥を掻く爪の音。
過敏になった神経が、それを『まだ生きてる』と錯覚させた。
(──来るな!)
拒絶。
恐怖に突き動かされ、俺は反射的に短刀を横に振るった。
間合いは十歩以上。刃が届く距離ではない。
ヒュッ。
空気が裂ける、高い音がした。
短刀の切っ先から、衝撃が飛んだのが分かった。
直後、転がっていた獣の胴体が、中ほどからズレた。
背後にあった若木が、音を立てて両断され、どうと倒れる。
「……」
静寂。
俺は呆然と、自分の手を見た。
雨に濡れた短刀。ただの鉄の塊だ。
だが、今の感覚は何だ。振るった刃の軌道が、そのまま遠くの空間を切り裂いていた。
(俺は、これを“知っている”のか?)
魔獣を殺す手順。力を刃に乗せて飛ばす技術。
記憶を失う前の俺は、一体何だったんだ。
安堵よりも先に、得体の知れない自分自身への恐怖が込み上げた。
* * *
それから、さらに歩いた。
緊張の糸が緩むと、全身の痛みが倍になって戻ってきた。
足の感覚はなく、泥の上を這っているのか歩いているのかも曖昧だ。
森の木々が疎らになり、不意に視界が開けた。
「……あ……」
奥に、灯りが見えた。
雨に煙る、小さな街の明かり。
窓から漏れる暖色の光が、水たまりに反射して揺れている。
人の営みがある。
そう認識した瞬間、張り詰めていた何かがプツリと切れた。
視界が急速に狭まる。
地面が顔に向かって迫ってきた。
泥の冷たさを感じるよりも早く、俺の意識は深い闇の底へと落ちていった。




