第29話 南東の道、白い礼拝堂
朝霧がまだ石畳を濡らしている時刻、俺たちは東門の前にいた。
一台の幌馬車。御者台には俺が座り、荷台には“商家の女将”に扮したエドナと、護衛役のニーナ。
そして馬車の横には、旅装束に身を包んだクラリスが騎乗している。
「あら、おはよう。ご苦労様」
検問の衛兵が顔を出すと、荷台の幌からエドナが顔を出し、愛想よく声をかけた。
「おや、エリナさん。今日はどちらへ?」
「南東の修道院へ薬を届けにね。ほら、季節の変わり目だから。……中、見る?」
「いえいえ、エリナさんの荷なら間違いありませんよ。お気をつけて」
衛兵は笑顔で手を振り、通行許可の鐘を鳴らした。
重々しい門扉が開く。
エドナの完璧な“女将”としての振る舞いに、隣のニーナが感心したのが気配で分かった。
「はいよ」
俺は手綱を軽く振る。
馬車が軋み、ゆっくりと動き出した。先日、硝子を運んだ時に覚えた感覚だ。急がせず、馬の呼吸に合わせて車輪を転がす。
外壁を背にすると、景色はすぐに森と街道へ変わった。
* * *
王都から離れるにつれ、霧が晴れ、木漏れ日が街道に落ち始めた。
平和な道行きだ。だが、俺たちの空気は緩んでいない。
ニーナは荷台の後方で足を組み、流れる景色を見ているようでいて、その実、森の奥の鳥の羽音まで拾っている。
騎乗するクラリスも、定期的に視線を巡らせ、死角を潰しながら進んでいる。
言葉を交わさなくても、互いの守備範囲が阿吽の呼吸で噛み合っている。
昨日の今日だが、二人の間には、既に熟練した相棒のような空気があった。
街道が平坦な直線に入った頃、クラリスが馬を寄せてきた。
「ベリア、少し交代しましょう。馬の機嫌を取りたいの」
彼女は馬を馬車の横に繋ぐと、ひらりと御者台に飛び乗ってきた。
慣れた手つきで手綱を受け取る。
「……悪いな」
「いいえ。御者も護衛の仕事だから」
クラリスは前を見据えたまま、少しの間を置いて口を開いた。
「ベリア、昨日の手合わせのこと聞いてもいい?」
声のトーンが少し落ちる。
「あなたの“師匠”がどこまで強いか、気になってる」
「師匠、ね……」
俺はちらりと、背後の荷台──幌の隙間から外を見ているニーナの気配を感じた。
「クラリス、ニーナは──」
「師匠に聞こえてるわよ」
背後の幌の中から、ニーナのくすくす笑う声がした。
クラリスは苦笑し、居住まいを正す。
「じゃ、率直に。私では、あなたの“底”が見えなかった」
クラリスの言葉に、悔しさの色はない。あるのは純粋な探究心と、敬意だ。
五十超である彼女が見えない底。
俺はふと、昨日から胸にあった疑問を口にした。
「……ダンク団長にも勝てる?」
口に出してから、少しだけ胸がざわついた。
ダンクはこの国の最強の騎士だ。比べたいわけじゃない。ただ、知りたかった。俺の隣にいるこの人が、どれほどの高みにいるのかを。
ニーナは荷台の中で姿勢を崩さず、外の景色を眺めたまま答えた。
「うーん。どうだろう」
ほんの少し、考える間。
森の風が、木の葉を揺らす音だけが響く。
「剣は“仕事”だから。団長の剣は守りに最適。私のは、通すのが仕事。……庭で遊べば私が速い。城を守るなら、彼が強い」
「つまり、五分?」
「そんなところ」
クラリスはそれを聞いて、深く頷いた。
「……なるほど。守る剣と、通す剣か」
納得の顔だった。
軽い会話で終わったのに、俺の胸のざわめきは不思議と落ち着いた。
(比べる話を、比べない言葉に変える。──らしいな)
勝ち負けじゃない。それぞれの“役割”が違うだけだと、彼女は言ったのだ。
* * *
太陽が頭上に昇る頃、森が開けた。
古い石造りの礼拝堂が、ひっそりと佇んでいた。
「到着ですね」
エドナが荷台から降りる。
出迎えたのは、年老いたシスターだった。エドナの姿を見ると、深々と腰を折る。
「お待ちしておりました。……裏の倉庫へ」
俺たちは荷を運び込んだ。木箱の中身は、包帯や傷薬、そして日持ちのする乾パンだ。
表向きは支援物資。だが、その量はこの小さな礼拝堂で消費する量を超えている。
「地下の備蓄庫へ」
エドナの指示で、俺たちは暗い階段を降り、荷を納めた。
作業が終わると、エドナは礼拝堂の裏手へ回った。
森へ続く、細い獣道がある。
「……ここなら、馬車を使わずに森へ抜けられますね」
彼女は靴底で土を踏みしめ、落ち葉の積もり具合や、枝の密度を確かめている。
王妃の顔ではない。
どうやって逃がすか。その一点だけを見つめる、母親の目だった。
「……行きましょう」
エドナは視線を戻すと、礼拝堂の祭壇へと向かった。
ステンドグラスから差し込む光が、彼女の地味な亜麻色の服を七色に染める。
彼女は跪き、両手を組んだ。
長い祈りではなかった。
ただ、その背中には、祈りの中身が透けて見える気がした。
この道を使う日が来ないことを願いながら、使う日のために祈っている──そんな、矛盾した背中だった。
静寂の中、ニーナとクラリスは入り口の両脇で、彫像のように静かにその背中を守っていた。
俺もまた、自分の胸に手を当て、静かに目を閉じた。
* * *
帰路。
太陽が西に傾き始め、森の影が長く伸びていた。
「ベリア、次の分かれ道、左へ」
荷台のニーナが声をかけた。
「左? 街道を外れるぞ」
「うん。枯れ川沿いの古道を通ってみたい。あそこは南門への死角になりやすいから、見ておきたいの」
「了解」
俺は手綱を引き、馬車を脇道へと逸れさせた。
轍の少ない、草の生い茂る道だ。馬車の揺れが大きくなる。
クラリスが馬を寄せ、無言で周囲への警戒レベルを上げたのが分かった。
しばらく進むと、枯れた川床が見えてきた。
乾いた石が転がり、両岸には背の高い葦が壁を作っている。
「……止めて」
ニーナの鋭い声。
俺は反射的に手綱を引いた。馬がいななき、車輪が土を削って止まる。
「どうした?」
「匂う」
ニーナが荷台から飛び降りた。
彼女は川床のそば、鬱蒼とした茂みの方へと歩き出す。俺も手綱をクラリスに預け、後に続いた。
茂みの中には、不自然に折れた枝と、踏み固められた土の跡があった。
誰かが、重いものを運び込んだ跡だ。
「……これ」
ニーナが地面の土を指先で掬い、俺に嗅がせた。
ツンとした刺激臭。
「油か?」
「うん。それも、ただの油じゃない。燃焼材を混ぜた黒油。……火が点けば、水じゃ消えない」
さらに奥へ進むと、枯れ草の下に隠すように、空の木樽がいくつか転がっていた。中身は既に撒かれた後か、あるいは別の場所へ移されたのか。
そして、風の底に微かに混じる、焦げ臭いような、乾いた匂い。
「硫黄……いや、火薬か」
俺の呟きに、ニーナが無表情で頷く。
「搬入は終わってるね。いつでも南門一帯を焼き払える量が、既に運び込まれてる」
背筋が凍った。
ただの予感じゃない。敵はもう、ここにいたのだ。
俺たちが「日常」を過ごしている足元で、彼らは着々と「薪」を積み上げていた。
「……戻ろう」
ニーナが立ち上がる。その瞳は、冷徹な戦士の色をしていた。
* * *
馬車に戻り、エドナに事実を告げた。
大量の油と、火薬の痕跡。
動揺するかと思った。けれど、彼女は膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめ、一度だけ深く息を吐いただけだった。
「……そうですか」
彼女は顔を上げ、気丈に微笑んだ。
「見つけてくれて、ありがとう。……これで、闇の在り処がひとつ分かりました。灯を守るための、大事な情報です」
俺は何も言えなかった。
クラリスが痛ましげに眉を寄せ、無言で剣の柄を握りしめた。
馬車は再び動き出す。
車輪の音が、行きよりも重く響いた。
しばらくして、南門が見えてきた。
夕暮れの王都は、仕事帰りの人々や、酒場へ急ぐ男たちで賑わっている。
笑い声。鐘の音。スープの匂い。
けれど、今の俺には、その全てが違って見えた。
門のそばに並ぶ木造の倉庫群。積み上げられた荷箱。
それら全てが、よく乾燥した「薪」に見える。
ひとたび火が点けば、この賑わいは一瞬で紅蓮に変わる。
門をくぐったところで、エドナが口を開いた。
「ニーナさん、ベリアさん。……無理を承知で、もう一つお願いがあります」
彼女の目は、南門の賑わいを、悲痛なほど強く見つめていた。
「このまま城へ、来ていただけませんか。……陛下とダンクに、あなた方の口から、今見たものを伝えてほしいのです」
ただの報告ではない。
これは、「戦」への招待状だ。
城へ行けば、俺たちはテゼルウォートの命運に関わることになる。
ニーナが俺を見た。
「ベリア」
確認するような、短い呼びかけ。
俺は胸の上から、鼓動を確かめた。胸ポケットの重みが掌に伝わる。
バウウェルで消えた火。ここでまた、誰かの灯が消えるのを黙って見過ごすのか?
「行こう。……放っておけない」
ニーナはふっと口元を緩め、エドナに向き直った。
「見過ごすような真似はしませんよ。乗りかかった船です」
「……ありがとう」
エドナが深く頭を下げる。
馬車は街中へは止まらず、そのまま石畳の大通りを北へ──城へと向かった。
空が、急速に群青色へ沈んでいく。
長い夜になりそうな予感がした。




