第28話 守る者たち
翌日、城への呼び出しを受けた俺たちは、朝の南西区を歩いていた。
広場を通ると、今日も炊き出しの準備をしている一団が見えた。
「豆の在庫が二袋足りないわ。次の発注は北の問屋へ。薪は乾燥が甘いから、一度広げて」
商家の女将──エリナが、帳簿を片手に的確な指示を飛ばしている。
隣ではクラリスが、大人の男でも重いはずの薪の束を、軽々と荷車へ積んでいた。
俺たちが通りかかると、エリナがふと顔を上げ、朝露のような涼しい笑みを向けた。
「おはよう。……これから城へ?」
「ええ。ちょっと呼び出しで」
「そう。お役目、ご苦労様です。あそこの坂は長くて骨が折れるでしょう」
彼女は労いの言葉をかけつつも、手元の筆を止めない。
まだ朝だというのに、その額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「精が出ますね」
ニーナが声をかけると、彼女は悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
「ええ。腹が減ってはなんとやら、ですから。兵站が崩れれば、暮らしは立ち行きませんもの」
その言葉には、ただの慈善家とは違う、実務家としての強さがあった。
俺たちは軽く会釈をし、城を目指して北へと向かった。
* * *
城へ向かう緩やかな坂は長い。
上り切る手前で振り返ると、テゼリアの街が丸く息をしていた。乾いたパンと煮込みの匂い、鐘の音がひとつ。
石畳の目地に露が残り、鉄飾りのある門の脇では荷馬車が列を作っている。
テゼリア城の正門は見上げるほど高く、検問や身分照会にも相応の時間がかかった。
石造りの回廊を通り、控え室で待機を命じられた後、ようやく謁見室へと通される。
灰狼を討伐した後に、フィオネとソロモンと共に呼ばれた部屋だ。
扉が開くと、そこには地図を広げたバルシュム国王と、重鎧の騎士団長ダンクが待っていた。
「待たせてすまない。よく来てくれた、ベリア。……そしてそちらが、噂のニーナ殿か」
バルシュムが顔を上げ、親しい友人を迎えるような顔をした。
「灰狼の件以来だな。息災そうで何よりだ」
「陛下もお変わりなく」
俺が答えると、ニーナが一歩進み出て、流麗な所作で礼をとった。
「お初にお目にかかります、陛下。ニーナと申します」
「うむ。楽にしてくれ。……南の畑での働き、見事だった。地泳牙蛇の被害は広がりかけていたが、君たちのおかげで守られた。……今年の風は、早いうちから冷たい。これで民も、無事に冬を越せるだろう」
「氷乱槍との連携です。俺たちだけじゃ骨が折れました」
俺が謙遜すると、ダンクが豪快に笑った。
「あの蛇は地中からの奇襲が厄介だ。それを無傷で抑え込むとはな。……腰の刀、馴染んできたようだな」
ダンクの視線が、俺の腰にある刀に向けられる。
ギルバートの遺刀。俺がこれを受け取った時、背中を押してくれたのは彼だった。
まだ名はないが、手の一部のように馴染んでいる。
「ええ。ようやく、重さを感じなくなってきました」
「いい顔になった。ギルバートも草葉の陰で鼻を鳴らしているだろうよ」
部屋の空気は温かい。
バルシュムが地図を巻き、真剣な眼差しを向けてきた。
「礼を言いたかったのは勿論だが、呼んだ理由はそれだけではない。……我々は君たちの実力と、在り方を高く買っている。願わくば、今後も手を取り合えないかと思ってな」
王の言葉に、ニーナが静かに頷く。
「この街の空気は、肌に合います。私たちにできることなら」
その時──扉が三度、静かに叩かれた。
「入れ」
バルシュムが声をかけると、扉が開き、二人の女性が入室してきた。
一人は、洗練された白のドレスに、緋色の帯を巻いた女性。
もう一人は、装飾の少ない実戦的な近衛の鎧を纏った黒髪の剣士。
俺は呆気にとられ、言葉を失った。
服装こそ違うが、その立ち姿、歩き方、そして瞳の光。
数刻前、南の広場で会ったばかりの二人だった。
ニーナがわずかに笑う。最初から気づいていた、という顔で。
「エリナ……いえ、王妃陛下」
ニーナが静かに会釈する。俺も慌てて膝を折った。
「……紹介しよう。王妃のエドナ・テゼルウォートだ」
バルシュムが苦笑交じりに言う。
エリナ──いや、エドナは、悪戯が見つかった少女のように少しだけ舌を出してから、優雅に一礼した。
「驚かせてごめんなさい。……街では“エリナ”のほうが通りが良いものですから」
「ニーナ、気づいてたのか?」
「所作がきれいすぎたもの。それに、あの“言葉”」
ニーナの指摘に、エドナは真剣な眼差しを向けた。
「街は、ここより早く色を変えます。路地の匂いは、書類には残りませんから。自分の靴で踏んでおきたくて……」
彼女は胸に手を当て、あの時と同じ目で言葉を紡いだ。
「この国の灯を消さないように。……それは、王妃としての誓いです」
心臓がトクンと鳴る。
炊き出しの湯気越しに聞いた言葉が、今は王妃の誓いとして、重く響いた。
* * *
「早速で申し訳ないのですが、あなた方に頼みたいことがあるのです」
エドナが一歩進み出る。
「明朝、東の修道院への物資搬送をお願いしたいのです。……表向きは薬の支援ですが、同時にルートの安全を確認したい。万が一の時に備えて」
「万が一?」
俺が問い返すと、彼女は言葉を選びながら続けた。
「何が起きるか分からない世の中です。いざという時の……動線を、確保しておきたいのです」
ニーナの目が、すっと細められた。
ただの物資搬送ではない。何かを逃がすための下準備だと察した顔だ。けれど彼女は何も言わず、ただ耳を傾けている。
「命を預ける道です。……無礼を承知で、一つお願いがあります」
エドナは背後のクラリスを振り返り、それからニーナを見た。
「ニーナさん。私の護衛、クラリスと立ち合っていただけませんか? 言葉よりも、剣で確かめたいのです。あなた方の“守る力”を」
ニーナは俺の顔を見た。
俺は黙って頷く。これはニーナへの指名だ。
「いいですよ。場所を変えましょう」
* * *
城の中庭。訓練用の白砂が敷かれた一角。
クラリスは長剣を抜き、中段に構える。
彼女の周囲の空気が、陽炎のように歪んだ気がした。
体内の魔火が高密度で練り上げられている。
「手加減はしない。……王妃様の盾になる者が、半端では困る」
クラリスの声は低い。
ダンクが俺の横で腕を組み、小声で囁く。
「クラリスは『五十超』。テゼルウォートでも指折りの使い手だ。速さと重さ、両方を持っている」
対するニーナは、刀を抜いていなかった。
左手で鞘を軽く持ち、自然体で立っている。隙だらけに見えて、どこにも踏み込めない。
俺が微かな不安を感じる中、砂の中央で、二人が向かい合う。
空気が沈む。
鳥の声が途切れ、風の音だけが残る。
「始め!」
ダンクの合図と同時、砂が爆ぜた。
クラリスが消える。
魔火による身体強化。『五十超』の踏み込みは、音を置き去りにした。
「──ッ!」
右上方からの袈裟懸け。
風切り音より早く、刃がニーナの首筋に迫る。
ニーナは動かない。
いや、動いたのは“鞘”だけだった。
カィン。
硬質な音が一つ。
ニーナは鞘の鯉口付近で、クラリスの剛剣を受け止めていた。
衝撃で、ニーナの足元の砂が円形に窪む。
(重い……!)
見ていた俺の肌が粟立つ。受け止められたとはいえ、クラリスの剣圧は生半可じゃない。
彼女は止まらない。
弾かれた反動を利用し、回転して横薙ぎ、突き、払い。
すべてが必殺の威力と速度。
だが、ニーナはその全てに対応していた。
鞘で弾き、体捌きで躱し、時には鞘で剣の腹を滑らせて軌道を逸らす。
「くっ……!」
攻めあぐねたクラリスが、魔火を限界まで練り上げ、大きく踏み込んだ。
大上段からの一撃。速度も威力も、これまでで最大。
それを放てば隙ができることは、彼女自身も分かっているはずだ。それでも、力で押し切る選択をした。
ニーナの目が、すっと細められた。
彼女の魔火が、一瞬だけ鋭く跳ねる。
──静寂。
音が消えた。
次の瞬間、ニーナの軸足が半歩、内へ入った。
たったそれだけの動きで、クラリスの剛剣が振り下ろされる軌道の“内側”に、体ごと滑り込んでいた。
同時に、鞘から刀が抜かれている。
──クラリスの剣の鍔元を、ニーナの刀の切っ先が押さえていた。
勢いを殺し、同時に刃の向きを反転させれば、クラリスの喉元を掻き切れる体勢。
完全に、制圧されていた。
「そこまで」
ダンクの低い声が響き、ニーナが刀を納める。
カチャリ、と鍔鳴りの音がして、世界に音が戻った。
クラリスはその場に膝をつき、荒い息を吐いた。
「……完敗だ。見えていたのに、体が……追いつかなかった」
ダンクが「……なるほど」と低く言い、バルシュムは目を細めた。
エドナは胸に手を当て、短く息を吐いてから言葉を置く。
「命を奪わず、場を制す。──ありがとうございます。お願いしてよかった」
ニーナはクラリスに手を差し伸べ、引き起こした。
「いい剣だったよ。重くて、迷いがない。……荷運びが上手いわけだ」
* * *
訓練場の隅、麻布で剣を拭きながら、エドナが本題の詳細を詰める。
「明朝、東門からお願いします。……私も平装で、“エリナ”として同行します。護衛はクラリス」
「危険ですよ」
俺が言うと、エドナは静かに首を横に振った。
「……自分の目で、道を確認しなければなりませんから」
ニーナは短く考え、俺を見た。
「行こう。うちの二人で足りる?」
「足ります」
クラリスが即答する。
「今日で、分かりました」
エドナが深く頭を下げた。
「ありがとうございます。まずは明日、ひとつ灯りを運びましょう」
* * *
帰り際、回廊を歩いていると、向こうから侍女を連れた少女がやってきた。
白いドレスに、亜麻色の髪。
エルザ王女だ。
先日、大劇場の倉庫で遠くから見た姿よりも、ずっと幼く、そして凛としている。
彼女は俺たちの前で足を止めると、深々と頭を下げた。
「母が、お世話になります」
澄んだ声だった。
顔を上げると、その瞳はエドナと同じ、強い芯を持っていた。
「それと……先日は素敵な硝子をありがとうございました。あの日、お二人が運んでくださったのでしょう?」
気づいていたのか。
俺たちは顔を見合わせ、会釈を返す。
「式典、楽しみにしています」
ニーナが言うと、エルザは花が咲くように微笑んだ。
「はい。この国の皆が笑顔になれるよう、私も精一杯務めます」
王女は再び一礼し、静かに去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ニーナがぽつりと呟く。
「……明日は、大事な荷運びになりそうだね」
「ああ」
守るのは、あの親子と、この国が愛する灯だ。
俺たちは並んで、城の長い坂を下り始めた。
風が変わった気がした。季節が一枚、めくれるような冷たさだった。




