第26話 三尾の狐の荷
冒険者ギルドの掲示板には、今日も血の匂いがする依頼が並んでいた。
『北の街道に山賊』『森の魔獣討伐』──どれもが、剣を抜き、誰かを傷つけることを求めている。
ニーナはそれらの札を視線だけで素通りし、端の方に貼られた地味な一枚を、指先で摘み上げた。
「今日はこれ」
彼女が見せた札には、剣のマークの代わりに、荷車の絵が描かれていた。
『式典用資材の搬送。西の運河から大劇場裏倉庫へ。取扱注意』
「搬送? 魔獣相手じゃなくていいのか」
俺が問うと、ニーナは薄く笑って札をカウンターへ運んだ。
「刀は錆びない程度に使えばいいの。今日は“生きる”ための仕事。……それに、街が少し浮き足立ってる。その空気に触っておくのも、悪くない」
受付の女性が、依頼書に受領印を押しながら顔をほころばせる。
「ありがとうございます。この時期は皆さん、討伐や街の警備に行きたがるので、運び手の数が少なくて。……あと十日ですからね」
「十日?」
「ええ。エルザ王女の『星の儀』ですよ。テゼルウォートの王家では十七歳を迎えると、星の加護を受ける儀式を行うんです。街中の職人が、その日のために目の色を変えてますから」
なるほど、と俺は頷く。
通りですれ違う人々の足取りが軽いのも、店の軒先がいつもより念入りに掃除されているのも、そのせいか。
「報酬はそこそこ。でも、重要度は特A。割らないようにね」
依頼書を受け取ると、ニーナがギルドの扉を開ける。
朝の光が、埃っぽい床に新しい影を落とした。
* * *
喧騒の通りを抜け、西門へ。
道すがら、ふと気になっていたことを口にする。
「そういえば、ニーナのランクっていくつなんだ? 俺はまだCだけど」
あの“飛ぶ斬撃”や、立ち振る舞い。俺の見立てでは相当な手練れだ。Aランク、あるいはそれ以上でもおかしくない。
だが、ニーナはすれ違う馬車を眺めながらあっさりと答えた。
「私? Bよ」
「B……? 意外だな。もっと上だと思ってた」
「ランクなんてただの通行手形よ。冒険者は、自分のランクの一つ上まで依頼を受けられるでしょ?」
ニーナは指を一本立てて、いたずらっぽく笑う。
「Bあれば、Aランクの依頼も受けられる。それで十分食べていけるわ。わざわざ面倒な昇格試験を受けて、AやSになって名前を売る必要はないもの」
「なるほど……実利主義ってやつか」
「そう。名声で腹は膨れないし、変に顔が売れると動きにくいしね。……私たちが欲しいのは『英雄の称号』じゃなくて、『今日を生きるパンと自由』でしょ?」
その言葉には、どこか実感を伴った重みがあった。
目立つことを避け、ただ静かに目的のために爪を研ぐ。彼女らしい考え方だと思った。
「……違いない」
俺が頷くと、ニーナは満足げに目を細めた。
「そういうこと。だからベリアも、焦ってランクを上げなくていいの。大事なのは、紙切れの等級じゃなくて、自分の刃がどこまで通じるかを知っておくことよ」
* * *
西門を出てすぐ、運河沿いの工房街は、染料と木屑、それに硝子を磨く油の匂いが満ちていた。
指定された工房の前には、幌をかけた荷車が一台。
「なんだ、ギルドの寄越した運び手ってのは、こんな若造と女か?」
出迎えたのは、腕っぷしの強そうな老職人だった。革のエプロンは年季が入って黒光りし、指先は染料で青く染まっている。
「若造と女に見えますか?」
ニーナが一歩も引かずに微笑む。
「荷を運ぶのに必要なのは、腕力じゃなくて“中心”を知ることですよ」
老人は鼻を鳴らし、荷車を親指で指した。
「中身は飾り硝子と、天幕だ。硝子は薄氷より脆い。一枚でもヒビが入れば、俺たち職人の首が飛ぶ」
俺は荷車の持ち手に手をかける。ずしり、と重い。物理的な重量だけではない、何かが詰まっている重さだ。
帆布の側面には、金糸で刺繍された紋章──『三尾の狐』が、朝日に輝いていた。
「……立派な紋ですね」
「当たり前だ」
老人は愛おしそうに、ゴツゴツした手でその狐を撫でた。
「これはただの王家の印じゃねぇ。俺たちテゼルウォートの職人が、百年かけて磨いてきた“美しさ”の象徴なんだ。……信用ならねぇから、俺も行く。荷台に乗せろ」
「え、じいさんも来るのか?」
「当たり前だ! お前らが少しでも揺らしたら、後ろから引っぱたくためにな!」
老職人はそう言うと、荷台の隙間にちょこんと腰掛けた。口は悪いが、その目が真剣なのは分かった。
俺は持ち手を握り直す。
ただの荷物じゃない。この街の誇りを、俺は今、預かった。
「任せてください。揺らさず、届けます」
* * *
荷車が動き出す。
継ぎ目、わずかな窪み。俺は道の表面を足裏で読み取りながら、車輪が跳ねないルートを選んで進む。
「そう。膝を柔らかく。腕で引くんじゃなくて、腰で運ぶ」
ニーナが荷車の横を歩きながら、小声で助言をくれる。
運河沿いの土の道を抜け、再び西門へ。
検問の衛兵が厳しい顔で立ったが、荷車の紋章と、荷台の老職人の顔を見るなり、表情を緩めた。
「おお、ガンツの爺さんか。いよいよ搬入か?」
「おうよ。通すとき揺らすんじゃねぇぞ」
「分かってるよ。……王女様によろしくな」
衛兵は敬礼をして道を開けた。
門をくぐり、城壁の内側へ。石畳の道に変わる。
「戦わない日は、こうやって街の呼吸に合わせるの。……見て、みんな狐を見てる」
ニーナの視線の先。
道の端にいた花売りの娘が、荷車の紋章を見てパッと顔を輝かせた。
「あ、王女様の荷物だ! きれい!」
「いよいよだねぇ」
「十日後が楽しみだ」
道を譲る馬車の御者も、二階の窓から顔を出した婦人も、誰もが『三尾の狐』を見て微笑んでいる。
荷台の老職人──ガンツ爺さんも、まんざらでもなさそうに髭を撫でている。
そこにあるのは、権力への恐怖や媚びではない。
「自分たちの街の祝い事」を待ちわびる、純粋な親愛だった。
(いい街だな)
自然とそう思った。
バウウェルとは規模も華やかさも違う。けれど、根底に流れている「自分たちの場所を愛する空気」は似ている気がした。
* * *
大通りを抜け、劇場へ続く一本道に差しかかった時だった。
路地の影から、だらしない立ち方をした男たちが三人、ふらりと現れた。
「おいおい、立派な荷だな。王家の紋章付きたぁ、豪勢だ」
真ん中の男が、ニヤニヤしながら道を塞ぐ。腰には手入れのされていない剣。どこかの新興ギルドの崩れか、ただのゴロツキか。
「通行料、置いてきな。祝い事なんだ、ご祝儀くらい出せるだろ?」
男の一人が、汚れた手で荷車の帆布──金糸の狐に触れようとした。
「やめんか! 汚い手で!」
荷台のガンツ爺さんが身を乗り出して怒鳴る。
男は「うるせぇジジイだ」と舌打ちし、剣の柄に手をかけた。
カッ、と胸の奥で火花が散る。
俺が手を離そうとした瞬間、ニーナがすっと前に出た。
「ご祝儀? いいよ」
声は明るい。けれど、俺には分かった。彼女の周囲の温度が下がっている。
「でも、その手で触ったら、硝子より先にあなたの腕が砕けるけど。……いい?」
ニーナは笑っていた。
けれど、その目は笑っていない。ただ静かに、男の“急所”だけを見つめている。
男の手がピタリと止まった。
本能が、目の前の美女が「得体の知れない強者」だと悟ったのだろう。
「……ちッ。シケてやがる」
男たちは捨て台詞を吐いて、道を開けた。
ニーナは彼らに一瞥もくれず、俺に合図する。
「行こう、ベリア。──小石、踏まないでね」
「ああ」
「ふん、口だけは達者な姉ちゃんだな」
ガンツ爺さんが鼻を鳴らすが、その声には安堵が混じっていた。
暴力でねじ伏せることもしない。
ただの雑音として流す。それもまた、この平和な街の流儀なのだと教えられた気がした。
* * *
大劇場の裏手、搬入口の扉が開く。
夕陽が差し込む倉庫の中へ、荷車を滑り込ませた。
「おう、ガンツさん! 待ちわびたぞ!」
倉庫係の声と共に、爺さんが震える手で帆布を解く。
現れたのは、人の背丈ほどもある巨大な飾り硝子だった。
「うわぁ……」
思わず声が漏れた。
夕陽を受けた硝子が、倉庫内の壁一面に七色の光を撒き散らす。
描かれているのは、花畑で戯れる三尾の狐と、それを見守る聖女の姿。光の中で、狐が本当に呼吸しているかのように見えた。
「……傷ひとつねぇ。良かった」
ガンツ爺さんが、安堵のあまりへなへなと座り込む。
その時だった。
倉庫の上の回廊──劇場へ続く渡り廊下に、人影が見えた。
白いドレスに、亜麻色の髪。
誰に聞かずとも分かった。エルザ王女だ。
彼女はこちらには気づいていない。一人で、歩く練習をしているようだった。背筋を伸ばし、ゆっくりと、優雅に。
ふと、彼女が足元の光に気づいた。倉庫から漏れ出した七色の光が、彼女の足元を照らしていたのだ。
エルザ王女は手すりから身を乗り出し、搬入された硝子を見た。
そして、パッと花が咲くように微笑み、胸の前で小さく手を合わせた。
「……ああ、見てくだすった」
ガンツ爺さんが、涙ぐんだ声で呟く。
「あの方が笑ってくだされば、俺たちの苦労も全部報われる。……いい式になるといいなぁ」
遠くの王女と、地べたの職人。
言葉は交わしていない。
けれど、そこには確かに、同じものを大切に思う線が繋がっていた。
* * *
帰り道。テゼリアの街は、藍色の夜に沈みかけていた。
家々の窓に灯りがともり、あちこちからスープの匂いが漂ってくる。
「十日後か。……すごい騒ぎになりそうだな」
俺が言うと、ニーナは夜空を見上げたまま、穏やかに返した。
「そうだね。……きれいな式になるといいね」
その声には、一点の曇りもなかった。
街の角には、式典用の旗が飾られている。夜風に揺れる三尾の狐は、楽しげに踊っているように見えた。
今はまだ、誰も知らない。
この静かな夜の向こうに、何が待っているのかを。
俺たちは並んで、星の出始めた空の下を歩いた。
ただ、美しい夜だった。




