第25話 炊き出しの手
テゼリアの南西区は、中央の芸術通りとは違う匂いがした。
絵の具や香水の代わりに、煮締めた野菜と古肉、そして生活の埃の匂いが漂っていた。
「ここだね」
ニーナが足を止めたのは、石畳が剥がれて土が露出した広場だった。
中央には大きな竈が二つ据えられ、樽のような大鍋から白い湯気が立ち上っている。昼前だというのに、すでに器を持った人々が長い列を作っていた。
「炊き出しの手伝い。報酬は白銅貨十枚と、昼食」
ニーナは冒険者ギルドで貰った依頼書を指先で弾き、エプロン代わりの麻布を手際よく腰に巻いた。
「安いな」
「生きるための仕事に、高いも安いもないよ。それに──」
彼女は鍋の方を顎でしゃくる。
「今日のスープ、匂いがいい。作り手が丁寧な証拠」
俺たちは依頼主の元へ向かった。
竈の横で指示を出していたのは、商家のおかみ風の女性だった。年齢は三十代半ばくらいだろうか。地味な亜麻色の服を着ているが、立った時の背筋が、糸で釣られたように伸びている。
「あら、ギルドの方?」
彼女は俺たちに気づくと、柔らかな笑みを向けた。
「助かるわ。男手が足りなくて困っていたの。私はエリナ。こっちは──」
彼女が視線を向けた先に、一人の女性がいた。
荷車から木箱を下ろしている。小柄で、目立たない灰色の服。けれど、大人が二人で抱えるような野菜の木箱を、彼女は一人で、しかも音もなく地面に置いた。
中の野菜が跳ねる音さえしなかった。
「……クラリスよ。私の手伝いをしてくれているの」
ニーナの目が、一瞬だけ細くなった。
クラリスと呼ばれた女も、箱を置いた体勢のまま、視線だけでニーナの腰の刀を撫でた。
刹那、二人の間に、言葉じゃない信号が交わされた気がした。
「よろしく。私はニーナ。こっちは荷運び担当のベリア」
ニーナは何事もなかったように笑って、袖を捲り上げた。
「さ、働こうか」
* * *
俺の仕事は単純だった。薪を割り、水を汲み、袋を運ぶ。
何も考えなくていい。
斧を振り下ろすたびに、木の裂ける乾いた音が響く。水を運ぶたびに、筋肉がきしんで熱を持つ。
「“辿る”と“生きる”を半々」
ニーナの言葉を反芻する。
体を動かしている間だけ、バウウェルの焼ける匂いや、復讐の黒い塊が、思考の隅へ追いやられる。空っぽの器に、労働という砂を詰めてごまかしているような感覚だ。
「お兄ちゃん、それ、重くない?」
足元で声がした。
見下ろすと、鼻水を垂らした男の子が、俺が肩に担いだジャガイモの袋を見上げている。
「……重いぞ」
「すげぇな。おれ、そんなの持てねぇや」
「飯を食えば持てるようになる」
ぶっきらぼうに返すと、男の子はへへっと笑って列に戻っていった。
昼を告げる鐘が鳴り、配食が始まった。
ニーナは包丁を握らせれば手練れだった。野菜の刻み方が速すぎて、周りの主婦たちが目を丸くしている。
「はい、次の方」
俺は柄杓を握り、差し出された木の器にシチューを注ぐ係に回された。
器を受け取る手は、どれも垢じみて、ささくれていた。震える老人の手、泥だらけの男の手、小さな子供の手。
熱いスープを注ぐと、湯気が彼らの顔を包み、一様に表情が緩む。
「ありがとう」
「あったかいねぇ」
その言葉が、柄杓を通して俺の腕に伝わってくる。
ふと、バウウェルの酒場で鍋を混ぜるダリの顔が脳裏によぎる。
けれど、目の前の器の熱さが、俺を強引に“今”へ引き戻した。
ここはバウウェルじゃない。湯気がある。体温がある。
「慣れていない手つきね」
ふいに横から声をかけられた。
交代の時間だった。依頼主のエリナが新しい寸胴鍋を持って立っていた。
「……柄じゃないですから」
俺は場所を譲りながら答える。
「でも、丁寧だわ。最後の一滴まで零さないようにしている」
彼女は鍋を竈に据え、火加減を見るために屈んだ。
薪が爆ぜ、赤い火の粉が舞う。その横顔が、炎に照らされて微かに朱に染まる。
汗を拭う仕草ひとつ、薪をくべる指の動きひとつ。すべてが洗練されていて、この煤けた広場には似つかわしくない。
彼女はふと顔を上げ、街の北側──高くそびえる城の尖塔を見上げた。
「光が強ければ強いほど、影は濃くなる。華やかなテゼリアの足元には、こうして火を焚かないと凍えてしまう場所があるわ」
独り言のような声だった。
彼女は視線を戻し、俺を見る。その瞳は、竈の火よりも静かで、強い光を宿していた。
「消えそうな小さな火も、集めれば暖を取れる。……私は、この国の灯を消したくないの」
トクン、と鼓動が鳴った。ただの慈善家の言葉には聞こえない。
「消したくない」という意志の重さが、俺の胸の中で共鳴した気がした。
俺の中の火は、一度消えかけた。
今はニーナという薪があって、かろうじて燻っている。
でも、目の前のこの人は、自分で薪をくべ、他人の冷えた手まで温めようとしている。
「……強いな」
思わず口に出ると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、それから少女のように悪戯っぽく笑った。
「強くなんかないわ。ただ、寒がりなだけよ」
そう言って、彼女はまた列の方へ向き直り、笑顔でスープをよそい始めた。
「はい、おまたせ。温まってね」
その背中は、どんな屈強な騎士よりも頼もしく見えた。
* * *
夕暮れ時、空が紫に染まる頃に片付けが終わった。
大鍋は空になり、広場には満足そうな満腹の気配だけが残っていた。
「助かったわ。これは約束の分」
エリナから銅貨の袋と、余った黒パンを包んでもらう。
彼女は丁寧に頭を下げると、クラリスを連れて歩き出した。二人の影が、石畳に長く伸びていく。
去り際、あの無口なクラリスが、ニーナに一度だけ小さく会釈をした。
ニーナも短く顎を引いて返す。
二人の姿が角を曲がって見えなくなるまで、俺たちはその場に立っていた。
「……あのご婦人、ただの商人じゃないね」
パンを齧りながら、ニーナが呟く。
「隣の護衛も。足運び、荷の扱い、隙のなさ。たぶん相当強い。私と同類の匂いがした」
「同類って、ニーナみたいに変な人ってことか」
「失礼な。あっちの方がずっと堅物そうだよ」
ニーナは笑って、俺の肩を軽く小突いた。
「でも、悪い人たちじゃなかった」
「あぁ」
俺は胸ポケットの上から、鼓動を確かめる。
「きれいな火だった」
そう言うと、ニーナは俺の顔を覗き込み、嬉しそうに目を細めた。
「うん。……ベリアも、今日はいい顔してる」
渡された黒パンは硬くて、少し塩気が強かった。でも、噛み締めると、昼間のスープの湯気のような温かさが口の中に広がった。
復讐の黒い塊は、まだ腹の底にある。消えはしない。けれど、その隣に、小さな灯りのような輪郭がうっすらと生まれた気がした。
「帰ろうか、ベリア」
「ああ」
俺たちは並んで歩き出した。
身体には、まだスープの温かさと、人々の喧騒が残っている。
振り返ると、家々の窓に一つ、また一つと明かりが灯っていくのが見えた。
誰かが誰かのために灯す、小さな光。
エリナが守りたいと言ったのは、きっとこの温かさなのだろう。
俺はポケットの中で、まだ少し熱い指先を握りしめた。




