第24話 森畔の宿
夜の西門を抜けた瞬間、背中の喧騒がふっと途切れた。
石畳はやがて土に変わり、靴底が吸われる。川の流れに添うように、俺たちは“森畔の宿”へ向かっていた。
川岸に打ち込まれた杭の影が揺れる。水面の反射が土手沿いの板に走って、さっきまで何もなかったはずの場所に人影が立ったように見えた。
心臓が一度だけ跳ねた。
「……見間違いだよ」
歩調も視線も変えないまま、ニーナが隣で囁く。
西門を出てから、ほとんど喋っていない。
夜の風の冷たさと、包帯の下の鈍い痛みと、喉の奥に引っかかった名が、勝手に口数を減らしていく。
“淵鬼”ガルヴァド。
呼び名を持つやつは幹部格──ニーナの言葉が、靴底の石みたいに胸に沈んでいる。
今回は戦うためじゃない。情報を拾う。
それだけのはずなのに、暗がりの向こうに“人の形”を想像するだけで、背中が冷えた。
灰倉を超えてさらに西へ進み、ドゥーべの森の影が川面に落ち始めるあたり。
曲がり角をひとつ越えた先に、灯りが三つ。
奥には暗がり。
川沿いに寄り添うように、舟宿“森畔の宿”が腹を伏せていた。
湿気を吸った板壁、低い屋根、網と縄が掛けられている柱。
ニーナが一歩前へ出て、立ち止まる。
足元の板を見て、壁を見て、窓を見た。見る順番が決まっているみたいだった。
「……足音、消せる?」
俺が頷くより先に、彼女が俺の腰のあたりを軽く叩いた。
「膝、固い。固いまま入ると音が出る」
「ニーナ、ほんと細かい」
「細かいのが命拾いする」
そう言って、指先で俺の上着を摘まみ、鳴りそうな金具を胸元の内側へ押し込んだ。触れ方が速い。けど乱暴じゃない。今夜の彼女は、笑い声の成分が薄かった。
「……顔、隠さなくていいのか?」
ふと、口をついた。
「灰倉の奴は俺に反応した。俺が元潜入者なら、顔が割れてる可能性がある」
ニーナは手を止めず、淡々と答えた。
「確率は低い。奴らは『個』を消す組織よ。末端の捨て駒の顔なんて、いちいち共有されてない」
「でも、万が一……」
「それに、今は鮮度が命。迷ってる間に逃げられるほうが痛手よ」
言い切る横顔に、迷いはなかった。合理的な判断だ。俺は頷くしかなかった。
「息、ひとつ深く」
言われた通りに胸を膨らませ、吐く。痛みが一瞬だけ自己主張をやめた。
「よし。──戦うために来たんじゃない。“拾う”ため。忘れないで」
「分かってる」
分かってる、と口に出して、もう一度自分に言い聞かせた。
* * *
戸の前に立つ。
川面の反射が微かに灯りになる。
なのに、内側から返ってくるはずの生活の気配が、薄すぎる。
ニーナが軽く戸を叩く。
──コンッ。
……。
返答はない。
覗き窓はぴくりとも開かない。
沈黙が長い。
川の音だけが、やけに近く聞こえた。
ニーナは二度目を叩かない。
彼女はただ、耳を澄ませた。俺も息を止める。
次の瞬間、ニーナのまばたき一回──“開始”。
指が閂の位置へかかる。木が鳴りかけた。
けれど音は、喉の奥で殺されたみたいに止まる。彼女が“鳴かせないまま”動かしたのだ。
ゆっくりと、扉が横へ滑る。
俺とニーナは、静かに内へ滑り込んだ。
──中は暗い。
そして……静かすぎた。
鼻を刺すはずの油の匂いが、薄い。人の匂いもしない。
視界がゆっくり闇に慣れていく。
「……空っぽね」
ニーナの声が、妙に近かった。
「ああ、なんの気配もない」
俺の声も、壁に吸われた。
壁には紙束を外した“縁”の痕が揃っていた。縄を掛けていた釘穴が白く残り、網の埃の帯だけが棚に続く。机の上の輪染みは拭かれて、板の木目が光っている。
「昨夜遅くか、今朝」
ニーナが床の隅の灰を爪先で撫で、指で粉の温度を確かめる。
「どうして分かる?」
「灰が匂いと温度を捨てるまでの時間。あと、窓の内側」
彼女は窓枠を指差した。内側に残る、水の線。拭いたのに、乾き切っていない。指の跡が、一本だけ斜めに残っている。
部屋の奥に、不自然に一つだけ残された木箱があった。
ニーナが一歩、近づこうとした瞬間、俺の胸の奥が冷えた。
木箱の隙間から、白が見えたからだ。
蓋をずらすと、中には白い面が乱雑に積まれていた。
笑っている線の口、空洞の目。見覚えがある。バウウェルの石畳に転がっていた、あの白。
指が勝手に動きかけて、止まった。触れたら、また何かが戻ってきそうで。
ニーナが俺の視界を遮るように手を入れ、箱をそっと閉めた。言葉は少ない。けど、動きが「見るな」と言っている。
「跡は“見せたくないものだけ”消してる」
ニーナの声が、硬い。
「見せたいものは、残したまま?」
「そう。ここが拠点だった、っていう匂いは残す。……追って来い、って挑発でもある」
「追う?」
「追わないわ。この線はここで切る。気配を悟られてなお追えば、こっちが絡め取られる。……引く」
ニーナは迷いなく言った。引き際の判断が速い。だからこそ、彼女は今まで生きてきたんだろう。
「了解」
外へ出ると、外気がひやりと頬に触れた。
川風が少しだけ強くなっている。灯りが揺れ、影が長く伸びる。
「……戻ろう」
ニーナが言って、歩き出す。俺もついていく。
俺たちは路地を抜け、川沿いを戻った。
背中に、さっきの白が貼りついている気がして、何度か肩越しに暗がりを見た。
* * *
テゼリアの西門をくぐると、夜空の星と僅かな街の灯りが絵を描いていた。
生きている街の匂いが戻ってくる。それでも、胸の底の冷たさは完全には溶けない。
「ベリア、宿に戻って休んで。私は、ちょっと寄り道」
「分かった。……気をつけて」
「ありがと」
彼女は短く言って、人の流れに紛れるように消えた。
俺は部屋に戻り、腰の刀を外して壁に立てかけた。
鞘の冷たさが指に残る。けれど、その冷たさはもう、ただの重りではなかった。
ベッドに腰を下ろし、ふと息を吐く。
昨日の朝、ニーナは言った。「あなたは屍人に潜入していた」と。
記憶が戻ったわけじゃない。なぜ潜入していたのかも、誰に命令されたのかも、まだ靄の中だ。
だけど、胸の奥で、鉛のような塊が一つだけ溶けた気がした。
俺は、あいつらの仲間じゃなかった。
奪う側じゃなく、抗う側だった。
その事実だけで、呼吸が少しだけ深くなる。人を殺せるこの手が、ただの呪いではなく、戦うためのものだと思える。
胸ポケットの上から、青い髪結びを握りしめた。
掌の中で、確かな形が返ってくる。
静かだった。
窓の外の鐘の音は聞こえない。ただ、自分の心臓の音だけが、昨日より少し強く脈打っている気がした。
* * *
——夜更けが近い、城下町の屋敷。
机の上の灯りが、紙束を鈍く照らす。
国の諜報を任される黒衣の男が、椅子に浅く腰掛けていた。漆黒の髪を後ろで一つに纏め、灯心が作り出す影が、美しい顔の濃淡を際立たせる。
「では、報告」
ニーナは腰をかけず、まっすぐ立って口を開いた。
「“森畔の宿”は空。人も物も、綺麗に抜かれてた。わざと“跡”だけ少し残して、ね。合言葉はもう死んでる」
男は短く頷く。
「想定のうちだ。別線でも追っている。……それだけか?」
「それだけ、ではないわ」
ニーナの目の奥が、男の顔を強く捉える。
「聞こう」
「ベリアの“中”を見た。あいつが屍人のなかに“いた”のは事実。でも潜入だよ。バレて、壊された。記憶を失ったのはその後遺症。つまり、彼は敵じゃない」
灯心がぱち、と鳴った。
男は視線を逸らさない。
「根拠は十分か」
「十分。もしそれでも、貴方たちがあいつを“屍人”と断じるなら──」
ニーナは一歩、近づく。
瞳の温度が落ち、声が低くなる。
「私は今この瞬間からテゼルウォートと敵対する」
沈黙が一拍、二拍。
男は溜め息を吐き、口を開いた。
「不確かな情報でお前に剣を向けるほど、我々は愚かではない。少年は“こちら側”だ」
「最初からそう言って」
「最初から“そう”と決めるのは、仕事が雑だ」
男は淡々と言い切って、ほんの少しだけ眉を動かした。
「それに……お前だって最初から“そう”とは決めなかった」
ニーナの口元が一瞬だけ歪む。
「……まぁね」
「潜入元は分かったのか?」
「いいえ。どんなに深く入ってもそれは見えなそう。記憶を失くしたことが関係しているのかも」
「……そうか。少年のことはお前に任せる」
「そうして。……最後に質問」
「なんだ」
「──あんな大掛かりな“芝居”まで打って、何を目論んでるの?」
男は目を伏せ、机上の紙に指先を滑らせた。
「別にあんな“芝居”を打つ気はなかった。ただ、奴らから標的にされながら動くのは、さすがに骨が折れる。嘘を真に、真を嘘に。次の場面で効く仕掛けを、今の場面に仕込む。それだけだ」
「……ほんと、芝居がかった喋り方するよね」
「癖だ」
「そう。……なにか助言はあるかしら?」
「ひとつだけ。お前は長く舞台に立つ。だから“足元”を壊すな。隣の少年の足元も、だ」
「何言ってるか分かんないって。じゃ、行く」
ニーナは呆れ顔で踵を返し、振り向かずに言葉を投げた。
「──ちゃんと、生き延びてよ」
男──諜報長は返事をしなかった。灯りの芯をほんの少しだけ上げ、影を深くした。
* * *
——ニーナ
宿。私が扉をそっと閉めると、部屋の暗がりでベリアが身を起こした。
「ただいま」
「おかえり。……顔、いつもより“仕事”の顔だね」
「そりゃね。ちょっと悪い年上と話してきたから」
「誰だ、それ」
「変な喋り方する人」
ベリアが小さく笑う。「なにそれ」
私は椅子に腰を落とし、靴を脱いで足を投げ出した。
足の裏が、ようやく床の硬さを思い出す。
「明日から、方針を少し変えよっか。しばらくは“辿る”と“生きる”を半々。冒険者ギルドで依頼を少し回す。情報はいつか来るはず」
「わかった」
「うん。体をほぐすのと、心をほぐすの。半々ね」
「了解。……腹、減った」
「言うと思って、パン買ってきた。ちょっと固いよ。はい、口」
「子ども扱いするな」
「じゃあ“手”」
パンを千切って渡すと、ベリアはむしゃ、と噛んだ。
「固いけど、悪くない」
「でしょ。明日は粥じゃなくてスープにする。塩と香草、少し強め」
静けさが戻る。
窓の外を風が撫で、遠い鐘が一つ。
彼を見つめていると、ふとこちらを振り返り、目が合う。
「ねぇ、ベリア」
「なに」
「ありがと。……一緒にいて、いつも通りにしてくれて」
「どういたしまして。いつも通りじゃないと、歩けないだろ」
胸の奥の硬いところが、少しだけほどける。
私は立ち上がり、棚から手ぬぐいと着替えを取り出した。
「ん。……じゃあ私、ちょっと汗流してくる」
「一階の湯場か?」
「うん。お湯、まだあるって店主が言ってたから」
扉に手をかけ、振り返る。
「先に寝てていいよ。起こさないように戻るから」
「ああ。……おやすみ」
「おやすみ、ベリア」
扉を閉めると、廊下の冷たい空気が頬に触れた。
窓の外から照らす夜空の明かりが、湯場への階段を静かに照らしていた。




