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第23話 ひと休みの街


南門の宿は、まだ朝の匂いを抱えたまま静かだった。

油で磨かれた木の廊下は冷たく、誰もいない。


受付の鈴を一度鳴らすと、眠そうな店主が顔を出す。ニーナが短く用件を告げ、金を置き、鍵を受け取る。段取りは迷いがない。


部屋に入ると、ベッドが二つと小さな机。窓際の光は淡く、埃がゆっくり落ちている。


「顔、ひどい?」


ベッドの端に刀を置きながら問うと、ニーナは一度だけこちらを見て、少しだけ肩を落とした。


「可動域は保ってる。……鏡はあとでにしよ」


鍵が留め金に落ちる小さな音が、やけに澄んで聞こえた。


* * *


湯の音が部屋を柔らかく満たす。

借りてきた鍋で粥を温めると、米のふわりとした匂いに薬草の薄い苦味が重なった。匙が器に触れて鳴る乾いた高い音。温かい湯気が頬に当たり、熱が顔に触れていく。


ニーナは水桶に布を沈め、絞ってから頬に当てた。

冷たい布、すぐに温い布、最後に乾いた布。順番がきっちり決まっているらしい。

指先の圧は控えめで、今の俺よりも俺の痛みの範囲をよく知っていた。


「少し、魔法を使う。最低限」


掌が近づくと、皮膚の内側にぬるい波が走った。熱の棘が丸くなり、呼吸の深さが半拍だけ変わる。

彼女はすぐ手を離し、包帯を巻き直す。布が重なるたび、痛みの輪郭が整えられていく。


「はい、口を開けて」


匙が唇に触れる。

粥は舌に優しく、薬草は舌の奥をさっと通り過ぎる苦味を置いていく。

二口目、三口目。

体の中の空洞に、温度が戻る。


立てかけてあった小さな鏡を持ってきて、俺の前に置く。覗き込むと、そこには別人みたいな顔がいた。

紫がかった腫れ、擦り傷の赤、乾いた血の線。


「……派手だな」


つぶやくと、鏡越しにニーナと目が合う。


「わたしの責任。全部は消さない。事実は残す」


きっぱりと言ってから、わずかに目線を落とした。その横顔が妙に幼く見える。

俺は鏡から目を離し、窓の外の薄い雲へ視線を逃がした。


「じゃあ、俺はこれを見るたび『前に進んでる』って思うことにする」


「……その考え方、好き。じゃあ私は、見るたび『もう二度としない』って決め直す」


「決め直さなくても、しないでくれ」


「うん」


二人で、ふっと苦笑いした。部屋の空気が少しだけ軽くなる。


ニーナは包帯の端を留めながら、声の調子を少しだけ柔らげる。


「跡が残ったらさ、“崖から落ちた馬車を片手で止めた”くらいは話盛っとく?」


「おい、反省してるか?」


「とってもしてる」


間髪入れずに返ってくる声が可笑しくて、痛みの隙間に笑いがひとつ滑り込んだ。


治療が一段落すると、肩と首筋に温い布が置かれた。じんわりと熱が沈む。心臓の鼓動が一つ低くなるのが分かる。

窓から薄い日が差して、布の端が小さく光った。


「少し寝るといい」


ベッドに背を預けた途端、糸が切れるように眠りに落ちる。

夢は来なかった。静かな穴に落ちて、ただ体が自分で自分を組み直していくような眠り。


* * *


目が覚めると、部屋の光は白から薄金へ変わっていた。

窓の格子の影が床を斜めに渡る。


椅子に腰掛けたニーナと目が合う。

膝の上に包帯と小さな瓶がひとつ。片手で瓶をくるくる回し、もう片手で髪を耳にかける所作が、いつになく淡々としていた。


「起きた?」


「ああ」


声は思ったより出た。

喉が役目を思い出したみたいに素直だ。上体を起こすと、包帯の下で肋骨がやや抗議をする。耐えられる。


「夕飯、外で食べられそう?」


「うん、行ける」


立ち上がる俺を見て、ニーナは小さく頷いた。扉を開けると、廊下の木が、朝より少し乾いた匂いになっていた。


* * *


夕方の通りに出ると、人の声と焼いた匂いが迎えてくれた。

呼び声、笑い声、値段のやり取り。

焼いた魚の脂が空気に忍び込み、香草の香りと混じる。屋台の鍋からは白い湯気が立ち上り、串に刺さった肉がぱちぱち跳ねていた。


「テゼリア名物! 狐尾こびまんじゅう、今が焼きたてだよ!」


呼び声が背中から刺さってくる。

狐の尾の形をした小さな饅頭が、竹のざるいっぱいに並んでいる。表面に薄く蜜を塗って、灯りを拾っていた。


ニーナが横目でちらりと見て、言った。


「名物だって。……名物ってさ、半分くらい“言ったもん勝ち”だよね」


「残り半分は?」


「長く言い続けた方の勝ち」


「じゃあ俺の傷は“勇者の証”って言い続ければ……」


「それはやめて」


即答だった。つい笑う。

屋台の親父がこちらにも饅頭を勧めてくる。

二つ買って、歩きながら齧る。外はさく、内側は温かいあんがほどける。甘すぎず、口の中が少しだけ静かになる甘さだった。


焼き魚の屋台で塩と柑橘を振った串を受け取り、角のベンチに腰を下ろす。口に運ぶと、塩気が舌に乗って、柑橘の香りが鼻の奥を抜けた。

さっきまで布と薬草の匂いで満たされていた体に、食べ物の匂いが戻ってくる。


「歩けてるね」


ニーナが串を持ったまま言った。


「粥のおかげだ」


「作った人の手柄も、半分くらいは混ぜておいてほしいな」


口元が互いにわずかに緩む。

短い会話が、街のざわめきに紛れて消えていく。無理に深い話をしようとしない、この距離感が今はありがたかった。


* * *


暮れかけの空が、建物の間で薄く青い。

大通りから少し外れた小路地を選ぶ。人通りはあるが、間が空いている。石畳の隙間に溜まった砂が、靴の底でさらりと鳴った。


ニーナが歩調を合わせたまま、声を落とす。


「明日、“森畔しんはんの宿”に行く」


「……ああ」


前を見たまま、抑えた声で言う。


「呼び名を持つやつは“幹部格”。“淵鬼えんき”は聞き覚えがなかったけど、呼び名がある時点で、今までみたいにはいかない」


「どこが違う?」


「幹部は強さが未知数。手札も。……戦いになったら私が時間を稼いでるうちに退く。徹底して」


「置いていく気はない」


思わず強めに返していた。

ニーナは横目だけで俺を見て、表情を動かさずに言う。


「ベリアじゃまだ戦えない。私は強いから、逃げることくらいできるはず」


強い、と自分で言える人間は少ない。でも彼女は事実を置くみたいに言った。過信じゃないことは分かる。


俺はしばらく黙って、地面の石の継ぎ目を見た。


「……分かった」


自分の声が小さく響いて、石に吸い込まれた。


「約束ね」


「約束」


二人の言葉が、夕暮れの中でかすかに重なった。


* * *


宿の前に戻ると、空は一段暗くなっていた。灯りがほのほのと窓に浮かび、近くの樽に夜露が薄く光る。


部屋の鍵を回して中へ入る。

卓上のランプに火を入れると、黄の輪が壁に広がった。


「今夜はここで寝る」


ニーナが当然のように言う。

俺は頷いて、片方のベッドの端に腰を下ろす。


誰かが部屋の外を通る足音。床板が一枚だけ鳴り、すぐに遠ざかっていく。笑い声がひとかたまり、階段の方へ流れて消えた。


「水、いる?」


「いる」


水差しからコップに注がれる音が、静かな夜に似合っていた。


少し水を飲んでからベッドに横になると、包帯の下で痛みが主張を再開する。でも、昼間よりはずっと小さい。


天井板の節が、獣の目みたいに見えて、すぐにただの木目に戻った。


「おやすみ」


暗さに慣れた目で天井を見ながら言う。


「うん、おやすみ」


短い返事が、隣で響いた。

彼女の寝息がまだ整っていないのが分かる。今日はきっと、俺より疲れている。それでも彼女はここにいる、と知っているだけで、体の重さが一段落ちた。


目を閉じる。

街の音は細くなって、やがて遠くへ引いていく。

眠りは浅いかもしれない。でも今夜は、それでも十分休まる気がした。


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