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第22話 鈴の音が消えるまで


——ニーナ



(……“信じたい”ほうじゃなく、“信じなきゃいけない”ほうを選ぶ)


夜明け前の薄い色を連れて、私はテゼリアの外へ出た。

選んだのは、西外の古い演習場。踏み固められた土、崩れた標的、風が鳴るだけで音が散る。ここなら、誰にも見せずに済む。


十七年前──ヘレンとサラを連れて逃げた夜。


焼けた木と血の匂い、雪みたいに降った灰、真っ赤に染まったまま動かない村の人。

耳の奥で、澄んだ鈴のが笑っていた。


──“道化どうけ”。屍人の幹部の一人。


“あの鈴の音の出処でどころを断つ”。

あの夜から、私はそれだけを生きる理由にした。


昨夜、テゼルウォートの諜報長から渡されたのは、ただの乾いた紙。

それでも、私には重すぎる刃だった。〈ベリアは、屍人に“いた”〉。


だから──。


「朝の稽古、付き合って」


そう言って連れ出すと、彼は少し不安そうな顔をして素直に頷いた。歩幅は相変わらず合う。胸の奥が一瞬だけ軋む。


(信じたいほうじゃない)


私は間合いを切り、振り向きざまに踏み込む。


「......ニーナ?」


「答えて。“道化”はどこにいるの」


「え?」


目が揺れた。

その一瞬で、拳を頬へ。乾いた音。

──反対側、顎、鳩尾。息が抜ける前に足払い。横倒しに落ちたところを脇腹へ蹴り。彼は数歩先まで飛んでいき、泥の中を転がる。


胸の奥がぎゅっと痛くなるのを押し殺す。


「屍人の実態は? あなたの“上”は誰? “道化”はどこ?」


「......知らない!」


一瞬で距離を詰め、言葉の端を掌で叩き落とす。

襟を掴んで引き起こし、膝を胸板に叩き込む。血が噴き、喉の奥で音が潰れる。

彼は反撃を選ばない。選べないのか、選ばないのか。


もう一発、頬。

腫れが出る。片目が細く閉じる。鼻へ打つ。呼吸が乱れる。──折らない、割らない。壊すのは線の手前まで。


「“道化”はどこ」


「……分からな……」


腹へ短い蹴り。言葉が切れる。

距離を取ろうとした肩を掴み、土に叩きつけ、そのまま胸に跨る。拳を落とす。頬、頬、頬──数えない。腫れは濃く、左右の目の高さがずれる。


「答えて」


......沈黙が続く。


ここで終わらせない。

私は拳を止め、かわりに掌をこめかみの少し外へ浮かせた。


「“浅い”のは、やり口を知ってる相手には効かない。……深く入る。悪く思わないでね」


浅いのは、呼吸と鼓動を撫でるだけ。深いのは精神の縁に糸を掛ける。苦痛と恐怖を“思い出させる”。

空気が冷え、指先に集めた魔火が見えない糸に変わる。脳の裏側、痛みの溝へ、そっと触れる。


彼の体が震え、声にならない悲鳴を上げた時、私の中に彼の視界が重なる。

私は沈む。沈みながら、観る。


──黒い外套の男たちに囲まれた森の中の狭い小屋。

──卓上の紙片に、崩した文字。

──周りの男たちが、捲し立てる。

──短く言葉を返す。そらした目。声は落ち着いている。

──崩れる流れ。静かな失敗。

──腕をねじられ、床へ。

──白い面。

──冷たい笑い声。「スパイは、舌より先に心を割るのが礼儀だろう?」

──術者の指が額の前に三本。

──焼けるような痛みと苦しみ、恐怖。視界が白く弾け、音が消える。

──繰り返す。何度も、何度も。

──同じ夢を何百回も見せられるみたいに、出口の手前で引き戻される。

──やがて笑い声が遠のき、世界が石の欠片になって崩れていく。

──最後に、闇。音も匂いも色も落ち、静寂だけが残る。


私は、彼の落ちていく背中を追い続けた。

底に触れたとき、彼の“今”と重なって、指先が震えた。


(……潜入だった。屍人の“中”にいたのは、奴らと戦うため。捕まって、壊されて、──忘れた)


──私は糸をほどく。空気が戻る。

彼の喉から浅い息が漏れ、腫れた瞼がわずかに震えた。

膝をつき、彼の胸に掌を当てる。指が震えている。


「……ベリア」


片目だけが、私を見上げる。

血の味が混じった息。何も言わない。言えない。

無実の人間は、うまく口が回らないものだ。私はそれを何度も見てきたはずのに──。


「ごめん……ごめん、ごめん……」


何度言っても足りない。

拳の跡を指でなぞるたび、胸の底が軋む。


私は治療魔法で腫れの熱を抜き、裂けた皮膚を寄せ、出血を止める。全部は消さない。あざが残るほど殴った事実だけは、消してはいけないと思った。


涙で視界がにじむ。

彼の顔に自分の影が揺れる。私は額を彼の肩に押し当てた。息が震え、嗚咽がこぼれる。止め方を忘れてしまったみたいに流れ続ける。


十七年前、私は鈴の音を追って刃になった。

今日、その刃は理不尽に彼に向いた。向けたのは、私だ。


「……無実だって、分かった」


掠れた自分の声が、朝の空気に落ちる。


「あなたは“中”に入って、嘘をついて、捕まって──壊された。その欠片を……私は今、見た」


返事はない。

ただ、眉の奥がわずかにほどけた。痛みと疲労で、反応もできないのだろう。私は首を小さく振る。


(……私は、なんてことを)


胸の奥にあった一本の杭が、ずるりと抜け落ちた気がした。十七年分の刃を、私は今、誤って振るった。


一緒にいる資格なんて、ない。立ち上がって、距離を置いて、離れ──


手首を掴まれた。


熱い、指だった。

さっきまで震えていたはずの手が、逃がさないみたいに強く。


「……ないで」


掠れた声が、低く届く。


「どこにも……行かないで。……もう、俺には──ニーナしか、いないんだ」


一度、彼の声はそこで切れた。

血の味を飲み込むようにして、もう一度。


「ダリも、アリシアも、ゼトも、リュネルも……いない。俺は、何も覚えてない。何にも、なれない。……でも、ニーナがいるなら、歩ける。だから、行かないで」


腫れの下で、片目だけ開く。

その目に宿っているのは、言い訳でも強がりでもなく、ただ切実さだけだった。


私は膝をついたまま、掴まれた手に自分の手を重ねる。指がかすかに震える。涙で睫毛が重く、視界が波打つ。


「……行かない」


それしか言えなかった。

けれど言った途端、胸の奥で何かがほどけて、再び溢れるように涙が落ちた。


「行かないよ、ベリア。私が、そばにいる。あなたが“歩ける日だけ歩く”なら、私が歩幅を合わせる。あなたが止まるって言ったら、隣で止まる。……だから、ごめん。ほんとうに、ごめん」


肩を抱くと、彼の体温が腕に戻ってくる。

治療をもう一度流し、熱と痺れを落ち着かせる。全部は消さない。跡は、私が背負うために残す。


──。


震えが収まるまで、腕を離さなかった。

息が整うのを待ってから、私は、少しだけ調子を取り戻すふりをした。


「立てる? ──はい、肩貸して。ゆっくりね」


「……あぁ」


彼が立ち上がるのに合わせて、鞘の角度を二指ぶん下げる。息が合う。こういう些細な所作で、現実に戻れる。


「保護者、だな」


「姉、だって言ってるでしょ?」


いつものような軽口が、自分でも驚くほど自然に出た。ベリアの口元が、腫れの下でわずかに動く。


私は彼の胸元にそっと手を入れ、青い髪結びの端を整えた。指先に布の感触。泣き疲れた心に、その確かさが染みる。


「帰ろう、テゼリアに」


「了解。……ニーナ」


その声に、胸の奥がちくりと痛んで、同時に救われた。私は小さく頷く。

並んで歩き出す。土の匂いが風に乗って流れ、遠くで鳥が一声だけ鳴いた。


ベリアの歩幅に合わせる。

彼の呼吸が、少しずつ一定になっていく。石畳が近づき、街の音が増える。


「ニーナ」


「なに」


「......ありがとう」


足が、半歩だけ止まりそうになった。私は前を向いたまま、小さく返す。


「ううん。──一緒に、歩こう」


その言葉を合図みたいに、二人の影が並んで伸びる。風が頬を撫で、朝の香りが、少しだけ前を歩いた。


十七年前のあの夜から、いつだって鳴り続けていた鈴の音が──今は、聞こえなかった。


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