第21話 舟は流れに逆らわない
西の運河は、闇に沈みゆく色でゆっくり冷えていた。水面を渡る風は湿って、縄と油の匂いを運んでくる。
ドゥーべの森の手前、川筋が折れるあたり。
マリサルと呼ばれる小さな村の外れに、板壁を灰で塗りつぶしたような倉が、ひっそり腹を横たえていた。噂に出た“灰倉”だ。
「ここで合言葉を使う。入れたら“見る”、掴めたら“持って帰る”、無理なら“退く”」
ニーナが短く確認し、俺の上着の裾をひょいと直す。続けて、靴底の泥を指で落とし、鞘の角度を二指ぶん下げた。
「ベリア、緊張してる?」
「……べつに」
「そう、中で名を聞かれたら?」
「ベリアで通す」
「じゃあ、私は……“蜂蜜屋の娘”」
「嘘くさい」
「甘い嘘は案外ばれない」
「本当に?」
「肩、固い。はい、ほどいて」
俺が肩を回すとニーナは小さく頷いて、指先で俺の肩甲骨のあたりを軽く叩く。呼吸が静まる。
倉の表戸は閉まっているが、川側に小さな人通り口があった。灯りはついていない。
戸を叩くと、内側で木が擦れる音。丸い覗き窓が少しだけ開いて、目玉が一つのぞく。
『水は高きから低きへ』
男の低い声。
ニーナが一拍置いて答える。
『舟は流れに逆らわない』
一瞬の沈黙。
──木が乾いた音を立て、閂が外れた。
俺とニーナは影を踏んで、内へ滑り込む。
中は広いが、詰め物が多い。
粉袋、木箱、油樽。縄梯子と網。その間を通る風が、薄く粉っぽい匂いを立てる。奥に小さな灯り。
番台に腰かけた若い男が一人、羊皮紙に字を書いていた。入口脇にもう一人。見た目はただの運び屋。
番台の男が俺たちを一瞥し、鼻を鳴らした。
「……新顔か?」
「こっちに回されたの。“書き付け”は?」
ニーナが素っ気なく返す。男は興味なさげに棚を顎で示した。
「奥の二列目、印のある箱だ」
印──近づかなくても分かった。
赤黒い蝋のしるし。髑髏を不気味な円で囲ったような、素人が見ても覚えやすい意匠。目がその印に吸い寄せられる。
ニーナが視線だけ俺へ。
俺は通路をゆっくり歩くふりで、倉内を眺め情報を探る。今日は“知る日”だ。
並ぶ箱、机上の書類。なにか、“上”への手掛かりはないか。
「……ん?」
入口脇の男と目が合った。一瞬、眉間に皺。
視線が俺の顔に釘付けになり、腰の刀、足の置き方まで値踏みして──
「どっかで見た顔だな、お前。どこだったか……」
ニーナの視線が左下に落ちる。
退く合図。俺は肩を少し落とし、表情を崩してから、あくび混じりに返した。
「気のせいだろ。俺、運ぶだけだ」
「……いや、見た顔だぞ。確か……」
言い切る前に、ニーナのまばたき一回。
開始。
彼女は番台の端にあった小さな砂時計を指でひっくり返し、コッと音を立てた。
入口の男の目がそちらにわずかに動く。
俺はその隙に一歩詰め、刀を鞘ごと頭へ振り抜く。当てる瞬間に魔火を流し、軽く“衝撃”を乗せる。
男は膝から落ち、腕を引けば静かに座る形で崩れた。
番台の若い男が立ち上がる。
ニーナが一歩で距離を詰め、掌を胸の前にふわりと翳した。
「大丈夫。少し“落ち着いて”」
空気が澄む。
若い男の肩から力が抜け、瞳の焦点がぶれた。
ニーナの声が低く、よく通る。
「少しだけ“問う”ね。表にある言葉だけでいい。──貴方は屍人?」
「……あぁ」
(……っ)
胸の奥が黒く染まり、刀の柄を掴む手に力が入る。
ニーナがこちらを振り返り、小さく首を振った。まばたきを二回、“待て”。
「“上”はだれ」
「……“淵鬼”……」
「“淵鬼”……?名前は」
「……ガルヴァド……様」
「ガルヴァドはどこにいる」
「舟宿……“森畔の宿”……」
「そこには毎晩?」
「……日を置くことも……」
「屍人である合図は?」
「……」
「……森畔の宿と、灰倉をつなぐ印」
男はぼんやり、机の上にある黒い札を指した。ニーナが頷き、黒い札の意匠を、目に焼き付ける。
「……それと、さっき彼が言いかけたことって?」
ニーナが表情を変えずに訊く。
男の視線が俺の顔を一瞬だけかすめた。
「……俺には、分からない……」
ニーナの瞳がわずかに細くなり、すぐ元に戻った。
「ありがとう。──ここまで。あなたは椅子に座って、目を閉じて。今のことは、波に流す」
男は言われた通り、椅子にもたれて静かに目を閉じた。眠りは浅い、すぐに起きられるだろう。
ニーナは、俺が気絶させた男の前に移動し、水車小屋の時と同じように額に手をかざす。
「出よう」
ニーナが囁いた。
* * *
外へ出ると川の匂い、風が頬を撫でた。葦が鳴る。
俺は息を詰めていたことに気づいて、浅く吐く。
「あいつ……俺のこと……」
「えぇ、知ってる目だった。けど“敵を見る目”じゃない、“内側を見る目”。──そこだけ、違和感──でも深追いはしない。今日は“知る日”」
違和感。
俺の知らない俺を、誰かが知っている、という不安。
ニーナは歩きながら、小さな声で呟く。
「黒い札は置いてく。“無い”と相手が慌てる。“ある”なら、向こうは気付かない」
「森畔の宿と言ってたな。わかるか?」
「うん。ここからさらに西。──でも、今夜は攻めない。テゼリアへ戻る。私は用がある」
「俺は?」
「宿で待機。寝て、食べる。……あなたの任務」
言い方は柔らかいのに、目は仕事の目だった。反論する理由もない。俺は頷く。
「帰り道、早足でいくよ。」
ニーナが笑みを少しだけ戻す。
「足、合わせて」
二人で川沿いを戻る。歩幅はすぐ揃った。
水の匂いが後ろに流れていく。
* * *
夜の王都の灯りが減る頃、俺たちはテゼリアに入った。
南門近くの宿の前で、ニーナが足を止める。
「ベリア。今日は、よく歩いたね」
「ニーナが引っ張ってくれたからな」
「明日は……少し、話すかもしれない。──朝迎えに来るわ。だから今夜は寝て」
「分かった。気をつけて」
「ええ」
ニーナは片手を上げて、夜の通りへ消えた。甘い香りが一歩遅れて残る。
俺は部屋に戻り、刀の鞘に触れた。
名のない刃は静かにそこにある。胸ポケットの青い髪結びが、体温で少しだけぬくもっていた。
窓の外に、鐘の音。遠く。短く。世界は回っている。
* * *
──その夜、城下のとある屋敷。
油紙越しの灯りの下で、黒衣の男が紙束を机に置いた。
対面の椅子に、ニーナが腰掛けている。
「確報だ」
男──テゼルウォートの諜報長は言った。
低い声に、余計な起伏はない。
「名は伏せられているが、顔写図と背格好が一致する。該当はひとりだ」
ニーナは瞬きもしなかった。
「……ベリア、ね」
紙に描かれた粗い輪郭が、彼女の瞳に小さく映る。
長い沈黙。
「でも、彼の屍人への恨みは本物よ……」
振り絞るような声だった。
「“屍人の内部”にいた。これは確実だ。そう記録が残っている」
やがて彼女は静かに椅子を引き、立ち上がった。
「情報、ありがとう。──今夜はここまで」
「明日も動くのか」
「ええ。こればっかりは自分の手で、決着をつける」
踵を返し、扉へ向かう。
廊下の灯りで、彼女の横顔が細く浮かんだ。表情は、仕事の顔だった。
* * *
誰かが宿に戻った気配で目が覚めた。
扉の向こうで、気配が止まる。ノックはしない。
やがて、足音が遠ざかっていく。
俺は枕に顔を埋め、ゆっくり息を吐いた。
明日、話す──そう言った彼女の声が、耳の奥に残っている。
見えない何かが、静かに動き始めた気配がした。




