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第2話 止まった時間の端で


——現在



夜の王都、南門近く。

油灯の明かりが揺れる、小さいが賑わう酒場は、湿った木の匂いとこぼれた酒の甘さで満ちていた。


隅の卓で、俺は頬杖をつき、空になった盃を指で転がす。手には力が入らなかった。


舌の奥で、四つの名前を何度も噛みつぶす。

……ダリ、アリシア、ゼト、リュネル……


あれから何日が経ったのだろう。

まるで世界の時間が止まったみたいだった。


焼け落ちた町、無惨に転がる亡骸──あの日見た全てが記憶として甦り、胸が黒く染まっては酒を飲む。そんな生活を続けていた。酒さえあれば、この痛みも一瞬だけ麻痺する。

数日はずっとそんな調子だ。


盃をもう一度手に取ろうとする──指先が空を掴む。白い指が、俺の手より先に盃に触れていた。


「それ以上は、傷口に塩だよ」


顔を上げる。

茶色く長い髪が灯りを受けて柔らかく光る。細い喉。まっすぐこちらを覗き込む大きな瞳。腰には刀。

──綺麗だ、なんて言葉は、この場に似合わない。けど、目が離れなかった。


「放っといてくれ」


そう言いながら、盃を取り戻せなかった。手の震えを、彼女に見られたくなかった。


「いつもなら放っておくんだけどね」

女は小さく微笑む。「今日は無理。なんでだろ」


女は盃を指ではじき、店の隅にいた下働きに声をかけた。


「ぬるい水と、塩、それからスープ。彼にはレモンを多めに」


「注文なら自分で──」


言いかけて、やめた。

彼女の、甘く懐かしいような香りがふっと鼻の奥まで入ってきて、胸の刺々しさを半歩だけ引かせた。


「放っといてほしいなら、そう言ってもいいよ。でも今、ひとりにするのは危ない」


「危ない?」


「この手の酒は、溺れると足がつかないから」


軽く笑って、彼女は俺の向かいに腰を下ろした。

勝手なのに、不思議と腹は立たない。腰の刀と背筋の伸び方が、むしろ安心させる。


「……名前は?」俺は尋ねる。


「旅人。……今はそれで」


「俺はベリアだ」


「知ってる。噂話は、風に乗ってくるから」


からかうような目の端。

やがて水とスープが運ばれてきて、彼女は水にレモンをぎゅっと絞ると、俺の手へ盃の代わりに押しつけた。


「はい。まずはこっち。飲みなさい」


「……母親みたいだな」


「姉でもいいわよ?」


軽口に付き合って、言われるままに喉を潤すと、胃がゆっくり仕事を思い出したみたいに動いた。塩を舐め、スープを一口。温度が腹に落ちる。


「あんた、医者か?」


「ううん。旅人」


冗談みたいに答えて、彼女は俺の指先をちらりと見た。どうやら、震えを隠していたのは、見逃されていたらしい。


「少しだけ、触っていい?」


「……何を」


「呼吸を整える魔法。浅いやつ」


断る言葉が出てこなかった。

彼女は卓の下で俺の手首に指を置き、もう片方の手で自分の胸に手を当てる。声は出さず、ほんの細い魔火まかが指先を通じて伝わった気がした。心臓の打ち方が、わずかに深くなる。


「はい、これでちょっとはマシ」


「……便利だな」


「便利でしょ。詐欺には使わないから安心して」


イタズラっぽく笑って、彼女は腰の刀に触れた。俺の横に立てかけた包みに視線が滑る。


「それ、新しいね」


「……人の最後の我儘で、預かった。名は、まだない」


「いい表情をしてる。握りがあなたの手に馴染む」


鞘越しに軽く撫でただけで、細工の癖まで見抜いたような言い方だった。彼女の手の動きは、刃物の重さを知っている人のそれだ。


「で、放っとけない理由、聞く?」


「聞かせてくれるなら」


彼女は一呼吸おいてから、まっすぐ言った。


「ここ数日、“屍人しびと”の匂いが街に残ってる。あなたからも、微かに。触れちゃいけない種類の悲しみの匂い。……私は、あいつらを探してる」


屍人。喉が乾いたような感覚になるが、水はもう十分飲んでいた。


「どうして探す」


「借りがあるの。昔の話。……でも、今はそれで十分でしょ」


それ以上は踏み込まなかった。踏み込めなかった。


店の奥の卓で、酔いの回った男がこちらを見て鼻を鳴らした。

「おい綺麗な姉ちゃん、こっちで飲もうぜ。そいつは暗いんだよ」


「ごめんね。今日はこの子と話してるの」


「あ、なんだと?」


椅子がきしむ。三人。立ち上がった足がこちらへ向く。

俺がゆっくり立とうとすると、彼女の足先がテーブルの下で俺の脛を軽く小突いた。


「座ってて」


空気が一枚、薄く切り取られたみたいだった。先頭の男の盃の底が、すっと抜け落ちる。残った酒が男の股座に派手にこぼれ、続いた二人の靴紐が同時にぷつりと切れた。


「……っ、あ?」


何が起きたのか分からない顔が三つ。彼女は肩をすくめる。


「座って。こぼすよ」


切っ先は見えない。魔火まかで飛ぶ斬撃。俺はそれを知っていたが、刀も振るわず、目の前でこんな静かに使うやり方は初めて見た。


三人は互いの顔を見合って、文句も言い切れずに離れていった。店主が遠くから小さく会釈する。

彼女は何事もなかったようにスープを啜り、やわらかい声に戻す。


「明日の朝、西の外壁沿いに並木の公園がある。そこ、知ってる?」


「……あぁ」


「そこで会える? 嫌なら来なくていい。来たら、一緒に歩く。あなたの探し物と、私の探し物、しばらくは同じ道を通りそうだから」


「俺に、歩けるかな」


「歩ける日だけ、歩けばいい」


どこかで聞いた言葉。

胸の奥で、黒い塊の表面がほんの少しだけ、滑らかになった気がした。


「名前、まだ聞いてない」


「ニーナ」


短く。よく通る、気持ちのいい名乗り方だった。


「ニーナ、ね」


繰り返すと、彼女は満足げに頷いた。その目が、俺の胸ポケットへちらと落ちる。布の隙間から青い髪結びが少し覗いていた。


「それ、きれい。……大事にして」


「してる」


「うん。その感じ、いいよ」


立ち上がると、彼女は腰の刀を軽く押さえ、椅子を音も立てず戻した。会計はいつの間にか済ませてある。俺の盃──いや、水杯を指先で軽く押し戻し、いたずらっぽく片目をつぶる。


「今日はここまで。塩と水、忘れないで」


「……ありがとう」


素直に出た言葉に、自分で驚いた。

彼女は「どういたしまして」とだけ言って、油灯の明かりの向こうに消えた。甘い香りがほんの少しだけ遅れて残る。


盃の底に溜まったレモンの欠片を見やり、息を吐く。包んだ刀に手を触れた。

どこまでも沈む自分の重さはそのままなのに、底ができた、気がした。


──明日の朝、か。


歩ける日だけ、歩く。その言葉が何度も頭の中をこだました。


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