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第19話 一歩分の朝


──現在



頭の芯で、鐘が鳴っていた。


重い瞼を開ける。

知らない天井──いや、王都の安宿の、煤けた天井だ。

弔いの鐘ではない。朝を告げる、無遠慮なほど明るい街の鐘の音。


俺は体を起こし、こめかみに手をやった。

いつもの、割れるような鈍痛がない。

ここ数日、酒という泥に浸かり続けていた体から、嘘みたいに熱が引いている。


『はい。まずはこっち。飲みなさい』


昨夜、酒場の薄暗がりで差し出された水。

舌の奥に、レモンの酸味と、温かいスープの記憶が微かに残っている。

あの女──ニーナの手当てが、俺の体を強制的に酔いの外へ引きずり出したらしい。


頭が冴えると、現実が輪郭を持って迫ってくる。


枕元を見る。

黒に近い焦茶の鞘──ギルバートの遺刀。

上着の胸ポケットには、アリシアの青い髪結び。


……全部、夢じゃなかった。

失ったものも、託された重さも、ここにある。


「……歩ける日だけ、歩け、か」


ダンク団長の言葉を、霧の晴れた意識で反芻する。

ずっと止まっていた足。

それを昨日、彼女が引っ張り上げた。


『歩ける日だけ、歩けばいい』


二人の言葉が重なり、俺の背中を叩いた気がした。


俺は刀を手に取り、腰に差した。

昨日より、ほんの少しだけ軽く感じる。


宿を出る。

朝の光が目に痛いほど眩しい。

けれど、足は迷わなかった。


俺は朝の冷たい風を吸い込み、西の外壁沿い──彼女と約束した公園へと向かった。


* * *


西門の並木は、夜露をまだ葉先に残していた。灰色の喪布が街角に結ばれたまま、だけど朝の光は容赦なく淡金で、石畳に細い影を落とす。


約束の時間より少し早く着く。ベンチに腰を下ろし、胸ポケットに触れる。布の隙間から青い髪結びの端が指に当たった。


「ちゃんと起きて来れたね」


背後から声。

振り向く前に、甘く懐かしい香りが先に届いた。振り返ると、ニーナが片手に紙包みをぶら下げて立っていた。茶の長い髪は柔らかくなびき、瞳はよく通る空の色を映している。


光を反す睫毛の影に、目を奪われた。

ほんの一瞬、呼吸が遅れ、慌てて視線を外す。


「舌、見せて」


「……なんで」


「酒、残ってると分かるから」


観念して舌をちょろりと出すと、ニーナは満足げに頷いた。


「合格。ほら、焼きたてのパンと干し肉。歩きながら食べよ」


俺たちは並木の端から外壁沿いの遊歩道へ出た。朝の市場へ向かう荷車が時折通り、パンの湯気と塩の匂いが鼻に心地よかった。


肩が触れそうな距離で並ぶと、視線がほんの少しだけ上に行く。ニーナのほうが、わずかに背が高い。


「昨日は、ありがとな」


歩き出してしばらくして、やっとそれが言えた。

ニーナは「どういたしまして」とだけ言って、ちぎったパンを小鳥に分けた。


「歩幅、合うね」


「そうか?」


「うん。速すぎず、遅すぎず。──まずは、二つだけやろう。ひとつは“歩くこと”。もうひとつは“斬ること”。どっちも、浅くでいい」


「斬ること、ね……」


公園の端に、剪定された細い竹が束ねて置いてあった。管理の人が忘れていったのだろう。ニーナは一本を手に取り、俺に渡す。


「まず、呼吸。昨日のやつの、ちょっとだけ深い版」


彼女は胸に手を当て、もう片方の手で俺の手首を軽く掴む。


「四拍で拾って、二拍で温めて、二拍で送って、一拍置く。拾う、温める、送る、置く。リズムは踊りだと思えばいい」


言われた通りにやってみる。

最初は胸がきつい。けれど四つ目のサイクルから、肺の裏側に空間ができるような感覚が生まれた。掌の脈も、さっきより穏やかだ。


「そう。それで“歩く”。足の裏に重さを落として、膝は伸ばし切らない。首は長く、肩は降ろす」


ニーナは俺の肩甲骨の間に指を一瞬だけ当てた。背中のどこか、固くなっていたところがほどけていく。


「……楽だな、これ」


「無理して立つと、重さは増える。上に重ねるより、下へ沈めるの。覚えといて」


一巡りしてベンチに戻ると、ニーナは今度は俺の包みを顎で指した。


「さて、新しい子、見せて?」


「“子”って柄じゃないけど……」


包みから刀を出す。

鞘は落ち着いた焦茶。鍔は丸い鉄輪。ギルバートの最後の一本。


ニーナは鞘ごと受け取り、重さのバランスを確かめるように手の中でわずかに転がした。


「いい打ち。芯が素直。──名は、まだ?」


「まだだ」


「なら、今日は“無名”のまま、息合わせだけ。抜いて」


俺は静かに鞘を払った。

陽に、細い線が刃文を走らせる。魔火を一滴だけ通す。指に低い響きが返った。


「竹を切る。魔火は要らない。呼吸の“送る”で、刀を前に置くだけ」


言われた通り魔火を払い、竹を一本立てて、“送る”の拍で刃をそこに置く。


刃が竹に触れ、音もなく滑った。切り口は真円に近い。力を使った実感はないのに、ちゃんと落ちる。


「……え」


自分でも驚いてニーナを見ると、彼女は満足そうに頷く。


「ほら、できる。あなたは速さがある。でも、速さは『置く』の後に来るもの。順番を間違えなければ、刀は勝手に働く」


彼女は自分の刀を抜かなかった。

ただ、指先で空を軽く払う。離れた三本の竹の先端が、ほぼ同じ高さで“すぱん”と落ちた。

飛ぶ斬撃。音は風の擦れる音だけ。


「便利でしょ」


「……便利だな。ずるい」


「ずるいでしょ」

イタズラっぽく笑う。


「さて、“歩く”と“斬る”はこれでおしまい。次は“聞く”」


「聞く?」


「婆さんに会いに市場に行く。噂を──昨夜、西区の裏通りで白い面を拾った男がいる。売り先を探してたらしくてね」


白い面。胸の奥が、冷える。


「婆さんは口が硬いけど、私は昔、世話になった。少しは話すはず」


ニーナは歩幅を変えず、市場へ向かった。


* * *


露店が並び、香辛料の匂いと果物の甘さが混じって、朝の喧騒が戻っている。喪布はあるけれど、人は生きるのをやめない。


乾物屋の屋台。

海草と豆と干し肉が積まれて、その奥に背の曲がった老婆が座っていた。鋭い目が、ニーナを見るなり細くなる。


「……ニーナじゃないか。生きてたねぇ。相変わらず、いやなほど綺麗だ」


「婆さまもね。相変わらず、いやなほど目ざとい」


ニーナは笑って、銅貨を何枚か置く。

「昆布と豆。あと、噂を少し」


老婆は銅貨を指で弾き、俺の方をちらりと見る。

「そっちの若いのは?」


「旅の相棒。──今日から、ちょっと」


老婆はふんと鼻を鳴らし、包みを作りながら声を潜めた。


「白い面なら、昨晩ひとつ。裏路地で拾ったって子が持ってきた。私は買わない。ああいうのは、家の中に置いちゃいけない。……けど、買うやつはいる。“つばめの巣”だよ」


「宿か?」

俺が問うと、老婆は頷いた。


「西区の安宿。若い男が三人、ここ数日、面やら金目の細工やらを買い集めてる。顔は“悪い匂い”。──あんたらなら分かるだろ」


「ありがとう、婆さま」

ニーナは包みを受け取り、昆布をひとかけらかじってから俺を見る。


「行こ。無理はしない。今日は“聞く”まで。必要なら“走る”」


「了解」


つばめの巣”は、裏通りの角にあった。二階建ての煤けた木の宿。表の看板はかろうじて燕の絵が読める。昼前でも人影は少ない。


中へ入ると、薄暗い廊下。階段の踊り場に、背の高い男が倚れていた。目だけが動いて、俺たちを値踏みする。


「宿なら前金だよ」


「泊まりに来たわけじゃないの。面を買うって聞いた」


ニーナが真っ直ぐ言うと、男の目が一瞬だけ細くなった。口元に笑いが浮かぶ。


「知らねぇな」


「なら、右から二つ目の部屋にいる“知らねぇ”人たちに聞く」


男の笑いが消える。

ほんのわずかに、廊下の空気が動いた。背後の部屋の戸が、音もなくわずかに開く。


「……どこで聞いた」


「市場は、風通しがいい」


ニーナの手は腰の刀に触れてもいない。

俺は立ち位置を少しずらし、男と戸口の間にわずかな角度を作った。呼吸は“拾う、温める、送る、置く”。


先に飛び出したのは、戸の向こうからの影だった。

短い刃。狙いはニーナの喉。


「座って」


昨日と同じ声。

次の瞬間、影の手首が“見えない何か”に叩かれ、刃が床に落ちた。動いたのは、ニーナの睫毛くらいだった。

俺はもう一つの飛び出た影に間合いを詰め、刃の背で膝を叩く。膝が崩れ、男がしゃがみ込む。致命は避ける。それでも十分だ。


「話そうか」


ニーナは落ちた刃をつまんで拾い上げてから、微笑を消して言った。


二階の部屋に上がると、三人は早々に口を割った。と言っても、知っているのは浅い層だけだ。

白い面は“印”。“屍人”の下っ端を気取った連中が、屍人へ近づこうと買い漁っているだけだった。


「元締めは?」


「顔も、声も。知らねぇ。だが面を持っていると“書き付け”が一度だけ回ってくる」


一人が震える手で、床板の隙間から薄い羊皮紙を引き出した。


『南外・旧水車小屋 日没』。

今日の日付。面の押し印が黒く沈んでいる。


ニーナは紙を受け取り、俺を見た。


「……今日は“聞く”まで、って言ったけど」


「分かってる。けど行くだろ」


これを辿れば屍人へ辿り着く可能性が高い。


「うん。行く」


三人に手当てを残し、宿を出る。昼の光が濃くなって、喪布の影が短くなっていた。ニーナは空を見上げて瞬きを一つ。


「夜まで、少し時間があるね。──“歩く”を、もう一周、やっておこうか」


俺は頷いた。

胸の中の黒い塊は、形を変えない。でも、その周りに薄い輪郭ができた。そこに呼吸が当たる。足の裏に重さを落とす。歩幅を合わせる。


「名は、まだ?」

ニーナがふいにまた訊いた。


「刀のか」


「うん。今すぐじゃなくていい。──でも、誰かのためでも、何かのためでもなくて、“あなたのため”に決めるといいよ」


「難しい注文だな」


「難しいのが、いい」


笑って、ニーナは前を向く。茶の髪が風に揺れ、甘い香りが半歩先を行く。


歩ける日だけ、歩く。今日は、その“一歩分”だ。


俺たちは、南外の水車小屋へ向かう算段を立てながら、もう一度、並木道を往復した。


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