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第18話 灰の朝


夜はとうに底を打っているのに、時間だけが押し黙ったまま伸び続けた。

広場の縁石に腰を下ろして、俺は動けなかった。

膝の上で握りしめた拳には、重さだけが残っている。青い髪結びが体温で湿り、風が通るたび、焦げと血の匂いが薄くなっては、また戻ってくる。


いつの間にか、空が群青から灰色へとほどけていった。

明け方の冷気が頬を撫でる。

遠くで、鉄が触れ合う乾いた音がした。


最初に見えたのは、槍先にかかった黒い喪布だった。

テゼリアからの騎士団が、まだ夜気を纏ったまま街路に雪崩れ込み、手際よく二手三手に分かれていく。前衛が外周を確かめ、後続が担架と麻布、香草の束を降ろした。


騎士だけじゃない。白衣の司祭、書記、そして若い従者たち──誰もが声を抑えて動いていた。


「生存者の確認を優先。路上の遺体は日当たりを避けて移送、身元の分かるものから記録を残せ」


落ち着いた低い声。

振り向けば、鎧の胸飾りに見覚えのある意匠──ダンク団長だ。

彼は一瞬だけ広場を見渡し、顎に力を込めてから指示を続けた。


俺は立てないまま、通り過ぎる足音を聞いた。

麻布が開かれ、丁寧に遺体が包まれていく。顔だけを一度出し、名を呼ぶように口の中で確かめ、それから布を合わせる。香草をひと掴み、胸の上へ。結び目は必ず左に。

誰もがそれを守っていた。事務的で、だからこそ静謐せいひつな作業だった。


教会の前では、司祭が小声で祈りを落とし、若い騎士が鐘楼の縄を短く引いて、音を一度だけ鳴らした。


カン──。


乾いた一打が、焼けた屋根を渡って空へ消える。続けて鳴らさないのは、呼びかけではなく見送りだからだと、後で知った。


「……ベリア」


足元の影が止まり、名前を呼ばれた。顔を上げると、ダンクがいた。目の下に薄い隈。けれど声は崩れない。


「よく戻ったな。……後は我々がやる。お前は……」


言葉が続かない俺の代わりに、団長は短く頷いた。


「分かっている。無理に話さなくていい。水を」


従者が差し出した水袋を受け取っても、蓋を外す指が震えるだけだった。結局、若い騎士が静かに蓋を捻り、口元まで持ってきた。

冷たい水が喉を落ちる。味は、なかった。


日が昇り切る前に、焼け焦げた仮面が集められ、一つの樽にまとめられた。

仮面の口は笑いの線を刻んだまま無言で重なり、上から布と土を被せられる。証として残すが、街の目には触れさせない──そんな配慮が見えた。


「墓を急ぐな。地面がまだ熱い。まずは北側の空き地に納棺所を設けろ。身元の分かる者から札を書いて胸に留めろ」


ダンクの指示で、木箱が組み上がり、麻布の上に整然と並んでいく。箱ごとに香が焚かれ、薄い煙が灰色の朝に混じった。


俺は一度だけ、遺体の前へ行った。

ダリ、アリシア、ゼト、リュネル──四人は、騎士たちの手で同じ麻布に包まれていた。

包む前に、皆の額に短い祈りが置かれた。俺は膝をつき、布越しに額へ手を当てる。温度はもうない。ただ、重さだけが確かだった。


「同行者ですか」


祈りを捧げていた若い司祭が、穏やかに尋ねた。


「……家族みたいなものだ」


自分で言って、言葉が胸の内側で崩れた。


昼前、記録と応急の弔いが一段落すると、団長は俺の肩に軽く手を置いた。


「王都に戻る。君も来い。ここに君一人を残すわけにはいかん」


「俺は……」


抗う形に口が開いたが、続きが出なかった。ここに残って何をする? 灰を数えるか?

団長の手は、ただ温かかった。


「無理に強くなる必要はない。……強いふりをするな」


* * *


荷車の幌の影。車輪が石を噛む振動が、背骨に淡く伝わってくる。

俺は幌の隙間から遠ざかるバウウェルを見た。

煙がまだ二筋、ゆっくり上がっている。灰は風に混じって、もう街の色を薄め始めていた。


膝の上で、青い髪結びと銀の徽章が触れ合い、かすかに音を立てる。

視線を落としても、思考は何も結ばれない。怒りは砂になり、復讐という言葉は口の中で味を失った。胸の火は、消えたわけではない。ただ、どこにも燃え移れずに、黒い塊のまま沈んでいる。


「水を、もう一度」

向かいに座る若い騎士が、そっと差し出した。俺は頷きだけ返して、唇を湿らせる。


幌の外から、隊列の掛け声がかすかに届く。


「歩調、落とすな。振り返るな」


誰に向けた言葉でもないのに、刃のない重さがあった。


目を閉じる。

光の残像の中に、笑った顔がいくつも浮かんでは、形を失っていく。手を伸ばせば届くはずの距離が、果てのように遠い。


どれくらいの時間が経ったのだろうか。

やがて、石畳が滑らかになり、街の匂いが鼻に戻ってくる。


テゼリアの外壁。門上の狐の旗。

衛兵の「開門!」という声。人の気配。生活の音。

世界は何もなかったみたいに回っている。


俺は幌の端を握りしめた。

何も感じない、という感覚だけが、はっきりとした輪郭を持っていた。

そのまま、王都へと運ばれていった。


荷台から降りた足は、地面の感触を曖昧にしか拾わなかった。

雑踏。笑い声。市場の呼び込み。誰かが誰かを呼ぶ声。

バウウェルの静寂とは対極にある「生」の音が、暴力的なほどの質量で鼓膜を叩く。俺は逃げるように、路地裏の安宿へ潜り込んだ。


部屋に入り、鍵をかけると、唐突に音が遠ざかった。

ベッドに倒れ込む。靴も脱がず、泥のように重い体を沈める。


ポケットから、青い髪結びを取り出した。

暗い部屋の中で、それだけが微かに色を残している。


「……アリシア」


呼んでも、誰も答えない。涙も出なかった。ただ、胸の奥に空いた穴を風が吹き抜けていくような、乾いた寒気だけがあった。


眠ったのか、気絶したのかも定かではない。

気づけば、窓の外が白み始めていた。


* * *


王都へ戻った翌日。

城下は喪の布で色を失っていた。鐘の音が昼を告げ、教会の庭で共同の弔いが営まれる。名を呼ばれた者も、呼ばれなかった者も、灰は同じ色に還っていく。


式が終わると、騎士団長ダンクが俺の肩に手を置いた。


「少し、時間をくれ。場所を移そう」


案内されたのは、城の武具庫脇にある小さな控間だった。

陽は浅く、油紙で塞がれた窓越しに青が一筋だけ落ちている。机の上には長い包みが一本。油布の端に、見覚えのある鍛冶刻印が見えた。


狐の尾のような小さな印──ギルバート。


喉が勝手に鳴ったのを、自分で聞いた。


ダンクが静かに包みを解く。油の匂いがふわりと広がり、金がひと筋、光を返した。


「……ギルバートは、バウウェルで見つかった。店の裏。炉の横だ。最後まで火を落とさなかったらしい」


言葉は淡々としているのに、重さは逃げ場をくれない。


「奴は昔、騎士団の武器も打っていた。荒い言葉遣いで、腕は一流。覚えているか? お前が初めて店に来た日のことを」


「……はい」


「俺は偶然、そこにいた。ギルバートは、お前が刃に魔火を流したのを見逃さなかった。“あの若造は面白ぇ”って、何度も言ってた」


ダンクはそう言うと、刀を俺の前へ横たえた。

鞘は黒寄りの焦茶。無駄な彫りはない。鍔は丸い鉄輪で、厚みがあり、微かに金の刺繍がある。


「これを預かった。あいつの隠し棚に、ただ一本だけ残っていた」


「名は、ないのですか」


思わず口に出た。ダンクは小さく笑う。


「紙切れが挟まっていた。“名は持ち主が決めろ”と、あいつの字でな。……そして、こうも書いてあった。“いつか来る、変な若造に”だそうだ」


笑おうとして、笑えなかった。


柄に手を伸ばす。ぴたり、と掌が収まる。納まりが良すぎて、怖い。


「抜け」


合図に従い、静かに鞘を払う。

音は限りなく薄く、空気の層だけが剥がれるようだった。

刃は白に近い銀。刃文は細い線が幾重にも重なったように走り、光の角度で狐火のように揺れる。


魔火を、ほんのひと滴だけ、通す。


刀身が微かに震え、鞘鳴りにも似た低い響きが指へ戻ってきた。無理に燃え上がらない。ただ、呼吸を合わせるように淡く応える。力を誇らず、力を嫌いもしない──そんな気配。


「……合ってる」


自分でも驚くほど、すんなりと出た言葉だった。


ダンクは大きく頷いた。


「ギルバートは、この刀を『放せば浮く、握れば沈む』と言っていた。

軽いのに、持ち手の心を地に引き戻す、ってな。意味は俺にも分からん」


俺は刃を見つめたまま、息を一つ吐いた。

胸ポケットには、まだ青い髪結びの重みがある。銀の徽章も、同じ場所で冷たい。


「……受け取って、いいのでしょうか」


「ギルバートはたぶん、こう言う。“使わねぇ刃ほど、惨めな鉄はない”。お前が振るわない日があるなら、鞘に戻して座っていればいい。振るう日が来たなら、迷うな。──そういう刃だ」


言葉の端に、ほんの僅かに滲んだ悼みがあった。


鞘に納める。収まる音が、やけに正しい。


「騎士団としての形式は後で整える。今は……ただ、渡したかった。ギルバートの、最後の我儘だ」


「……ありがとうございます」


それしか言えなかった。

ダンクは「礼は要らん」と手を振り、包みを俺へと押しやった。


「名は、どうする」


刃の名。

喉の奥で何度か転がし、言葉になりかけて崩れた音を、また飲み込む。

復讐だの誓いだの、口にすれば軽くなるものを、今は持てない。


「……今は、決めません。持ち主が決めろと言われても、俺は、今は何も持っていない」


「そうか」


ダンクはそれ以上、詰めなかった。ただ立ち上がり、出がけに振り向いた。


「ベリア。立てない日は、無理に立つな。歩ける日だけ歩け。ギルバートの刃は、そういう足取りのために打たれている気がする」


扉が閉まる。控間に、油と鉄の匂いだけが残った。


包みを抱え、俺はゆっくりと息を吐く。

刀の重量は不思議と軽い。けれど、軽いまま、胸の底へ沈んでいった。


名のない刃。名のない怒り。名のない、空洞。


それでも、鞘の中の銀は確かにここにある。

俺は包みを背に回し、静かな廊下へ出た。鐘の余韻が、まだ薄く、石に残っていた。


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