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第17話 遅すぎた帰路


北門でフィオネとソロモンを見送ったあと、俺はそのまま街を横切り、南門へ向かった。

胸ポケットの銀の徽章と、奥にある薬草の包みが、歩くたびに触れ合って小さな音を立てる。


南門は、朝の人波でごった返していた。

門の手前に、荷を積みすぎた小さな荷車が一台。黄土色の布で覆った家財の上に、年配の夫婦と幼い子どもがうずくまっている。

子供の顔は土と涙でぐしゃぐしゃだった。


門番に身分証を見せて通ろうとした時、その荷車の親父が、枯れ木のような手で俺の袖を掴んだ。


「兄ちゃん……南は行くな。バウウェルは、もう……」


足が止まった。


「どういうことだ」


「夜明け前に逃げてきた。黒い服に面を付けた連中が、門から入ってきたんだ。叫びも火も、あっという間で……領主様の時みたいに脅しじゃない。今度は、街そのものを潰しにきてた」


門番が低く言う。

「夜半から数名の難民が。『屍人』だと皆が口を揃える」


喉が渇く。魔火が胸の内側でざわりと揺れた。


「……詳しいことは後でいい。俺は行く」


門番が眉を寄せる。「今の話を聞いてもか?」


「行かないわけには、いかない」


徽章を指で押さえ、俺は門を抜けた。


* * *


南門を出るや、全力で走った。

魔火を脚に落とし、呼吸を一定に。景色が後ろへ流れる。風圧で目が痛む。草原の匂いが荒く肺に入る。


川にかかる古い橋を渡る。

いつかは安穏に聞こえた水音が、今日は遠い。

正面の方角に、薄い煙が見えた。


さらに南へ。やがて、空の一角が灰色にすすけているのが見えた。

風に乗って運ばれてくる匂い──木と油、そして、嫌な金属の錆びたような匂い。


心臓が跳ねた。速度を上げる。魔火が燃えるみたいに熱を増す。

何度も石を踏み、草を裂く。


丘をひとつ越えた先で、見た。


バウウェルの街の上に、黒い煙の帯が墓標のようにいくつも立っていた。


「……っ」


喉の奥で言葉にならない音が漏れた。息を止めるようにして、最後の距離を駆けた。


* * *


北門は開いたまま、片方の扉が内側に倒れていた。

蝶番が焼け、鉄の匂いが鼻を刺す。衛兵の槍が数本、折れたまま転がっている。砂利に血が吸い込まれ、色が濃い。


中へ入ると、視界の端で何かがゆらりと動いた。

反射で刀を抜く。

しかし、それは風に煽られた布だった。焦げた垂れ幕。狐の紋章が灰にまみれて見えない。


人影は……ない。音も、ない。


──いや、道に住人の死体が転がっていた。


手が震えるのを感じる。


歩くたび、灰が足元で鳴く。店の看板が斜めにぶら下がり、窓は割れ、焼け跡から白い煙が立つ。

通りの真ん中に、荷車がひっくり返っていた。中身は麦と、砕けた陶器の欠片。


中央の広場が近づく。

嫌な既視感。噴水の縁──以前は領主と衛兵の生首が並んでいた場所に、今日は何もない。

代わりに、噴水の水面が赤黒く濁っていた。水が止まり、底で泡がゆっくり弾ける音だけが響く。


「アリシア……ダリ……ゼト、リュネル……」


名前を呼ぶ声が、自分のものじゃないみたいに掠れていた。


まず、宿へ。


宿の一階、客が数人、地面に倒れている。床一面に広がる赤黒い池。──背筋に悪寒が走る。


俺はまっすぐ二階の階段へ向かった。踏み板に黒い擦過痕がいくつも走り、血が段差の角に黒い筋となって乾いている。


二階の廊下。

アリシアの部屋の前で、足が止まった。


扉は半分外れ、蝶番の片方が曲がっている。前には倒れた棚と、割れた鏡の破片。鏡面についた血の飛沫が、光を拾って鈍く跳ねた。


扉のすぐ手前──ゼトがうつ伏せに倒れていた。


鎧は裂け、背中に斜めの深い傷。右腕は扉の中、左腕は廊下側へ伸びている。

握った剣は刃が欠け、鍔に血が固まっていた。拳の甲は皮が剥け、爪は割れている。

壁には短い刃の痕が十を超えて重なり、ゼトの肩から腰へかけて、細かい切り傷が幾筋も走っていた。


──扉の中。

アリシアは、窓の前に倒れていた。


窓枠は内側から割れ、カーテンは裂けて床に落ちている。手首には、縄か布で強く縛られた痕。

頬には打撲の跡があり、首には一息で終わらせる気がない無数の切り傷。喉元から胸元にかけての布が、不自然な形で引き裂かれていた。

目は閉じられているが、眉間には哀しみとも恐れともつかない皺が深く刻まれている。


部屋の床には、彼女の青い髪結び。

窓から風が入るたび、揺れて動いた。


ゼトは、アリシアの前で倒れている。

扉の蝶番の位置、刃の角度、血の軌跡──全部が物語っている。

彼は扉を閉めさせ、廊下で立ち塞がり、最後までそこにいた。


歯が鳴った。膝が勝手に落ち、床に手がついた。

指先に若干の砂が張り付き、かすかなざらつきが皮膚を逆撫でする。


「守ったんだな……最後まで」


アリシアの傍に膝をつく。


床から、青い髪結びを拾い上げる。煤と血を指で拭うと、その青色が、不意に記憶の蓋をこじ開けた。


『あのね、ベリア』


脳裏に、彼女の声が蘇る。

彼女はこの髪結びを指で触れ、俺の目をまっすぐに見据えていた。


『私、もっと勉強する。……いつかベリアが戻ってきた時、どんな怪我でも治せるように』


再会を信じる、強い眼差し。


『だから……迎えに来て』


花が咲くような笑顔。俺は彼女に背を向け、必ず戻ると誓った。


──その顔が、今は冷たい床で、苦痛に歪んで固まっている。


約束は、果たされなかった。

戻ってきた時には、すべてが終わっていた。


喉の奥が熱くなり、声が出ない。代わりに息が荒く、やけに耳に響く。

握りしめた髪結びが、指に食い込む。


「遅れて、すまない」


それだけ絞り出し、目を閉じて頭を垂れた。立ち上がると、視界の端が赤く滲んだまま戻らない。


一階へ降り、厨房へ行く。

ダリは、カウンターの裏で横たわっていた。

大鍋の柄が手から離れ、鉄の輪が床に転がっている。前腕には斜めの深い切り傷が幾筋もあり、顔には殴られた痕。

カウンターの外側──客席側に向けて、必死に口を開け、体を半歩乗り出した姿勢のまま倒れている。

その大きな背中で、客たちを守ろうとしたのか。


「……本当に、最後まで店主だったな」


声が掠れた。返事は、ない。


外へ出る。


通りの真ん中──リュネルが仰向けで倒れていた。

愛用の杖は真っ二つ。断面は冷たく滑らかで、一撃で斬られたのが分かる。

肩から腰へ斜めに走る大きな傷。周囲の石畳には、彼の炎弾が砕けた放射状の焦げ目が広がり、その上に黒い足跡がいくつも重なっている。


リュネルの右手は固く握られ、砕けた仮面の一部を掴んでいた。左手の指は不自然な角度で曲がり、拳の皮は裂けている。

口元には血が乾き、あんなにも優しかったリュネルが、鬼の形相で死んでいた。


胸が焼ける。喉の奥の熱が、怒りと混ざって、じゅっと音を立てるようだった。


最後に、教会にも足を向けた。

扉は開きっ放し。長椅子は倒れ、祭壇布は引き裂かれ、床には丸い焦げ跡がいくつも残っている。

鐘楼の鍵が床に落ちていた。拾い上げると、金属の冷たさが掌に刺さった。

奥の小部屋──神父は壁にもたれ、目を閉じていた。胸に手を当てる。動かない。

傍らの机の上に、紙束──避難先を書いたのだろう地図──が、血で半分滲んでいた。


通りへ戻る。

死骸は、無造作に、あるいはわざと見せるように、置かれている。

喉。胸。関節。短く、確実。逃がす気がない。

ひとつ、ひとつが「やる必要もないのに、やった」痕に見えた。


仮面が、いくつも転がっていた。

口の部分が笑っている線に彫られたもの。無表情なもの。目の穴は空洞のまま、空を映している。

遊んでいる。人間を使って、遊んでいる。


吐き気が込み上がり、飲み込んだ。胃の中が焼け、指先が勝手に震える。


屍人。許せる道理が、どこにもない。


宿に戻って、俺はゼトとアリシアの前に立ち、深く頭を下げる。

リュネルにも、厨房のダリにも、同じように頭を垂れた。

喉は枯れ、言葉は何一つ出てこなかった。


体温だけがゆっくり冷めていき、世界の音は二度と戻らない、そんな感覚がした。


それでも、足だけは勝手に動いた。路地へ、裏庭へ、外壁沿いへ。

足跡、引きずった跡、何でもいい──襲撃者の足跡となるものは、どこにも続いていなかった。

灰は風に揉まれてかすれ、血の筋は途切れて乾き、石畳の割れ目に落ちた黒い砂は、指で摘まめばただの煤と変わらない。


魔火で気配を拾おうとする。胸の奥で渦を作り、耳と鼻の奥に意識を集める。

……空白だった。

静か、ではない。音が全て吸い込まれたみたいな、冷たい穴。追える熱も、匂いも、何ひとつ残っていない。


南門の外まで出て、車輪溝を数えた。

乾いたわだちがいくつも重なってはいるのに、どれも途中で風に千切れて散っていく。追跡の線が、眼の前で何度もほどけた。


空は、何も知らない顔で明るい。

遠くで鳥が二羽、同じ円を描いて回り続ける。俺は空を睨むこともできず、ただ俯いた。

掌の中の青い髪結びが、汗で少し重くなっていた。


ソロモンの銀の徽章を取り出す。

礼拝堂に走れば、伝えられる。助けを呼べる。北にいる二人に、屍人のことも、街の惨状も、全部──


……指が動かなかった。

伝えたところで、何もかもが手遅れだった。助けを乞う状況も、届けるべき言葉も、もうここにはない。


徽章はまた胸に戻した。重さだけが残る。


日が傾きはじめる。影が長く伸び、死体の輪郭がゆっくりと夜に溶けていく。

俺は広場の縁石に腰を下ろし、背を丸めた。

風が通って、焦げと血の匂いを運ぶ。

吐き気はもう上がってこない。ただ、空っぽがまた一段、深くなった。


怒りは、そこにあったはずなのに、形を保てずに崩れていく。

復讐という言葉は、舌の上で粉になった。

握った拳は震えもせず、ただ無力な重さだけを持っていた。


「……」


声は出ない。泣くこともできない。

沈黙だけが、街と同じ色で積もっていく。


夜が落ちた。

俺は、立てなかった。


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