第16話 分かれ道
大劇場の外は、さっきまでの華やぎが嘘みたいに冷えていた。
華やかだった入り口には封鎖の縄が張られ、騎士たちが石像のように立ちはだかっている。
熱狂は消え、代わりに冷たい静寂と、微かな血の匂いだけが残されていた。
俺たちは騎士に誘導され、劇場脇の控室へと通された。
簡素な長机。パイプ椅子。壁には剥がれかけた演目表。
書記が二人、速記用の羊皮紙と羽根ペンを構えて待機していた。部屋の空気は、インクと古い紙の匂いがした。
やがて扉が重く開き、鎧靴の音が響く。
「……また世話になったな」
騎士団長ダンクが現れた。
兜は脱いでいるが、その表情は戦場にいる時のように硬い。
「まずは礼を言わせてくれ。混乱の中、逃げずによく動いてくれた」
「当然のことをしたまでです」
ソロモンが表情を変えずに返す。
「我々の力が及ばなかったことは、悔やまれますが」
ダンクは短く頷き、椅子に腰を下ろした。革が軋む。
「事情を聞く。時刻、位置、見たもの、聞いた言葉──些細なことでも構わん。断片を繋ぎ合わせたい」
俺は深呼吸をし、記憶の引き出しを開けた。
開演してからのハロルドの芝居。
ソロモンが感じた違和感。舞台袖の影。
そして、あの瞬間。
影が刃となり、王の背を貫いた、あの感触のない一撃。
ダンクは髭を指で撫でながら、時折書記に目配せを送る。
「敵の動きは?」
「影を縫うように滲み、別の場所へ現れます」
ソロモンが淡々と説明する。
「そして、影の刃。物理的な攻撃や魔法を通さないわけではありませんが……霧のように散らされては決定打になりません」
フィオネは壁に立てかけた長棍を見つめながら、付け加えた。
「一度、確かな手応えがあった。骨を砕く感触。……でも、次の瞬間には空中で黒い霧になった。あれは、仕組みのある術よ」
彼女は眉をひそめ、嫌悪感を隠さずに言った。
「それと……あれからは生き物の気配がしなかった。恐らく今回の襲撃は一人によるもの。私が潰したのは、ソロモンとベリアが対峙していた“本体”が生み出した、ただの“分身”だと思う」
「影……聞いたことがない。……“特殊な魔火”を持つ個体、か」
ダンクの声が低く沈む。
「言葉は?」
「『我らは屍にして、人にあらず』」
ソロモンが復唱する。
「そして去り際に、『語り部は死んだ。知りすぎた国は、いずれ滅ぶ』と」
ペンが走る音だけが、カリカリと響いた。
重苦しい沈黙。
「……屍人」
ダンクが吐き捨てるように言った。
「王都のど真ん中で堂々と、宣戦布告とはな。……陛下にも直ちに上げる。だが、これ以上の混乱は避けたい。今日の件については他言無用で頼む。噂は刃より速く、人を殺す」
「了解です」
俺たちは短く頷いた。
「念のため、しばらく王都に滞在してもらえれば助かるが……」
ダンクは俺たちの顔を順に見て、自嘲気味に笑った。
「いや、無理は言うまいな。聖女教会の二人には任務があると聞く。君にも、君の旅があるだろう。……書記、供述の写しを三通。印を押せ」
羊皮紙が破られ、朱肉の匂いが漂う。
俺たちは写しを受け取り、控室を後にした。
廊下に出ると、外の空気はさらに冷えていた。
劇場の天蓋の向こう、空は灰色に澱んでいる。
何か、大きな歯車が狂い始めたような予感がした。
* * *
「明日の朝、テゼリアを発ちます。長居は得策ではないでしょう」
宿「金の豚亭」へ戻る途中、ソロモンが誰に言うともなく呟いた。穏やかな声音の奥に、鋼のような決意がある。
部屋に入ると、二人は手際よく荷造りを始めた。
フィオネは長棍の布巻きを新しいものに替え、ソロモンは杖の節に細い紐を結び直す。無駄のない動作。
「目的地はあるのか?」
俺が問うと、フィオネの手が止まった。
「ええ。北の修道院に、探し人の痕跡があるらしいの。顔は出ないけれど、年頃と特徴が一致している記録があったって。……彼女の可能性が高いわ」
「記録?」
「巡礼台帳です」
ソロモンが補足する。
「各地の礼拝堂でつけている渡航者の帳面。偽名は使えますが、癖や佇まいは隠しづらい。……北の辺境へ抜ける前にも、当たりたい修道院がいくつかあります」
フィオネが荷紐を締め終わり、俺の顔を覗き込んだ。
「ベリア、来ない? あなたの剣は頼りになるわ。それに、あなた自身の記憶の手掛かりも、道のどこかに落ちているかもしれない」
心臓が、どくんと鳴った。
北へ。
未知の土地。教会の情報網。二人の強さ。同行すれば、俺の「空白」を埋める何かが見つかるかもしれない。
……だが。
脳裏に浮かぶのは、バウウェルの風景だった。
アリシアの屈託のない笑顔。ダリの大声。ゼトとリュネルの背中。
あの街は一度、屍人の影を踏んでいる。灰狼の件が片付いた今こそ、戻って恩を返したい。
今の俺は、あの街に借りがある。まだ、返せていない温かさがある。
「……悪い。誘ってくれて嬉しいけど、今回は断るよ」
言葉にすると、胸の奥のざわめきがすっと静まった。
フィオネは一瞬だけ残念そうに唇を尖らせ、すぐにふっと笑った。
「そっか。じゃあ、今は見送る。……約束して。ちゃんと生きて、また会うって」
「約束だ」
ソロモンは懐から小さな銀の徽章を取り出し、俺の手に載せた。
聖女の紋章──茨と百合が薄く刻まれた、古びた銀貨のような丸い板だ。
「教会の連絡徽です。どこの礼拝堂でも、これを見せれば我々に手紙を託せます。北の巡礼路を回った後は、東の辺境へ抜ける予定ですが……経路は変わるかもしれない。いずれにせよ、貴方が必要になれば、必ず迎えに行きます」
「迎えに、ね。俺が必要になる日が来るのか?」
「来ますよ。世界は、思わぬ形で我々を導くものですから」
ソロモンは迷いなく言った。まるで予言者のように。
「言い切るのね」
フィオネが笑う。
「でも、私もそう思う」
俺は徽章を胸ポケットにしまった。
金属の冷たさが、布越しに伝わる。
その奥に、カサリと乾いた感触があった。
アリシアがくれた、薬草の包みだ。
『おまじない』と渡された、小さな紙包み。指先で確かめると、微かに薬草の匂いが残っている気がした。
「ありがとう。そっちは北門から?」
「ええ。夜明け前には出たい」
ソロモンが最後の荷紐を締める。
「我々の分まで、バウウェルの街によろしく伝えてください」
「任せとけ」
* * *
月の十刻。
夜の帳が落ち、王都は早くも喪の色を帯び始めていた。
劇場前の通りには黒い布が掲げられ、道端の花売りは売れ残った花を静かに束ね直している。
軽く食事を済ませ、宿に戻る道すがら。
ソロモンがふと立ち止まった。
鼻先に手をやり、目を細める。
「……匂いが変わりました」
「匂い?」
「悲嘆と警戒が、街の石に染み込み始めています。……雨の前の土のような、重い匂いです」
「王都は強いわ。立ち直る」
フィオネは夜空を見上げた。星は見えない。
「でも、語り部を殺された痛みは、簡単には消えない」
俺は二人の背を見つめた。
肩の線は細い。だが、背負っているものは、きっと俺より遥かに重い。
たった数日。けれど、戦場を共に駆け抜けた時間は、言葉以上の鎖で俺たちを繋いでいた。
でも、俺は俺の場所へ戻る。
二人は二人の道へ進む。
それでいい。今は。
* * *
翌未明。
北門は薄い霧に包まれていた。
見張り台の篝火だけが、乳白色の霧の中で橙色に揺れている。
「じゃ、行くよ」
フィオネが長棍を背負い直し、片手を上げる。
「道中の安全を祈ってる」
俺も手を上げ返した。
ソロモンは笑って、いつもの調子で軽く頭を下げた。
「我々が貴方を必要とする前に、貴方が我々を必要としたなら──ためらわず呼んでください。ベリア」
「分かった。……お前らも、死ぬなよ」
「ええ、もちろんです」
二人は霧の向こうへ歩み出す。
足音が遠ざかり、やがて白い闇に溶けて消えた。
俺は一人、その場に残された。
静寂。
胸ポケットの銀の徽章が、心臓の音に合わせて揺れる。
バウウェルへ戻ろう。
守ると決めた顔がある。帰りを待ってくれている場所がある。
俺は息を吸い込み、冷たい朝の空気を肺に満たした。
南へ。
走り出した足音だけが、夜明け前の王都に響いた。
──だが、この時の俺は知らなかった。
守りたいと願った温もりほど、呆気なく指の隙間から零れ落ちるということを。




