第15話 大劇場
王都テゼリアの朝は、硝子細工のように繊細だった。
花壇の朝露が光を弾き、淡い金色の陽射しが石畳を染めている。
すれ違う貴婦人の柑橘系の香水と、路地から漂う焚き香の匂いが混じり合い、晴れた空気が少しだけ華やいでいた。
昨夜の余韻と、胸の奥のわずかな高鳴りを押し込み、俺はソロモンとフィオネと並んで大劇場へ向かった。
「……見事なものですね」
ソロモンが穏やかに言い、威容を放つ石造りの劇場を見上げた。
巨大な柱、精緻なレリーフ。それは娯楽施設というより、一種の神殿に近い圧迫感を持っていた。
「仕事が続いても、こういう日は心が和むわ」
フィオネが金髪を風に流しながら、眩しそうに目を細める。
その横顔は、いつもの“仕事師”のそれではなく、年相応の少女の柔らかさを帯びていた。
重厚な扉をくぐる。
外界の光が遮断され、人工的な美の世界が広がる。
深紅のビロードの緞帳、金の縁取り。天井画には聖女と王、そして竪琴と月が描かれている。
広間には香の淡い煙が漂い、人いきれに混じって高価な香水がほのかに重なる。
壁際の水晶灯は、魔火によって光量が微調整されており、客席の陰影を柔らかく均していた。
「声が行き届くよう、舞台の上部には反響用の魔法板が仕込まれていますね。……なるほど、テゼルウォートらしい」
「わぁ……本当にきらびやかね!」
フィオネは感嘆の声を上げ、舞台を食い入るように見つめている。
俺たちに宛がわれたのは、中央に近いボックス席。舞台を俯瞰でき、役者の表情も拾える上等な席だ。
席に沈むと、革の軋む音がした。
周囲を見渡す。着飾った貴族、恰幅の良い商人、少し無理をして正装した市民の家族連れ。
誰もが浮き足立ち、これから始まる非日常を待ちわびている。
* * *
開演の合図は、鐘の音ではなく、緞帳の上を走る金糸のきらめきだった。
場内の灯りが薄く落ち、客席が深く息を吸い込む。
舞台中央に灯りが落ちる。
一人の男──大陸に名を轟かす劇作家、ハロルド。
黒髪を後ろで束ね、深紅のマントが光を受けて翻る。言葉を発していないのに、その立ち姿だけで空間が支配されていた。作り手の威厳と、演者の気迫。
序曲ののち、舞台は城の広間へ。
台詞は詩のように練られ、音楽は呼吸の下に敷かれる程度。
王は、かつて聖女と並び立ち、侵攻から国を守った。──伝説の反芻ではない、人間の顔がある話だ。民のために嘘をつくこと、ひとつの正しさを選べば別の正しさを捨てること。その迷いまで、台詞の影に織り込まれている。
「……おお」
気づけば、俺は身を乗り出していた。
その“王”を演じるのがハロルドだった。
動きは穏やか。だが、言葉に力がある。剣を掲げるだけで、舞台の空気が一段、澄むのが分かった。
炎のような声に、舞台上に走る光と影。魔火でわずかに補助された声と明かりが、隅々まで繊細な芝居を届ける。
剣劇はまるで本物だった。
「すごい」
思わず漏らすと、フィオネが視線を外さずに小さく笑った。
「でしょう。あの人は、自分の書いた“王”を裏切らない」
ただ一人、ソロモンだけは時折、舞台袖の暗がりへ鼻先を向けていた。
「……気のせいでしょうか」
「また“匂い”か?」
「ええ。……舞台の華やかさには似つかわしくない、錆びたような匂いです」
俺は客席を見回した。貴族の列、商人の夫婦、子どもにいい靴を履かせた家族。誰もが舞台に目を奪われている。
異常はない。
* * *
物語は折り返し、王と聖女の別れへ向かう。
戦は終わり、王は年老い、聖女は旅へ戻る。聖女は王に未来を託す。
──あなたが選んだ嘘が、いつか真実を守るなら。
そんな台詞の余韻に、劇場全体が静かな波を打つ。
緞帳の隙間から入る光が、舞台を柔らかく洗った。ハロルドの演じる王は、去りゆく聖女に目を細め──
そこで、空気が切り替わった。
最初の違和感は“黙り”だった。
客席の咳払いすら消え、音が一枚薄くなった瞬間──舞台袖の影が、じわりと濃くなる。
照明の加減ではない。黒が濡れて、インクのように床板へ滴っていた。
「──ッ」
ソロモンが弾かれたように立ち上がった。
俺は遅れて気づく。影がいく筋も伸び、生き物のようにハロルドへと“にじむ”。
次の瞬間。
王の背から、黒い棘が突き出た。
刃の形をしていない“刃”。影の指が鋭く伸びたような凶器。
ドスッ、という鈍く湿った音が響く。
ハロルドの胸前が赤く咲いた。
真紅のマントよりも鮮烈な、本物の血の色。
しばらくの間、誰も悲鳴を上げなかった。
あまりにも唐突で、鮮やかすぎたからだ。観客は、これもまた天才ハロルドによる演出なのだと、そう思おうとしていた。
だが、血は止まらない。
ハロルドの膝が折れる。
台詞ではない、苦悶の吐息を零して床へ崩れ落ちたとき──客席が一斉に割れた。
「いや──!」
「誰か!」
悲鳴が連鎖し、立ち上がる影が幾つも重なる。椅子が倒れ、裾が絡み、帽子が転がる。華やかな劇場は一瞬で阿鼻叫喚の地獄と化した。
「ベリア、フィオネ。構えなさい。これは演出ではない」
ソロモンの声が、やけに静かに聞こえた。
やがて観客が我先にと逃げ始め、場内は混沌の渦となる。
俺たちは立ち上がり、奔流に逆らい通路を駆けた。
人の流れを掻き分け、欄干を越えて舞台へ跳ぶ。
舞台に現れた黒い影は四つ。
顔は見えない。漆黒のフードとローブ。ただ、音がほとんどしない。影の上を影が滑るように動いている。
床板に飛び降り立つや、黒いフードに向けて刀を振り抜いた。
ブォン。
──しかし、刃は空を切る。
(……避けられた?)
いや、違う。相手は煙のように身を逸らし、影へと溶けたのだ。
「何者だ──」
言いかけた俺より早く、床の影が動いた。
舞台照明に切られた黒──その黒が、男の足元から俺の足元へ伸び、刃のように跳ねる。
直感で跳ぶ。かすめた影の縁が、裾を薄く裂いた。
(影が──刃!?)
着地と同時に床を蹴って接近する。
再び影の刃が突き立つ。咄嗟に刀を合わせた。
ガィン!
金属を打ったかのような重さ。
返しの刀で影の刃へ斜めに振り下ろす。
斬れる手応えは──ない。
切っ先が“煙”に当たったみたいに抵抗を失い、影が霧散する。
フードの男は、すでに俺の背後へ回っていた。
「そっちは行き止まりです!」
ソロモンが杖を払う。
放たれたのは、圧縮された空気の塊──衝撃波だった。
ドォン!
大気が破裂し、暴風が蛇のようにうねりながら相手を追う。
だが男は床の影に沈み──別の位置から姿を出す。影に消え、影から現れた。
「……影を伝って?」
ソロモンの目がさらに細くなる。
「まとめて吹っ飛びなさい!」
背後でフィオネの長棍が風鳴りを上げ、三体を薙ぐ。砕けた床板が宙に舞う──手応え。
しかし三体は空中で黒い霧となって形を失った。
残った一人。
俺とソロモンに対峙する男が、氷のような声で告げる。
「無駄だ。我らは屍にして、人にあらず」
「……屍人」
ソロモンの声が低く沈む。
「先日、バウウェルを血で染めた名を、ここでも聞くことになるとは」
(こいつらが、屍人……!)
男はわずかに首を傾げ、影へ沈もうとする。
俺は踏み込み、突き出た黒の縁を刀で裂く──が、やはり手応えはない。
「待て!」
追おうとした足元で舞台板がささくれ、黒い靄が壁となる。
刀先が触れるたびに、煙のように掻き消える。
黒いフードの内側で、気配だけが笑った。
「語り部は死んだ。──知りすぎた国は、いずれ滅ぶ」
気配が霧散する。
残ったのは、血に濡れた舞台と、壊れた静寂。
フィオネは長棍を床に突き、悔しげに吐息を漏らす。
「……逃した」
ソロモンが杖を下ろし、静かに首を振る。
「いいえ、逃げ腰ではなかった。私たちを“殺さなかった”のは、見せつける意図があるのでしょう。屍人──あれは群れの中でも上位。今の私たちが全力で挑んでも、なお届かない」
俺はハロルドの躯のそばに膝をつき、喉元に手を当てた。
脈はない。
胸の傷からは大量の血が流れ、マントを黒く染め上げている。
その口元には血の泡ひとつ吹いていなかった。
まるで呼吸だけを器用に止めたような、整った死に顔だった。
ソロモンが一瞥して、静かに首を振る。
「くそ……!」
俺は立ち上がり、刀を振るった。
血は、刃には付いていない。床に、十分すぎるほど流れていた。
客席では近衛と衛兵がようやく避難誘導を始め、悲鳴は次第に嗚咽へと変わっていく。
劇場の天蓋の下、俺たち三人の影だけが、行き場をなくして揺れていた。




