第14話 夜の幕間
外の通りが賑わう夜、宿屋「金の豚亭」の隅。
周囲の喧騒から切り離されたテーブルで、俺は静かにエールを傾けていた。
向かいには、盗賊団“灰狼”の始末を終えたフィオネとソロモン。
「まったく……」
ソロモンがグラスを揺らす。琥珀色の液体が灯りを弾いた。
「灰狼の頭が“探し人”かもしれない、なんて一瞬でも期待した私が未熟でした。全くの見当違い。……でも、候補を一つ消せた分、一歩前進です」
「前進って言う? 私は振り出しに戻った気分だけど」
フィオネは空になったグラスを掲げ、給仕に目配せでお代わりを頼んだ。
その視線が、くるりと俺に向く。
「でも、今回はなかなか骨が折れたわ。最後の女──アンネ。かなり強かった。……それになにより、ベリア。あなた、見た瞬間から“できる”とは思ってたけど、想像以上ね」
「ええ。正直、あの人数相手、我々二人だけでは骨が折れたでしょう。助かりましたよ」
「いやいや。あの感じなら、二人だけでも押し切れたろ」
俺が肩をすくめると、ソロモンは表情を変えずに首を横に振った。
「敵は四十超クラスが三人、数も多い。持久戦になればどこかで綻びが出る。──三人だったから、少ない手数で終われた。それが一番の勝因です」
氷滝の洞窟の冷気、錆びた鉄の匂い、崩れ落ちていく盗賊たち。
脳裏に蘇る光景の中で、二人は終始、余力を残していたように見えたのだが──ソロモンの言い方だと、そこには冷静な計算があったらしい。
「なぁ、二人はどれくらい強いんだ?」
俺が探るように問うと、ソロモンはエールをひと口含み、淡々と答えた。
「そういえば先日、判定石で測りましたね。私は魔火指数52、フィオネは58でした」
「……は?」
喉を通る液体が、一瞬だけ詰まりかけた。
俺はグラスを置き、二人を凝視する。
「五十超……。やっぱり俺より上じゃねぇか」
「ご謙遜を。あなたの剣術は“型”に収まらないところが厄介です」
ソロモンが口元だけで笑い、フィオネも喉を鳴らした。
「数値は目安。最終的にものを言うのは、判断と間合いよ。あなたとアンネには、そこに決定的な差があった」
「……どうも」
俺はグラスの縁を指でなぞった。
暖炉の薪がパチンと爆ぜる。
窓の外では、吟遊詩人が爪で弾くリュートの音が、夜気に溶けていた。
炎を見つめていると、フィオネが話題を変えた。
「ところで、明日の劇『風の歌姫』、楽しみね」
「ハロルドの新作ですね。脚本・演出・主演の三拍子。大陸でこの型を成立させられる人間は、そう多くありません」
「舞台装置も衣装も、細部まで凝ってるって評判よ」
「なんでそんなに詳しいんだ?」
俺が首を傾げると、二人は同時に肩をすくめた。
まるで鏡を見ているようだ。
「聖女教会の情報網は、文化も拾います。噂話だって、立派な“兆し”ですから」
「ふーん。教会ってのは何でも知ってるんだな」
「なんでも知っていたら、こんなところで情報収集なんてしていませんよ。……耳と鼻が、少し利く程度です」
ソロモンが自嘲気味に笑い、続ける。
「ハロルドは、歴史や伝承、日常の些事までうまく編み込む。今回の『風の歌姫』は、古い魔王譚と、聖女と王の物語が下敷き。──テゼルウォートの劇場は、声と光を少しだけ魔火で補助するので、細やかな芝居でも隅まで届く。芸が力を使うのではなく、力が芸を持ち上げる。……良い街です」
「早く観たいな」
そう言うと、二人もグラスを合わせた。
カチン、と硬質な音が響く。
殺し合いの後の昂りは、暖炉の熱と酒の温度でゆっくりと溶けていく。
会計を済ませ、席を立とうとした時だった。
ソロモンがふと、鼻先に手をやった。
「……ああ、嫌ですね」
「どうした?」
「街に、うっすら“ざわめき”の匂いが漂っている」
「ざわめき?」
「不安とも違う。誰かが“何かを始める前”に立つ、空気の皺のようなものです。……気のせいなら、それでいいのですが」
「明日は王様の勧めでの観劇だ。変な騒ぎはごめんだよ」
「えぇ。祈っておきますよ──聖女様に」
ソロモンが軽く目を伏せ、フィオネは紺のローブの裾を払った。
「じゃ、今日は寝ましょう。明日は劇よ。それに……」
「それに?」
「あなた、さっきから欠伸を噛み殺してる」
図星だった。
俺たちは短く笑い合い、暖炉の燻った匂いを背に、それぞれの部屋へ戻った。
部屋に入り、ベッドに倒れ込む。
明日は“劇”。何も起きなければいいが。
胸の奥で、火種が静かに燻っている気がした。
* * *
——テゼリア城・地下牢。
石壁を伝う雫が、長い時間を刻むように落ちていた。
地下特有の、カビと錆びついた鉄の匂いが充満している。
鉄格子の向こう、簡易寝台の上に女が横たわっていた。
“灰狼”の頭──アンネ。
包帯の下で呼吸は安定しているが、その覇気は削がれている。
重い足音が響く。
松明の赤黒い影が伸び、一人の巨漢が現れた。
テゼルウォート王国騎士団長、ダンク。
「目は覚めているな」
アンネは天井を見たまま、口の端を吊り上げた。
「……騎士団長様か。手際は良かったよ。昔を思い出した」
「昔話をしに来たわけではない。問う。……灰狼は、いつから“飼い犬”に成り下がった?」
女の笑みが、渋い色を帯びる。
「さすがはテゼルウォート。鼻が利くね。……群れは、いずれ群れに飲まれる。より大きく、深い闇の群れに」
「名を吐け」
「言うわけがないだろ? ……なんてね、あいつらに義理立てするつもりはないよ。
──“鴉”さ。闇の組織の中でも一番、音のない連中だ」
牢の空気が、ふっと冷えた。
ダンクは眉ひとつ動かさず、ただアンネを見下ろす。
「命令系統は」
「顔は見ない。声も聞かない。落とし物だけ、置いていく。黒い羽根が一枚。『明日までに何人、どこへ』──それだけで充分だ」
「売り先は」
「いくつもよ。帝国境の手前、さらに海の向こう。……全部言えば、あんたらは助けに行けるのかい?」
「法は、罪に応じて裁く。だが情報は、多くを救う。……選べ」
アンネは短く咳き込み、目を細めた。
諦めにも似た、乾いた声。
「……助けるつもりなら、ここより奥の部屋に移しな。鴉は、壁の薄さを嗅ぎつける。たとえ城の中でも、例外じゃない」
「ここはテゼルウォートだ。鼠一匹、通しはしない」
「だから言うのさ。上から崩れるところも、私は見てきた」
沈黙が落ちる。
松明の爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。
やがてダンクは息を吐き、背後に控える衛兵に顎で指示を飛ばした。
「アンネ・ブルクマンを、最下層の独房へ移送しろ。監視は二重に。──それと諜報へ通達。“鴉”の名で全件洗い直せ。直ちにだ」
踵を返して二歩、三歩。
ふと、ダンクの視界の端を、何か黒いものが横切った。
ひらり。
天井の闇から、それは舞い落ちてきた。
松明の明かりを受け、濡れたような光沢を放つもの。
黒い羽根だった。
石床の上に、音もなく着地する。
「……今、誰か通ったか?」
ダンクの声が低く唸る。
「い、いえ、通路は封鎖しております……! 我々以外、誰も……」
衛兵の声が震えていた。
誰もいない。誰も通っていない。
なのに、羽根がある。
ダンクは羽根を拾い上げた。
そして、ゆっくりと拳の中で握りつぶした。
(……城の中にまで、か)
壁の薄さを嗅ぎつける──アンネの言葉が、現実味を帯びて喉元に突きつけられる。
ダンクは鋼のような声で、短く命じた。
「囚人の移送を急げ。……今夜から、城全体を“夜警”に切り替える」
「はッ!」
衛兵たちが慌ただしく動き出す。
松明が揺れ、地下牢の影が生き物のように蠢いた。
鉄格子の向こうで、アンネが乾いた笑いをひとつだけ漏らした。
「ほらね。音がないだろ、鴉は」




