第10話 夜の底で、子どもが走る
登録を終えた足で、俺は依頼掲示板へ向かった。
すぐに受けるつもりはない。だが、この街で何が求められ、いくらで取引されているのかを知っておく必要がある。
壁一面に貼り出された羊皮紙。
近づくと、乾いたインクと安い紙の匂いがした。
ランクはFからAまで。紙の色と質で区別されている。
視線が、上段の赤紙──Aランクの依頼に吸い寄せられた。
枚数は少ない。だが、そこに書かれた内容は血生臭かった。
『盗賊団“灰狼”の討伐』
心臓が一度だけ強く脈打つ。
来る途中の林道で斬った連中だ。
依頼書には、テゼルウォート王国の紋章である『三尾の狐』の朱印が押されている。
報酬額は桁違いだが、『パーティ結成必須』の文字が警告のように太く書かれていた。
(……俺が斬ったのは、末端もいいところか)
Cランクの俺が受注できるのは、一つ上のBランクまで。
だが、いきなり飛び込むのは愚策だ。まずはDかCで、この街の「相場」を肌で知るべきだろう。
俺は情報の羅列を目に焼き付け、ギルドを後にした。
* * *
——王都テゼリアの南西区域。
日が落ち、街の影が濃くなった頃。
王都の南西区域を、二つの影が歩いていた。
紺のローブを纏った双子。
行き交う人々は無意識に道を空ける。彼らの纏う空気が、そこだけ周りと違っていた。
「……やはり目撃情報はデマでしたか。骨が折れますねぇ」
金髪の男──ソロモンが、退屈そうに肩をすくめた。
「まだ決まったわけじゃないわ」
金髪の女──フィオネが、石畳の先を見つめる。
そこから先は、街灯の数が極端に減る。貧民街との境界線だ。
「それに……名前も知らない“相手”を捜すのよ。簡単じゃないのは承知の上でしょ」
「ええ。ですが問題は捜し出した後です。彼女はかなりの使い手のようですからね。……ひょっとしたら、我々より強かったりして?」
ソロモンが楽しげに唇を歪める。
「過信はしない。けれど、教会の“任”に失敗は許されないわ」
フィオネの言葉にソロモンは立ち止まると、顎に指を当てた。
「……やはり、教皇の意図が読めません」
「考えるのは後。南西に着いたわ。狙いがあるのでしょ?」
「さっき酒場で聞いた噂。王都の近くで活動する大規模な盗賊団──“灰狼”。リーダーはかなり腕の立つ女剣士だとか」
「なるほど。可能性は低いけど、当てがないよりはいいわね」
「問題はアジトが不明なこと。ただこれだけ近くで動いているのなら、王都内部にも“手”はあるはずです」
「──それでスラム街。身分を偽る者には居心地がいい場所ってことね」
二人は足を止めず、暗がりへと踏み込んだ。
湿った風が吹き抜け、路地裏の奥から、粘つくような視線が彼らの背中を舐めた。
「さて、どう料理しましょうか」
* * *
ギルドを出ると、王都は夜の底に沈んでいた。
大通りの店先に明かりが灯り、鉄看板の鎖が風でキイキイと鳴る。
急に空腹を感じた。
バウウェルからここまで、魔火の消費を抑えて走ったとはいえ、肉体は正直だ。太腿に鈍い重さが残っている。
(飯を食って、風呂に浸かって、横になる。今日はそれでいい)
俺は人通りの多い区画へ足を向けた。
香草と肉を焼く匂い。発酵したエールの甘い香り。
一角を曲がると、飯屋と酒場がひしめく通りに出た。
黒板に白い粉文字──『肉煮込み 700オルム』『串焼き 350オルム』
手頃な値段だ。
俺は一軒の扉を押し開けた。
熱気と喧騒が、物理的な壁となって押し寄せてきた。
古い油の爆ぜる音。男たちの野太い笑い声。金属の盃がぶつかり合う乾いた音。
中は冒険者で溢れかえっていた。
空いている隅の席を見つけ、鞘を抱えて腰を下ろす。
「いらっしゃい! オススメは白猪鳥の唐揚げだぜ!」
腕まくりの店員が、汗を拭いながら寄ってきた。
俺はそれを注文し、店内を見渡す。
革鎧と鉄の装備。依頼帰りの高揚感と、生き残った安堵感。
包帯の匂いと、薬草の粉っぽい香りが漂っている。
ここは命のやり取りをした者たちが、束の間の生を貪る場所だ。
「よう、兄ちゃん」
不意に、隣の卓から声をかけられた。
振り向くと、銀髪の青年が盃を掲げていた。整った顔立ちだが、目は鋭い。
「四十超の新人だろ? 噂になってるぜ」
「……耳が早いな」
「俺はクロム。“氷乱槍”のリーダーだ」
同席している三人の男女も、軽く会釈をしてくる。
装備の手入れが行き届いている。隙がない。ギルドで見かけた時、一際目立っていたパーティだ。
「うちのパーティに入らねぇか? 前衛が一人抜けたばかりなんだ」
「……誘いはありがたいが、今は考えてない。遠慮しとく」
俺が断ると、クロムは意外にもあっさりと引き下がった。
「そうか。ま、Cランクのソロなんて無茶な生き方、長続きしねぇよ。気が向いたら声かけてくれ」
「ああ。……そうだ、この辺りでいい宿を知らないか?」
「宿? なら、この店を出て左にある『月見荘』がいい。安くてそこそこ綺麗だし、飯も悪くねぇ」
「ありがとう。行ってみるよ」
結局、“氷乱槍”の面々と話しながら夕食を取ることになった。
運ばれてきた唐揚げを腹に詰め込み、エールで流し込む。
揚げたての肉の脂が、枯渇していた身体に染み渡る。
「じゃあな、ベリア。死ぬなよ」
「あんたたちもな」
クロムたちに手を振り、俺は店を出た。
外の空気は冷たく、酔った頭には心地よかった。
通りはまだ賑やかだ。提灯の明かりが揺れ、人々の影が石畳の上で交差している。
教えられた『月見荘』へ向かおうと、人波を縫って歩き出した時だった。
「おっと」
通行人と肩が触れそうになり、身をよじる。
王都の流れは速い。立ち止まれば流される。
その一瞬の隙間だった。
「うわっ──」
看板の影から、小さな弾丸のような影が飛び出してきた。
俺の胸元にドン、とぶつかる。
少年だ。
「あ、ごめ──」
声をかける暇もなかった。
少年は振り返りもせず、脱兎のごとく人混みへ溶けていく。
謝罪もない。やけに急いでいた。
違和感。
嫌な冷えが背筋を伝う。
俺は懐へ手をやった。
上衣の内ポケット。ギルドカードを入れていた場所。
──ない。
「……ッ!」
振り返る。
人混みの向こう、小さくなっていく背中が見えた。
速い。ただの子供の足じゃない。
俺は舌打ちをし、人の波を強引に割って走り出した。
* * *
メイン通りを西へ。
人波を縫うように駆ける小さな背中を、俺は目で追った。
速い。
ただの子供の脚力ではない。路地の構造を熟知し、大人の死角を選んで走っている。
「……チッ」
角を三つ曲がったところで、視界から背中が消えた。
俺は足を止め、呼吸を整える。
目は役に立たない。なら、別の感覚だ。
瞼を閉じ、意識を内側へ沈める。
血管を巡る魔火を、薄く、広く展開するイメージ。
(……残ってる)
暗闇に、微かな「気配」が糸のように残っている。
俺は目を開け、見えない糸を手繰るように路地へ踏み込んだ。
景色が変わる。
華やかな石畳は途切れ、足元は腐った板と泥に変わった。
壁には煤けた布が垂れ下がり、雨水と排泄物の混じった臭気が鼻をつく。
スラム──案内所のおばさんが警告していた区域だ。
俺は走る速度を緩めず、気配の糸だけを追った。
右、左、また右。
迷路のような廃屋の隙間を抜ける。
やがて、その糸がプツリと途切れた。
(……見失ったか?)
いや、違う。
気配が消えたのではない。別の、もっと強大な気配に塗りつぶされたのだ。
「イテッ! 離せよッ!!」
角の向こうから、甲高い叫び声。
俺は速度を上げ、角を曲がった。
行き止まりの広場。
そこで、先ほどの少年が腕を掴み上げられていた。
捕まえているのは、金髪の男。
その横には、無表情で見下ろす金髪の女。
冒険者ギルドにいた、あの双子だ。
「こらこら、暴れないでください。怪我しますよ」
男は、赤子をあやすように優しく言った。
だが、その指は鉄のように少年の手首を締め上げているのが見て取れた。
「うるせェ、離せ!」
「離しませんよ。その手に持っている物を渡しなさい。……おや?」
俺の足音に気づき、二人が同時にこちらを向く。
「あなた、冒険者ギルドにいた人ね」
女が淡々と言う。「この子にカードを盗まれたの?」
「ああ、そうだ」
俺が短く答えると、男は少年から強引にカードを取り上げ、月明かりにかざした。
「ふむ……それなりの実力者に見えましたが、こんな子供に後れを取るとは。君、随分と間抜けなんですね」
嘲笑を含んだ声。
男はカードの刻印に目を走らせる。
「ほう、魔火指数47。やはり腕は立つようです」
「ソロモン、返してあげなさい」
「ええ、フィオネ。……おや、二十一歳? 我々と同い年でしたか。てっきりもっと幼いかと思いました」
男がカードを放り投げてきた。
俺は空中でそれを受け取り、懐にしまう。
「幼くて悪かったな」
「褒めているんですよ」
「嘘つけ」
男はまったく心のこもってない笑顔を浮かべている。
「ふふっ。私はフィオネ、こっちはソロモンよ。よろしくね」
女──フィオネが名乗る。その声にも、親しみよりは観察の色が濃い。
「俺はベリアだ。……カード、ありがとな」
俺は視線を少年へ戻した。
まだ男──ソロモンに襟首を掴まれたまま、少年は俺たちを睨みつけている。
「……君、どうしてカードなんて盗んだの?」
フィオネが問いかける。
「お前らには関係ねェ! それよりも全員のカードを出せ! 出さないと……こ、殺すッ!」
少年が懐から錆びたナイフを取り出し、震える手で構えた。
だが、その切っ先は恐怖で定まっていない。
「やれやれ、子供が物騒な玩具を持つもんじゃありません。それに、私とフィオネは聖女教会の人間です。冒険者ではありません」
「うるさい! ……それなら、お前だ!」
少年が俺を指差す。
額から脂汗が流れている。目は血走り、追い詰められた獣のようだ。
「渡すわけないだろ。大体、カードなんて盗んでどうするつもりだ」
「……ッ!」
少年は言葉に詰まり、唇を噛み締めた。
その目から、堪えきれない雫が溢れ出す。
ソロモンが手を離した。
少年はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。
「君、名前は?」
「......ベン」
少年が掠れた声で名乗る。
「……教えてください」
ソロモンがしゃがみ込み、視線を合わせる。
「このカードを、誰に盗ってくるよう言われたんですか?」
「妹が……盗賊に攫われたんだ。ギルドカードを盗んできたら、返してやるって」
「なるほど。人攫いですか」
「ベン、妹が攫われたのはいつ?」
フィオネの声色が、わずかに鋭くなる。
「……今日の昼過ぎ」
「昼過ぎ。なら──まだ生きている可能性が高いですね」
「……!」
ベンが涙を浮かべ、息を呑む。
「ちょっと、ソロモン」
フィオネが窘めるような視線を向けるが、ソロモンは平然と続けた。
「ですが事実です。時間が経てば経つほど、殺されるか売り飛ばされる可能性は高くなる。善は急げですよ」
「どうするつもりだ?」
俺が割って入ると、ソロモンは顎に手を当てて思考した。
「そうですねぇ……。ベン、カードはどこで渡す予定ですか?」
「街の西外れにある小屋だよ。もうすぐ約束の時間だ……。妹を攫った奴らが来る」
「では、行ってみるとしましょうか」
「でも、誰かに言ったら妹を殺すって……!」
「ベン。カードを渡したところで、奴らは妹を返してはくれませんよ。他に道はありません」
ソロモンの言葉は残酷だが、正論だった。
「……分かった。いや、分かりました。お願いします! どうか妹を取り返してください!」
ベンが土下座の勢いで頭を下げる。
ソロモンは、初めて人間らしい笑みを浮かべた──ように見えた。
「素直でよろしい。任せなさい、私たちが必ず連れて戻ります」
「じゃあ行きましょうか。ベンは家に居なさい。……ベリア、あなたはどうするの?」
フィオネが金髪を結び直しながら、俺を見た。
「もちろん行きますよね?」
ソロモンが被せるように言う。
「善良な心を持っているなら、見捨てたりはしないはずです。それとも、貴方の心はもう……」
分かりやすい挑発。
だが、俺の中に反発心はなかった。
空っぽの器に、何かが注がれる感覚。
妹のために必死な少年の姿が、俺の中の空洞に「動く理由」を与えてくれた気がした。
「……幸いなことに、まだ善良な心ってやつは残ってるらしい」
俺は肩をすくめた。
「行くよ。けど、その小屋に妹がいるとは限らないだろ? いなかったらどうする」
「ええ、恐らく妹はもう移動させられているでしょう。……奴らのアジトを聞き出し、叩きます」
ソロモンの目が、爬虫類のように細められた。
「そうか。分かった」
俺が頷くと、ソロモンは満足げに手を打った。
「決まりですね。では、夜の散歩と行きましょうか」




