第1話 お伽話
──十七年前
鈴の音が、した気がした。
ちりん、と笑うような、乾いた音がひとつ。
直後、女の悲鳴が夜を裂いた。
窓ガラスが内側へ爆ぜ、赤い光が雪崩れ込む。
暖炉の火が一瞬で吸い出され、部屋の温度が消えた。
「ヘレン、ニーナ──走れ!!」
家の主──ニーナの養父が剣を抜く。
いつもの優しい父ではない。見たことのない、鉄のような背中だった。
崩れた壁の向こうに、黒いローブ。
白い、無表情の仮面。
その奥から、また鈴の音が聞こえた。
石畳に灰が降る。吸い込む息が、鉄と脂の匂いで熱い。
ニーナは隣のヘレンの手を握った。二人の年は七つ。
(離したら、終わる)
誰に教わったわけでもない。生物としての本能が、全身でそう告げていた。
戸口の外で、養父は仮面の一人を正面から剣で受けた。白い火花が散り、肉を叩く鈍い音と、骨が砕ける甲高い音だけが響く。
重く、速い。飾り気のない一撃が、恐ろしいほど正確に急所を抉る。
二撃、三撃。
影から次々と、新しい白面が湧き出る。
(……多すぎる)
養父の横顔が、絶望を殺して叫んだ。
「角を右だ! 村から離れろ! 振り返るなッ!」
ニーナは頷き、凍りついたヘレンの手を引いた。靴が石を噛んで滑る。
角を曲がる。
また仮面。
また走る。
胸の奥で、ちいさな熱がぱち、と鳴った。
恐怖で足が竦むより早く、体の芯にある“何か”が勝手に巡りだす。
魔火。
それを細く、足裏へ落とす。踏み出しが爆ぜるように軽くなる。
もう一度、指先に糸のように魔火を通す。
頭上の酒場の吊り看板──その鎖へ向けて、空を指で薙ぐ。
カィン、と硬い音がして鎖が断たれた。
巨大な看板が落下し、路地を塞ぐ。追ってきた仮面の足が止まった。
* * *
——ほんの少し前まで、暖炉の前でお伽話を読んでもらっていた。
父の低い声と、爆ぜる薪の音。
『むかし、ある王様がいました。
王妃を愛し、民に愛された、心優しき王様でした。
だがある夜、王妃は殺され、王様は泣きました。』
——悲鳴。怒号。誰かが肉を焼かれる臭い。
——ヘレンの掌が、痛いほど冷たい。
『悪い神が囁きました。“復讐を”。王様は犯人を討ちました。
神はさらに囁きました。“王妃を戻す術がある。
代価は——人の命だ”。
王様は悲しみの果てに頷き、禁忌の力を受け取りました。』
——路地が燃えて赤い。仮面の群れ。
——養父の剣はもう見えない。人垣の向こうで、何か重いものが倒れる音がした。
『王様は自らの子と、配下以外の全ての民を殺し始めました。
やがて他国にも刃を向け、人々は彼を“魔王”と呼ぶようになりました。
人が半ばまで減った頃、一人の聖女が立ちました。
聖女は人々に、体内の炎《魔火》の扱いを教え、長い戦いの果てに魔王を討ちました。』
——角を切るたび、肺が焼ける。
——ニーナはヘレンの手を握り直す。爪が食い込む。
——魔火を薄く回して、心臓の早鐘を無理やり抑え込む。
『しかし魔王は最期に、呪いのように言ったのです。
「私は死なない。我が血が絶えぬ限り、必ず復活する」』
——その言葉だけが、耳の奥で冷たく光る。
『人々は恐れ、叫びました。
“血が残れば、またあの悪夢が始まる”
“魔王の血を断て!”
“一滴たりとも残すな、根絶やしにせよ!”』
——叫びが、呪いのように世界を覆う。
——けれど皮肉にも、少女は今、生きるためにその血を燃やして走っている。
* * *
「……ァ……逃げ……ろ……ッ!」
背後で、養父の声が泡立つ音と共に途切れた。
ドサリ、と何かが投げ捨てられる音。
次いで、雪でもない灰が、はらはらと夜空から落ちてきた。
前方で、民家の柱が倒れて道を塞いでいる。
炎が壁を作っていた。行き止まり。
ニーナは指先に魔火を絞り出した。熱い。指が焼けるようだ。
炎の向こうにある「隙間」をイメージする。
柱の脇、燃え落ちそうな絡み蔦──そこを、切る。
一閃。
蔦が落ち、柱がわずかにずれた。人が一人通れる隙間が開く。
その隙間から、泥だらけの手が伸びた。
「こっち!」
ヘレンの手を引き、向こう側へ滑り込ませる。
いつも一緒に走っていた、一つ年下の子──サラだった。
唇だけが動く。「しずかに」
ニーナは頷き、自分も炎の隙間をくぐり抜ける。
仮面の視線が、炎越しにこちらを探して跳ねる。
影が三つ、四つ。
その奥に、楽しそうに揺れる鈴を持った影が見えた。
(……あいつだ)
本能が告げる。あいつが、父を殺した。あいつが、この夜を連れてきた。
サラが手招きする。三つの呼吸が、同じ速さになる。
(いまは、ここを抜ける。……生きて、抜ける)
最後の角を抜けると、冷たい風が通った。
丘だ。血と脂の匂いが薄れ、草の匂いが混じる。
村の端。
この先は、夜の色が少しだけ薄い。
三人で駆け上がる丘。
ヘレンの手を握り直す。サラが先に立って獣道を示す。
指先にはまだ、ちいさな熱が残っていた。人を殺せるかもしれない、鋭利な熱が。
頂上で、一度だけ、ニーナは振り返った。
村は燃えていた。
父も、母代わりの隣人も、昨日話したパン屋も、すべてが赤い色に溶けていた。
鈴の音は、もう聞こえない。
見えないまま、目を閉じる。
『人々は魔王の血を探しました。けれど、探しても探しても血は見つからず、やがて人々は魔王のことなんて忘れてしまいました。
そして時は過ぎ──
どこかで今も“魔王の血”は息をしているのかもしれません』
まだ泣かない。泣けば、足が止まる。
村は滅びた。
その事実だけが、灰となって夜に積もる。
この夜、七歳のニーナの内側で、火が点いた。
復讐という名の、消えない火種。
それは長い時間をかけて、灯になる。




