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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

愛の聖域

作者: ハル
掲載日:2026/01/16

献身的な愛に捧げた二十年間。

それは、誰の目にも美しい聖域でした。

たった一人の侵入者が、その扉を壊してしまうまでは――。


第一章:無垢なる楽園


 その家は、街の喧騒から少し離れた高台にあり、いつも磨き上げられた窓ガラスが午後の光を穏やかに跳ね返していた。庭先には手入れの行き届いたハーブが香り、通りかかる人々は、その家から漏れ聞こえる穏やかな生活の音に、確かな「幸福」の形を見ていた。

 一人息子のみなとは、今年で二十歳になった。

 彼は幼い頃から発達障害を抱えていた。言葉を額面通りに受け取りすぎる実直さや、周囲の空気を読むことの難しさ、そして彼だけの独特なこだわり。社会という荒波に馴染むには、彼の魂はあまりに純粋で、そして不器用すぎた。

 しかし、両親はそんな湊を、この世で最も尊い宝物として育て上げた。

 母は、湊がパニックを起こせば、何時間でもその背中を優しくさすり続けた。彼が興味を持った事柄には、まるで自分のことのように目を輝かせて付き添った。

 父は、湊が将来困らないようにと、彼に合う仕事や居場所を求めて奔走し、休日は欠かさず湊の好きな場所へ車を走らせた。

 二十年。それは、一分一秒が湊という存在を中心に回る、献身の積み重ねだった。

「本当に、あのご夫婦は頭が下がるわ」

「湊くんも、あんなに優しいお父さんとお母さんに愛されて、幸せね」

 近所の誰もがそう口にし、彼らを「理想の家族」と呼んだ。

 実際、夕食のテーブルを囲む三人の姿は、一枚の絵画のように美しかった。母が作った温かなスープの湯気の向こうで、湊がたどたどしく今日あった出来事を話し、父が深く頷く。

 そこには、外界の冷たさを一切遮断した、完成された「愛の聖域」があるように見えた。


第二章:不条理な浸食


 その聖域が崩壊したのは、ある火曜日の夜のことだった。

 警察の記録によれば、事件発生は午後九時十五分。

 数キロ離れた駅前で三人を切りつけた無差別殺人犯が、逃走経路の果てに、偶然にもその邸宅の勝手口に目をつけた。鍵はかかっていなかった。

 侵入した犯人と最初に出くわしたのは、台所で水を飲もうとしていた湊だった。

 犯人が後に語ったところによれば、湊は逃げることも叫ぶこともせず、ただ呆然と立っていたという。突発的な事態に思考がフリーズしてしまったのか、あるいは凶器の意味を理解できなかったのか。

 犯人は、その「無防備な沈黙」に苛立ち、衝動的に刃を振るった。

 翌朝、報道は過熱した。

「無差別殺人鬼、幸せな家庭を襲う」「障害を持つ息子の命を奪った卑劣な犯行」

 SNSには犯人への怒りと、遺族への深い同情が溢れかえった。

 事件から三日後、息子の葬儀が行われた。

 斎場の外には、悲劇の結末を記録しようと、無数の記者がカメラを構えて待ち構えていた。式を終え、遺骨を抱えて現れた両親の姿に、シャッター音が激しく鳴り響く。

「今回の事件について、一言いただけますでしょうか」

 記者の問いに、母は立ち止まり、震える唇を開いた。

「今まで……当たり前としてそばにいた息子が、ほんの一瞬でいなくなってしまって……とても、悲しいです」

 ハンカチで目元を拭う母の隣で、父は一言も発さず、ただ深く首を垂れていた。

 その光景は、日本中の同情を誘う「完璧な悲劇」として、夜のニュースを席巻した。


第三章:残されたよどみ


 事件から一週間が経過し、捜査は最終段階に入っていた。

 しかし、担当した刑事たちの間には、ある種の「居心地の悪さ」がよどみのように溜まっていた。

 一つは、犯人の動機と行動の矛盾だ。

 犯人は過去にも数回の犯行を繰り返していたが、その活動圏は今回の現場から十キロ以上も離れていた。なぜ、逃走中とはいえ、これほど離れた閑静な住宅街の、特定の家を選んだのか。

 犯人の供述は一貫していた。

「誰でもよかった。ただ、あの時は、あそこに行かなきゃいけない気がしたんだ」

 明確な裏付けはなく、結局は「気まぐれ」として処理されることになった。

 そして、もう一つ。

 ある若い刑事が、葬儀の映像を繰り返し再生しながら、独り言のように漏らした言葉がある。

「……このお母さんの表情、どう思いますか?」

 画面の中、母が「悲しいです」と答えた直後、彼女はほんの一瞬だけ、視線を夫の方へ向けていた。

 その時、夫の口角が、ほんの数ミリだけ上がったように見えた。

 それは、最愛の息子を失った絶望の淵にいる人間の顔ではなかった。

 二十年という長い長い「聖域」を守り抜いた苦行から、ようやく解放された者が浮かべる――あるいは、全てが計画通りに終わったことを確認し合うような、静かな「悦び」に満ちた表情に見えたのだ。

 不可解な犯人の移動距離。開いていた勝手口。

 だが、証拠は何もない。あるのは、カメラが捉えた曖昧な一瞬の表情だけだ。

 今日も、高台にあるその家は、静かな陽光に包まれている。

 かつて聞こえていた息子のたどたどしい話し声はもう聞こえない。

 ただ、庭の手入れをする夫婦の、今まで以上に穏やかで、満ち足りた沈黙だけが、そこにはあった。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

「献身」という言葉の裏側にある、人間の複雑な感情を描きたいと思い執筆いたしました。

読後の違和感や恐怖を、少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。

もしよろしければ、皆様の解釈を感想などで教えていただけると嬉しいです。

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