完成 2
「千里さんはいらっしゃいますか?」
インターホンを連打しながら玄関から微かに聞こえる声は、先程の刑事の声に似ているような気がした。
千里は乱れた衣類を整えて、玄関の鍵を開けた。
「千里さん、良かった…」
千里の無事を確認した名雪だったが、次の言葉が出てこなかった。
千里が大量の血を浴びていたからだ。
手には凶器等は見当たらないし、本人の出血というよりも誰かの血を浴びたように見えるその姿に、起きてしまった事が容易に想像できた。
「千里さん、怪我はしていませんか?」
とりあえず千里を落ち着かせる為に、千里の身を案じて言葉を促す。
千里は首を縦に振り、名雪を見上げた。
「…父を殺しました」
目の前の優しそうな刑事もまた、父のように違う顔を持っているのだろうか。
「………お父さんがどの部屋にいるか分かりますか?」
もう何も思い出したくない。
けど、どうしたら良いのか分からないから、この刑事に全てを話すしかないのだ。
千里は父がいる部屋を指さした。
「状況を確認してくるので、千里さんは此処で待っていてください」
千里は未成年だが、親殺しは罪が重くなる傾向がある。
どうすれば少しでも良い方へと歩めるのか考えながら、千里が指さした方へと行くと、カーペットが不自然に捲れあがっていた。
カーペットを捲れば父親が横たわっていた。
見るからに命はないが、念の為に確認したが、もう絶命していた。
まさかこんな事になるとは想像もしていなかった。
今日初対面の人に以前加害されたと打ち明けられたとして、実の父親をそう簡単に殺すものだろうか。
考えを巡らしながら玄関へと戻ると千里の姿がなかった。
「千里さん?」
入った時にあった千里のものと思われる靴がなくなっていたので、外に出たと判断して急いで外を出た。
あんな血まみれの状態で外を歩いたらすぐに通報されてしまう。
外へ出ると、近くの川の方へ走る千里の姿が少しだけ見えた。
名雪は、急いで追いかけた。
普段はそれ程ではないが、昨日の大雨でこの辺りの川は普段より流れも早い。
「千里さん!」
川へ飛び込もうとしている様子の千里を呼び止めた。
「あいつは人じゃない。あいつは、事件の事を聞いたら人間の皮を捨てて悪魔になった!」
千里にゆっくりと近寄る。まだ話がある間は飛び込まずにいてくれるはずだ。
「事件の事も何一つ反省してない。軽い気持ちでやって、捕まって、損した。そんな最低な野郎だった…」
まだ、千里の飛び込みを阻止するには距離がある。
「私が少し責めたら、今度は私の事まで…襲ってきた………」
千里は顔を両手で覆い隠した。
「千里さんは、まだ未成年で自分の身を守る為にやった事だ」
近くで見る川の流れは、まだまだ治まってる気配はない。
こんな状態で流されたら助けるのは難しい。説得を試みるしかない。
「未成年は法律の元で保護されるし、希望すれば名前も変えられるし、名前や顔写真も公開されない。だからやり直せる」
名雪は千里の方に手を伸ばした。
「…俺の」
法律を述べただけの説得では心に響かないと思い、話をしようとしたその時だった。
「私…あんな奴の血をひいてる。そんな自分が自分で許せない」
名雪はもう距離をはかってる場合ではないと走り出した。
「謝って許される事じゃないけど、あの人に申し訳なかった、と伝えてください」
千里は名雪に向かって土下座をしながら謝罪すると、その身を川へと預けてしまった。
手を掴もうとしていた千里が土下座をする為に体勢を低くした為に、手を掴む事が出来なかった。
もう一度手を千里の方へ伸ばすが、水しぶきがあがり濁流に少女が流されていくのを見ている事しか出来なかった。
「どうして…」
名雪は消防と警察に連絡をして、必要な処理をしてから、坂崎に連絡をとったが、ナイフ所持の上、女性を襲っていた女は被害者不明という事で、一旦自由の身になっていたという。
「まだ未成年の彼女に何を言ったんだ?」
それでも名雪は、彼女の行先に何ヵ所か覚えがあったので、その一つへ行くと彼女はまるで名雪を待っていたかのように、たたずんでいた。
「当初の予定通り。あの男が自分の本性を覆い隠して大切にしている娘から断罪される。それが私が貴方にお願いしたプランだったでしょ?」
彼女は名雪の復讐代行の依頼人であった。
まるで、自分の事件など何もなかったかのように可愛い娘と幸せに暮らしている男に復讐したい。それが最初の話だった。
「突然見知らぬ男に襲われて、私は恐怖で動けなくなって、性的暴行を受けた。そのまま病院へ行って、心身のケアと証拠採取をお願いした」
どうして抵抗しなかったのか。そう何度も言われた。
命の危険があっても、それに関係なく激しい抵抗をしなければ性的暴行とは成立しないのであろうか。
何度そう考えた事だろう。でも自分の意志とそぐわぬ形で性的行為をされたのだから成立するはずだ。
それは事件当日の病院で採取した証拠からも明らかだった。
ただ怖くて、ただ痛くて、ただ悔しくて、ただ泣いて全てが過ぎ去るのを待つしかなかった、まるで生き地獄みたいなあの時間を私は永遠に忘れる事が出来ない。
そんな生き地獄の出来事を何度も何度も思い出して証言して、裁判にまで行って、それでも僅かな年数閉じ込める事しか出来ない悔しさ。
あんな男が出所後どう過ごしているのか知りたい。
そう依頼して、復讐代行人とかいうこの男が集めてきたデータは表面上で見るかぎりは、幸せな親子三人だった。
特に意外だったのが、娘をとても大事にしている様子だった事だ。
父親が前科持ちだという事を妻や子は知っているのか。
許せなかった。女性として最悪の事件を起こしているような奴と結婚する女がいる事。
何より事件なんてなかったかのように幸せに暮らしているあいつが。
私は、この長い年月をただ痛みと悔しさと苦しさと復讐心だけで生きてきた。
あの日から何も楽しみなんてない人生。あの男は私から何もかも奪った。
ただ生き地獄で生きるだけの日々。それなのに、相手は幸せに家庭を持っている。
そんな不合理が許せるはずもなく。
そんな私が提案したのが、娘に父親の前科を告げて、その件を断罪してもらおうというプランだった。
しかし、復讐代行人は事件とは無関係な家族、まして未成年の子を巻き込むのはどうなのか。
自分が生まれる前の事件を子供が知らないのは無理もないから、他の手段での復讐方法を考えよう。と言われた。
でも、私には今のあいつにとって一番大切なものから、罪を問われる事こそが最大の罪を認識させられる復讐だと信じて疑わなかった。
だから、復讐代行人の変更プランには同意しなかった。
「事件の事、その後の私の事、出来るだけ話した。そして、父親の前科を知らなかったのなら、貴方の口から父に罪を問いただして欲しい。私は彼女にそう言った」
彼女は名雪を指さした。
「その時に誰かが近寄ってきた。それが貴方達」
復讐代行人が現役の刑事だったとは思わなかったが、情報を収集するのにはもってこいだと妙に納得した。
「結局、私達はプランで揉めて共に復讐は行えないって結論になったのに、どうして彼女にこの計画を教えなかったの?」
名雪はどうしても復讐に未成年の子供を巻き込む事を良しとせずに、依頼は頓挫する形になった。
「…自分の正体がバレるから言えるはずないか」
千里に計画を教える為には父の事件の事を話さなくてはいけなくなる。
学校で孤立していたり、いじめられている様子もなく、千里も周囲にも前科の事は知られていないのであろう。
ならば、千里に罪はないのだから、彼女を巻き込む事はどうしても避けたかった。
「…千里さんは、貴方に言われた通りに父に事件の事を問いただした。でも、逆切れされて、襲われそうになった。だから、彼女は命を守る為に父親を殺した」
まだニュースには詳細が出てないだろうから、彼女は千里が父を殺した事、そして自ら命を絶った事は知らない。
「可愛がってたっていうのに、前科がある事を聞いただけで実の娘を襲いかかるとか、何処まで性根が腐ってるの…」
こういう事を恐れて復讐代行人は千里を巻き込む事を良しとしなかったのだろう。
「千里さんは、自ら昨日の大雨で増水した川に飛び込んだ。今も、彼女が救出されたという報は入ってきてない」
その言葉に彼女は目を見開いた。憎しみが関係のない子供を巻き込み、命を落とさせてしまった。
「あんな男の血が流れているのが自分で許せない。貴方に謝って欲しいと土下座までして、そのまま千里さんは川に飛び込んだんだ。事件とは何も関係ない子供から謝罪を得るのが貴方の復讐なのか…」
彼女の苦しみや長年の復讐心は理解出来た。だから途中までは手を貸した。
でも何も知らずに生きていただけの子供を巻き込むのまでは許されない事だったのだ。
男の性器を切断するとか、命を奪うとか、そういった事でなら協力出来た。
「…あの子は、家の近くの川へ?」
復讐は何も生み出さないというが、復讐が何も関係のない若い命を奪う結果となった。
「そうだ。近くの橋から飛び降りた」
彼女の体がもう少し成長しきっていれば、土下座して、そのまま橋から飛び降りる事は出来なかったんじゃないか。そうすれば、橋に上らないといけなくなり、助ける時間もあったんじゃないか、どうせ叶わないあれこれを考えてしまう。
「私を捕まえて」
彼女は両手を名雪に差し出してきた。
「貴方の罪は、千里さんをナイフで脅した件と、ナイフ所持の件でしか裁けません」
彼女は前科のある男の娘に、前科の事を話しただけだ。
自殺ほう助の意志はなく、問えても名誉棄損くらいのものだ。
「その件で呼び出しがあれば、素直に応じてください」
名雪が受けた依頼は完遂はしなかったが、出所後の加害者の情報を収集して、伝達したのは間違いない事実であり、その結果この様な復讐が、まだ幼い命を混乱させて命を奪ってしまった。
復讐代行人なんて許されるはずもない事は承知の上でやってきた事だが、復讐なんて間違いだという現実を突きつけられた。




