完成 1
「先輩、あれ…」
名雪と後輩である坂崎が歩いていた先で、曲がり角に消えた影があった。
「女性が無理矢理拘束されているように見えました」
坂崎の目には曲がり角に消える際に、明らかに不自然な歩き方をしている女性の姿が一瞬映ったので、その事を小声で名雪に話した。
聞き込み中で、拳銃どころか警棒さえ持ち合わせてないが、万が一事案であった場合を想定して、警戒しながら曲がり角へ向かった。
状況確認の為に少しだけ顔を出して曲がり角の向こうを確認するが、女性に見える人物が小柄な男性に押し倒されていた。
「警察だ!両手を挙げてこちら側をゆっくりと見ろ」
緊急性が高いと判断して、名雪は二人に声を掛けた。
小柄な男性は右手にナイフを所持している様子だった。そのナイフは女性につきつけたままで、左手は上げて名雪達の方を見た。
「!」
名雪は小柄な男性かと思っていたが、よく顔を見ると女性に見えた。
女性が襲われており、フードを被っていた姿に男性だという思い込みが発生していたと思われる。
「早く行って」
ナイフを女性につきだして、そう指示した声は十中八九女性である事が伺えた。
「早く!」
もう一度そう言われて、女性は震える体を抑えながら何とか立ち上がった。
「お前は彼女を追え」
どういうつもりか被害者の女性を逃がしたが、女は逃げる様子は見せず被害者が走っていくのを見て、ナイフを名雪達に向けている。
坂崎は被害者を保護すべく、被害者が逃げた方向へ走り出した。
「どういう事だ…?」
女は観念したのか、ナイフを手から離して、両手を挙げた。
「先輩、すみません。彼女を見失ってしまって…。応援を呼びましょう」
息をきらして帰ってきた坂崎の言葉に、女は微かにほほ笑んだように見えた。
「…逃げたのは被害者だろ。無事ならそこまでの緊急性はない。まずは、こいつの取り調べだ」
ナイフは確保してある。
あとは、この女が何をしようとしていたのかを確認するのが重要だ。
一時的に興奮状態となっていた可能性もあるが、角から姿を見失った僅かな時間と、悲鳴等が聞こえなかった事からすれば、被害者は軽傷程度で済んでいる可能性が高い。
まずは、この加害者から話を聞いて事実関係を整理する事が先決だと思われた。
先程の女性から行ってと言われて、そのまま走ってきた。
こんなに必死に走ったのは初めてかもしれない。
刑事らしき人が二人も来てくれたのだから、本当は刑事の方へ逃げれば良かったのかもしれない。
女性はナイフだけで拳銃は所持していなそうだったから、刑事の方へ走ろうと思えば出来た可能性はあった。
それでも彼女は走ってきた。今すぐに話を聞きたい相手がいたからだ。
「お父さん」
千里にとって、父は普通の父だった。
父にとっては初めての子供が自分で、生まれた年が遅かったから、とても可愛がってくれていた。と、そうずっと思ってきた。
「どうした、千里」
娘が話かけると、父はいつだって優しい表情を見せて、話を促した。
「私が生まれる前に、女の人に酷い事したって本当?」
いつもは娘の話をよく聞く父親だった。
今も耳は傾けている。だが、普段のように温和な表情を浮かべた父親の姿はもうなかった。
「本当なの!?」
娘の話をよく聞いて、相槌をうってくれていた父が今は無言だった。
「母さんから聞いたのか」
父は情報の出所を探ろうとしているようだった。
「そんな事、どうだって良いでしょ!?犯罪をした事がないのなら、ないってそう否定すれば良いだけじゃない」
あの人から聞かされた言葉、嘘だって信じたい。でもそれを嘘だと言う父がまだいない。
「…若い頃にちょっとな。イライラしてた時に良い女がいたからよ」
千里と名前を呼んで、千里をあやしてくれたのは母よりも父の方が多かった。
共働きで家事は苦手だったから、子供の面倒は父の担当になった。と、母がいつか話していた。
あの日々は嘘でも幻でもない。
「イライラしてたくらいで、どうしてそんな酷い事するの!?」
イライラしていた人にたまたま見られてしまった。
それだけの理由で、暴行されるなんて考えられない。
「だから、ついやっちまったって言ってんだろ…。その女が訴えやがったから、逮捕されて罪はもう償った」
訴えやがったとは何だろう。
突然、知らない男に襲われて恐怖と屈辱の時間を過ごした相手を逆恨みするような発言に、形だけの罪を償っただけで何も反省などしていない事がよく分かる発言だった。
どうせ訴えないだろうと、イライラしていたその解消に使っただけなのに、逮捕されてムカついてる。とでも言うのだろうか。
「女性にとって、そんな事されたら数年捕まった位じゃ怒りが収まらないって分からない?お父さんは、もう何もかも忘れたかもしれないけど、相手の人は今もずっと苦しんでるんだよ…」
千里と共にいた優しい父はもう完全に何処かへと消え失せていた。
この男なりに、優しい父を演じていたのだろうか。
「そんなの知らねぇよ。抵抗も出来ない相手が悪いんだろ」
ちょっとした悪戯のつもりで手を掴んだら、想像以上に怯えて、これならたいした抵抗もされなさそうだと思った。それだけだった。それ以上でも以下でもない。
「謝ってよ!あの人に謝って!!」
気付いてたら父の胸ぐらを掴んでいた。
「父親に対して何だその態度は」
しかし、反対に手を掴まれて押し倒された。
「あの女に何か言われたのか?清純ぶったって、お前には俺の血が流れてるって事忘れるなよ」
父親は娘の服を脱がそうとしている。
「何してるの?止めてよ!」
優しい父など、千里には存在しなかったのだ。
ずっと、いつ自分のものにしてやろうかと思いながら育てていた。
「少しお仕置きしてやらないとな」
あの日、あの瞬間は高揚感があって、イライラも収まったが、一夜のお楽しみで数年ぶちこまれるのは割に合わないと、結婚して、子供も生まれたから、どうにか自分を押し殺してきたが、今はもう妻に対して性欲なんて起きるはずもない。久々の夜は極上になりそうだった。
「止めて!!」
千里が必死で抵抗して、父の手が止まり、父は驚きの表情を浮かべていた。
「あんたは父親じゃない。悪魔…」
千里が隠し持っていたミニ包丁で父の腹を突き刺したからだ。
千里は包丁を抜いた。そうすると、勢いよく血が吹き出た。
でも、つい先程まで服を脱がそうとしてきた父の顔が怖くて、怖くて仕方ない。
だから震える手で必死に両手で包丁を持って今度は心臓の辺りをめがけて、力いっぱい差し込んだ。
鈍い感触が嫌だった。
それでも、襲われていた先程よりは怖くない。
「こんな怖い想いをさせてごめんなさい」
千里は今日会ったばかりの、父が以前性的暴行をしたという被害者の方へ謝罪した。
「これであの人は終わったから、これで貴方の恐怖が少しは消えると良いな。ごめんなさい、何も知らずにいて…ごめんなさい」
罪を償う気持ちすら持たずに、実の娘に襲いかかってくるような悪魔を見ていたくなくて、カーペットをかけて視界から消そうとしていた。
其処へインターホンが鳴った。




