過去と始まり 1
「春姉…助けて」
その女性は必死の想いで、携帯を手に取り春姉という人物に電話をした。
電話をかける際に着信履歴の最新にいた人物の名前を押そうとして、結局姉に電話をかけた。
「雪子!?どうしたの?怪我でもしてるの?今、何処!?」
ただならぬ妹の声と言葉に、春はすぐに助けに行けるように必要な情報を全て尋ねた。
「………身体中が痛い。此処が何処か分からない…」
自分の今の状態をまだ受け止める事が出来なかった。
場所は特に見覚えのな所だった。
「分かった。発信元から割り出すからこの電話切らないでいて。すぐに行くからね」
いつもの姉の声に安心するけど、いつもとは違う緊迫した姉の言葉に、雪子はまた涙を零した。
その後、勤務中だった春は上司に相談して、携帯の位置情報を確認して、二人の家からそれほど遠い場所ではなかった為、近くの交番員と現地で合流する事にして位置情報がさす廃工場へ突入した。
「雪子!!」
緊張感が流れる中、横たわる妹を見つけて状況確認もせずに駆け寄った。
「雪子、もう大丈夫だからね…」
服の乱れ具合と損傷状態から何が起きたのかは想像がついた。
春は自分が着ていたジャケットをかけながら、交番員に救急車の要請を依頼した。
雪子は全身に殴打等の痕があったが、命に別状はなく、骨折等の所見もなかった。
状況から推察された通り、性的暴行を受けた痕跡は残念ながら発見された。
これからは主にメンタルケアが中心となっていくだろう。
「雪子…、名雪が来てくれたけど」
そう雪子に伝えると、雪子は布団を被って震え出した。
「今日は帰ってもらうよう伝えてくるね」
雪子は知らせを聞いて来た父親に怯える様子はなかったので、男性が怖いというよりも名雪に会いたくないのだろう。
彼氏だからこそ今の自分は見られたくない。そんな心境なのだろう。
こればかりは時間が解決してくれるのを気長に待つしかない。
名雪と春は同期で入署した仲間だった。
急遽泊りになった姉に着替え等を持っていった時に出会った。
名雪も雪子も姓と名ではあるが、雪という字が入っており、名雪 雪子って連続すると、しつこい位に雪連呼だねって他愛もない話をしてた何気ない思い出だ。
「退院したと聞いたので、扉ごしでも良いからお話出来ないかと思いまして…」
退院して家に戻ったと春から聞いて、早速実家へお邪魔したが両親の表情は曇るばかりだった。
「ごめんなさい、雪子は今は家族以外とは話せる状況じゃなくて…。入院中も医師とも看護師とも、ほぼ会話出来なかったの」
母は深々と頭を下げて、このまま帰って欲しいと訴えた。
「…もしも、会えるような状況になったら春から連絡させるから、それまで待っていて欲しい」
父もそう告げて頭を下げた。名雪も頭を下げて、帰るしかなかった。
その日の夜、春にメールや電話でも何でも良いから話がしたいと伝えて欲しい。
そう連絡したが、本人がそう言ったらすぐに連絡する。としか春は言えなかった。
正直、家にいても何をするわけでもなく人形のように何処を見てるとも分からない虚ろな視線を浮かべてるだけの雪子に彼氏が会いたいと言ってる。なんて、とても言えるはずもなかった。
女性の方が話しやすいだろうと、メンタルヘルスなど色々と調べて、性的暴行を受けた方も多数カウンセリングしているという医師の元へ連れて行ったりもしたが、雪子は一言も会話をしなかった。
家族に対しても、食べ易いものを運んでいって、食べさせると少しなら食べてくれる。
薬も何とか飲んでくれる。それでも、成人女性が推奨されるカロリーには程遠い量しか食べれなくなっていた。
元々細身だったのに、今はさらに痩せこけて、もう以前の雪子を知っている人が見ても気づいてもらえないかもしれない。
「春姉…」
久々に妹の声を聞けて、春は嬉しくて痩せこけてしまった妹の顔を見つめた。
「…あの日、助けに来てくれて有難うね」
妹の目からは涙が溢れていた。
「一瞬だけ名雪に連絡しようと思ったけど、こんな私じゃもう会えないから春姉に電話したの」
今まで普通の会話さえ家族ともほとんどせず、まして事件の事なんて話さなかったのに今日はどうしたのだろうか。
「名雪は今も会いたいって言ってるよ。もう少し落ち着いたら電話でも直接でも良いから連絡とってみよう」
この溢れ続ける涙は何を意味しているのか。何が今かけるべき正しい言葉なのか。
「もう会えないよ。会いたいけど、会いたくないの」
何と妹に声を掛けたら、妹の気持ちを少しでも和らげてあげれるのか。
「私…助けを呼ぶべきじゃなかった」
久々に会話をしてくれた雪子は、また布団を被ってしまった。
それからは声を掛けても返事をしてくれなくなったので雪子は食器を持って、部屋をあとにした。
「雪子、どうしたの?」
あの事件の日以来の妹からの着信で動揺したが、息を整えてから電話に出た。
「春姉、本当は…一目で良いから会いたかった」
会いたかったというのは名雪の事だろうが、何故過去形なのだろうか。
「名雪とは会おうと思えばいつでも会えるよ。OK出ればあいつならすぐに飛んでくるよ」
嫌な予感がした。
「私、あの日助けを呼ぶべきじゃなかった」
数日前にも同じ言葉を聞いた。
「…どうせなら、殺してくれれば良かったのにね、私は此処から出るべきじゃなかった」
春は会話を続けながら、同僚に逆探知を依頼した。
「あの日ね、怪我?してる人がいたの。その人に救急車呼ぶか尋ねようとしたら、後ろから殴られて…意識が戻ったら此処だった」
春は外へと走った。
パトカーに乗り込んで、何の許可もとらずにランプを鳴らしてあの工場へ向かった。
「春姉、母さん、父さん、今まで有難う。ごめんね」
スピーカーにした携帯の向こうから、妹のか細い声が聞こえる。
「雪子!今すぐ行くから待ってて」
その声が雪子へ届く前に通話は、雪子から切断された。
「雪子!」
その後は記憶が曖昧だけど、無線であの廃工場に救急車を要請して、廃工場へ急いだ。
向かう途中で、父からも母からも着信があったが、今は早く現場へ急行する事が先決だと思い、電話には出ずに現場へ到着した。
「…雪子?」
まるでデジャヴを見てるような光景だった。
この廃工場で同じ場所に妹が横たわっている。
でもあの日と違って、妹の着衣の乱れはなく、代わりに首付近から大量の血液が流れていた。
「雪子!」
もうどうやって止血したら良いか分からない程の量が出血している。
あの電話を切った後、すぐに躊躇う事もなく自分で自分を殺してしまったのか。
春が廃工場に着いて数分後には救急車が到着したが、その場で死亡が確認された。
両親にその事を連絡して、悲しい対面を終えて、名雪に伝えるか悩んだ。
署内で春の妹と名雪が恋人同士である事は知れ渡っているから、伝えずとも名雪なら急いでやってくるだろう。
「春…嘘だろ?」
署内を駆け巡った話を信じられずに、名雪はこの部屋まで走ってきた。
「ごめん、電話してくれたのに止まらせる事が出来なかった」
この冷たい部屋に入ろうとする名雪を春は抑えつけた。
「…雪は、あんたに会いたがってたし、会いたくないとも言ってた」
恋人が性的暴行を受けて疎遠になっていくのは自然の事だ。
それでも名雪はずっと妹を思い続けてくれた。
「だから、今は待って。最後のお別れの時は化粧してもらうから、あんたには綺麗な顔を見られたいだろうから、今は入らないで。お願い」
春も刑事として鍛えているとはいえ、相手も鍛えてる男性刑事だ。
本気で名雪が抵抗すれば止めるのは難しいだろう。
けど、春は出来るだけの力で名雪を抑えた。
「…最後のお別れには参加させてくれ」
名雪はそう返すと部屋には入らずに、その場をあとにした。
「雪…、最後はとびっきり美人にしてもらってからさよならしようね」
妹は会いたくないと言っていたけど本当は会いたかったのだろうし、名雪の立場からすれば最後ぐらいは顔を見たいと思うだろう。
辛くて顔が見れないのならば、それで良いけど、見たいと思ってくれたのなら、全てが燃えてなくなってしまう前に会って欲しい。
顔がすっかりやつれてるから、なるべくふっくらさせてほしい。
彼氏が来る事になってるから、美人にしてあげて欲しい。
そんな無茶なオーダーをしたけど、流石はプロだ。
これなら、事件後の雪子を知らない人でもちゃんと雪子と認識出来るだろうか。
葬儀時間の最後の方にやってきた名雪は久々に見た恋人の変わり果てた姿に、雪子の名前を呼んで号泣して棺から離れなかった。
名雪としては、事件当日に前日から泊まっていた雪子と二人で出勤して笑顔で別れたあの日のまま時間が止まっていたのかもしれない。
それが、こんな形で再会を果たしたのだ。
「名雪…もう時間だ」
見かねて、名雪の上司や春の上司が無理矢理名雪を棺からひき離した。
「会場の外へ連れて行くから進めてくれ」
春の上司がそう小声で春に伝えてくれて、名雪は上司や他の同僚達に引きずられるようにして会場を出た。
何度か名雪の声が聞こえた気がした。
もう何も聞こえないフリをして、少しだけ遅れた葬儀は無事に終えた。
春も刑事として被害者の死には携わった事がある。
でも自分が遺族となって、こんなに小さくなった妹を見る日が、こんなに早く訪れるなんて想像もしてなかった。
雪子は加害者を訴える、訴えないの決断が出来る心理的状況になかった為、被害届は出されていない。
性的暴行は親告罪だから、雪子が訴えないまま亡くなった今となっては加害者が判明しても捕らえる事は出来ない。
雪子を襲い、心も体も深く傷つけて、そのせいで苦しみ自ら命を絶つという選択をしてしまったというのに、相手は逮捕される可能性すらない。
そんな事が許されて良いのだろうか。自分に出来る事は何かなかったのか。
考えてみても答えは出ない。
あるのは骨となってしまった妹にはもう二度と会えないという現実だけが残った。




